第五十話 実行の士、左近
「主馬殿、まだ我らは安土へ行かぬのか?」
「その様だな。まぁ、これは秀頼様を御守りするため、家康を討つという戦だ。安土に行けば活躍の機会は減るだろう」
「故に殿が迷っている、と?」
「そうではないのか?」
「甘いのう、主馬……。迷っているのは確かだが、それはどちらに味方するか、であろうさ」
「何!?」
佐和山付近に着陣したまま動かない、小早川秀秋の軍勢。それを司る二人の将が、秀秋の行動について話していた。松野主馬首重元と、志賀少左衛門尉親次。二人の侍大将は、戦を今か今かと待ちわびていた。
「馬鹿な、某は太閤様に豊臣性を賜っている。絶対に大坂方として戦うぞ!」
「お主が粋がっても仕方あるまい。我らが指揮できるのは全体の五分の一ずつに過ぎぬのだからな」
「えぇい、歯がゆいのう」
その時、堀田正吉が馬を飛ばして、二人の元へ駆け寄って来た。
「堀田殿。ようやく安土へ向かわれるのですか?」
「いや、行先は安土ではない」
「へ?」
「我らが向かうのは……あそこだそうだ」
正吉は南方の山々を指さした。
******
「という事は、秀忠は今中山道をひた走っておるのか?」
「左様にございます」
周防の説明を受け、奇襲を受けたばかりにも関わらず徳川方の士気は上がっていく。一切の連絡が途絶えた秀忠率いる中山道軍の進行状況が、遂に明らかになったのである。
「ようし、これで戦える。しかし、そちは何故こんなところに」
「主よりの命で、両軍の布陣を確認して来いと。我ら黒備えは寡兵でございます故、今しがた中山道を駆け下りましてございます。以前から連絡を取り合っていた氏盛様とも、すんなり合流でき申した」
「伊豆守の命か……それで丁度、我らの進行方向と重なったわけだな。いやはや助かったわい」
「勿体なきお言葉。まぁ私でも我が主の功でもなく、単なる偶然にござる」
周防は謙遜した。信幸ならばこうすると思ったからである。
「然らば、再度の奇襲あるやも知れず。藤堂殿、井伊殿の命を受け、我が北条軍が赤坂まで先導致し申す」
「かたじけない。皆の者、一刻も早く赤坂へ入るぞ」
「ハハァッ!」
のんびりしている時間は無かった。一万の兵で再度奇襲されれば、今度こそ命は無いのだ。
******
「急げ!内府が赤坂に着く前にもう一度総力を挙げて襲撃すれば、絶対にあの狸を討ちとれる!」
一方、奇襲を終えた西軍の四将は大垣城へ急いでいた。家康は討ち取れなかったが、戦果は上々。この勢いのまま、兵数を増やして夜襲をかければ、今度こそ家康の首を挙げられる。今は一刻も早く大垣城に出陣要請をしなければならなかった。が、義弘の甥・島津豊久が赤坂方面の異変に気づく。
「叔父上、あれを!」
「どげんした、豊久。む、あの明かりは……」
赤坂の数里手前に明かりを点けて目を光らせている軍があった。藤堂高虎、井伊直政である。四将は悟った。今三成が出陣すれば、逆に赤坂から打って出られて家康との挟撃策を取られ、圧倒的に不利な陣形となる。野戦は望むところだが、まだ田辺城、大津城から兵が合流していない……その事実が、彼らを踏みとどまらせた。
「これまで、だな」
「仕方なか。今日の夜襲は、ここまでにすっど」
「右に同じでござる。これは背後を突くための奴らの策やもしれぬしな」
かくして家康は、部下達の策によって夜襲を防いだのである。大垣城へ戻った義弘は、さっそく三成・秀家ら諸将に戦果を報告する。
「家康の首は取れず。じゃっどん、兵凡そ二百ば討ち取り申した」
「おおッ!それは素晴らしき戦果哉!」
沸き立つ諸将だが、三成と秀家は少々残念がっていた。
「うーむ、暗殺は出来なんだか。父上はやはり偉大だったのじゃのう」
「これで家康の赤坂入りは確実か……しかし島津殿、明石殿、新之丞。よくやってくだされた」
労いの言葉をかける三成の顔色は、不安で蒼白い。明日には家康の、金扇の馬印が立つのだ。そうすれば味方の士気は否応なく下がり、敵方の士気は上がる。この夜襲の成果もほぼ帳消しに成りかねない。
「……左近」
「ここに」
「着陣した瞬間を狙いたい。いけるか」
「御意に」
******
翌朝、家康以下三万弱の軍勢は遂に赤坂に着陣した。田辺城落城の報を受け落胆していた諸将や兵の士気も、大本命の到着により回復していく。
「方々、迷惑をかけたのう。早速軍議といこうではないか」
「はっ!内府様も無事で何より」
「まぁ道中は、大した賊なども出なかったでなぁ。のう、高虎殿」
「幸運でございましたな」
軍議の席につくと、見慣れない武将を見つけた諸将がざわつく。
「何だ、お主は。ここは万石取りの将が集まる場ぞ」
「某は主の代理にて。同席させて頂きたい」
「おのれ、聞き分けのない爺め!早う去ね!」
「よいよい。多目殿は真田の代理じゃ」
「真田の代理……た、多目!?」
関東の諸将はその名前に黙り込んだ。周防は顔色一つ変えず軍議の始まりを待っている。ざわつく西国の若年層も、家康の咳払いで静まり返る。
「さて、長政殿。かねてより申しておった毛利の調略じゃが?」
「はっ。返り忠の条件、吉川広家より書状で示して参りました」
「申せ」
「其の一、毛利家とその一門、本領安堵の事。其の二、主・毛利輝元が大坂方総大将と成りし儀、些かの罪にも問わざる事。この二つにつき、『内府様の承認の元』御守り頂きたいと言うておりまする」
「ふむぅ……」
家康は数瞬考えた。正直言って、毛利程の大大名は秀吉の様に味方につけるのではなく、この不祥事に乗じて改易してしまうのが理想なのだが……まずはこの大戦の勝利が先決。妥協策を取る事にした。
「あい分かった。承認すると伝えよ」
「書状が無ければ内応しますまい」
「む……直政、忠勝。頼まれてくれるかの」
「御意に」
少なくとも家康は毛利本家について、これ以上出来る事は無くなった。人事を尽くした総大将は、天を仰いで息を吐く。しかし、問題はもう一つ残っている。
「長政殿。小早川は……金吾中納言はどうか?」
「家老、平岡頼勝が、内応を確約してはおりまするが」
「決めるのはあの小僧じゃ。するのか、せぬのか」
「……」
ハッキリ言って、広家に比べれば確証は薄かった。だが長政は東軍の調略戦功を占めたいという野望がある。秀秋ならば、戦況が好転すれば必ず家老の言に従うと断じた。
「しまする。金吾殿は必ず」
「……よし、分かった。其方の言を信じようぞ」
「はっ!」
これは長政にとっても賭けである。その長政が感じている手応えに家康は賭けた。
「さて後は、敵方の数だが……」
「七、八万と心得申す」
「されば、大垣城攻めは困難を極めような。高虎殿、如何か?」
「はっ。野戦にて雌雄を決すべしと存じまする」
「方々、反論は?」
「……」
直政の推測に、家康、更に高虎が発言を合わせる。この辺りは流石だ、と忠勝は思った。皆、すぐにでも大垣城を攻めたいと思っているが、論理的に城攻めの難しさを説くことによって諸将の持論を野戦へと傾けさせる。
「ふむ。では後は、如何にして野戦に持ち込むかだが……」
「それならば、この長政が一計を用いてございます」
「ほう?」
長政は、自らが小早川に伝えた策を進言しようとした。その時である。
「御注進!敵兵五百、杭瀬川を渡って参りましたぁ!!」
「何?」
家康も高虎も直政も忠勝も、赤坂に入ればもう奇襲は無いと踏んでいた。その油断をついたのは、『三成に過ぎたる物』である。
******
「もうすぐ、美濃へ……うわっ!?」
同じ頃、木曽路を進み美濃へ渡ろうとしていた秀忠軍は、川の氾濫に悩まされていた。
「いかんな……最短経路が水害で消されてしもうた」
「しかし中山道は木曽川に沿っている故、ここを渡らねば……。雨が止めば渡れるやも」
「しかしな頼康。今日いっぱい、この雨は止まぬかも知れぬぞ?」
「むぅ、然らば強行渡河しかございませぬが……」
信幸は悩んだ。ここで強行突破すれば、明日には周防から連絡のあった赤坂に入れそうなのだが……。強行突破すれば、幾ばくかの被害が出るのは間違いなかった。
「万が一秀忠公が流されては、目も当てられぬ。忌々しい雨ですな」
「……」
「殿?」
「休む」
「は?」
「小休止ではなく、今日一日休む。川の氾濫が収まるのを待つぞ」
「えぇぇぇ!?一刻も早く着かねばならぬと言ったのは」
「俺だが、前言撤回だ。ここを強行すれば戦力削減に加えて、合戦に間に合っても疲労が祟るは必定。どこかで休まねばと思っておった」
事実、かなりの速度で飛ばしてきたため、二万五千の兵達の疲労はかなりの物であった。このまま赤坂入りしても、本来の力が出せるかは怪しいところである。
「しかしここで休んでは『本戦』に間に合いませぬぞ!」
「内府様ならば、秀忠公ご到着まで待つはず。ここまで来れば、急いでも仕方が無かろう。才蔵!」
「はっ!」
「近くの寺を借りて参れ。諸将を集めて、策を練る。あと村々に炊き出しもさせろ。帳簿はこれまで通り」
「御意に!」
「頼康。休憩の間に、架橋出来る地点を探し、橋を作る様命じろ。ただし、お前は休め」
「はぁ……」
信幸は体力の温存を優先させた。寺に入り、榊原康政、本多忠政、大久保忠隣らの重臣、そして秀忠に周防の情報を伝える。
「川の氾濫では仕方御座いますまいな」
「良い機会でござる。義兄上の策をお聞きしとうござる」
「では方々。某の考えでは……」
だが信幸のこの判断は失策であった。大津城・田辺城の落城により、家康には一刻の猶予も残されていなかったのである。真田源三郎信幸、痛恨の休息であった。
******
「三つ柏……あの旗は三成の懐刀・島左近では!?逃がすなぁ!」
杭瀬川を渡り、本陣に迫らんとする勢いの左近軍。中村一栄・有馬豊氏連合軍が立ちはだかった。
「鉄砲隊、構えい!」
中村隊の鉄砲隊が綺麗に並ぶ。その銃口を向けられて、さしもの左近隊も足が止まった。
「斉射じゃ、放て!」
――チュン、チュチュン。
渡河によって足に疲労が溜まっている左近軍は、次々と被弾。これでは突破は無理と踏んだか、左近は即座に退却命令を下す。
「くそっ、退却、退却じゃあ!!」
「逃がすな、鬼左近の首を取れぇぇ!」
左近の首級を挙げられれば、東軍の士気は一気に絶頂。さらには討ち取った者の立身出世は思いのままである。戦国武将の首には、逃げられれば追ってしまう魔法がかけられている。
その魔法により、中村・有馬隊の追撃は匹夫の勇、単なる深追いと化した。
「今だ!伏兵、射撃用意……ってぇッ!」
草の茂みに隠れていた左近の伏兵が、まんまと入り込んだ二隊に十字砲火を加える。
「ぐわぁ!?」
「ご、御家老様ぁッ!!」
中村家家老、野一色助義が被弾する。その隙を逃さず、同じく茂みに隠れていた宇喜多隊が出撃、助義は足を刈られると、後はされるがままに討ち取られた。散々に蹴散らされた後、中村・有馬共に命からがら撤退。被害は少数ながら、この敗戦により西軍の士気は再び頂点へ達したのである。
家康はその事実を、顔を覆いながら認識したのである。




