第四十八話 激動の情勢
「そ、染谷台の秀忠軍が姿を消しただと!?」
前日、前々日の豪雨が嘘の様に晴れた9月7日夜。昌幸は伝令の報に激高した。攻守交代したはずの標的を見失い、それも秀忠軍は小諸にも姿を見せていないという事実。当然の反応であった。昌幸の役目は、秀忠を一日でも多く足止めする事だったのだから。
「父上、秀忠だけでは無い様でございます……」
「源次郎?お主の物見からの報か」
「はい。砥石城の守り手は弟・※昌親にすり替わっているとの事」
「昌親?……まさか、まさか!?」
信繁は首を振った。そのしてやられた、という顔は信幸が砥石を軍勢と共に抜け出した事を示していた。
「流石は兄上、転んでもタダでは起きない。しかし、秀忠の到着前に家康を討てれば、大勢には影響しますまい。あとは三成殿の勝利を願うばかり」
「阿呆が!」
昌幸は信繁の胸倉を掴み上げる。驚いた信繁は目を見開いて昌幸を見る。
「父上!?」
「あ奴が……源三郎が今、美濃へ行く事。それがどういう事か分からぬのか!?」
「え?」
昌幸は地団太を踏み、七転八倒して己の失策を悔いた。九分九厘、上手くやっていながら最後の一厘を誤ったのだ。信濃・甲斐いずれかが昌幸の手に入ろうとしていたはずだったにも関わらず。
昌幸は信幸と、信幸の行動力を甘く見た自分を憎んだ。友である三成との激突は、絶対に避けると思い込んでいた。
「城外は……残りの相手兵数は?」
「仙石隊以下、ざっと見て一万以上かと」
つまり、三千程度の寡兵である真田にとって、仙石隊を抜いての追撃は難しい状況であった。西軍のために出来る事といえば、三成に文を書く程度の事である。だが目の前に仙石隊がいるうえ、既に木曽路は秀忠の軍でごった返しているだろう。本戦までに届くかどうかは非常に怪しい。
「……あの糞餓鬼めがぁぁ!!」
昌幸は大急ぎで殲滅策を立て始めた。まずは砥石城の攻略である。
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同じ頃、良く知る木曽路の先導を買って出た信幸は、頼康・才蔵らと共に馬を並べていた。ついて来るのは、本多・榊原・浅野などの秀忠軍・その数二万五千。負傷兵は当然置き去りにしてきた。
兵の装備は最低限にさせ、腰兵糧も捨て村人に炊き出しをさせた。過多な疲労を避けるため速さは遠く及ばないが、中国や近江での秀吉の大返しを真似たものである。当時の秀吉軍は備中から山崎までを、休憩や洪水を含めても十日と僅かで到達したというが、自分達はそれを含めなくとも十日かかりそうな事を信幸も秀忠も自覚していた。少なくとも9月10日には絶対に間に合わない。
「御侍様、帳簿のお金はしっかりお願えしますだ!」
「分かっておる、分かっておるわ!」
炊き出しをしてくれた村人に念を押される。借金は後払い、家康と小松が頼りである。それにしても用意する際の手間が半端では無く面倒くさい。正直、これほど前準備が大変だとはさすがの信幸も予想外であった。秀吉とその配下が如何に凄かったかを、信幸は肌で感じ取っていた。真似をしようとしても、まったく真似が出来ない。
――確か、大返しの時の炊き出し、帳簿を手配したのは……。
信幸はブンブン、と首を振る。今、その男は自分の敵なのである。敵の事を考えるのは、布陣後でいい。今は全力で木曽路を駆け抜ける事のみを考えるよう、体に指令を送り続ける。
「ところで殿、周防殿を先に行かせて良かったので?」
「構わぬ。というより俺から願う所だった。野戦における俺の策の要となるのは奴だ」
「策って……未だ戦場を見てもおらぬのに、でございますか?」
「……今の状況を最大に活かす策だ。使うか使わぬかは、お前の言う通り実際について布陣を確認してから判断する必要がある。そしてその役目は、無所属の周防が相応しいだろう」
「ああ、そういう事でございますか」
信幸が砥石城に戻った時、驚いたことに周防は姿を消していた。真っ先に寝返りを疑ったが、しっかりと黒備えから人質を残して行ったので安堵した。人質役が言うには『美濃の布陣状況を確認する役を引き受ける』との事であった。
見透かされていた様で癪に触るが、ありがたい話であった。美濃の戦況は逐一頭に入れておかなければ、間に合っても功が挙げられない。かといって美濃についてから信幸が右往左往すれば、西軍に捕捉されてしまう可能性がある。そこで、自由に動ける周防が諜報活動を行うと言う訳である。
「やはり奴は一流だ。俺の考えを読んでいる」
「手子生城でも危のうございました」
「ああ。だが、次の相手は……いや、深く考えるのは止めよう。才蔵、頼康。突っ走るぞ!」
「応!」
手子生城の時の周防より、更に厄介かもしれない。百戦錬磨の自分にそう思わせる男との対決を、信幸は想定していた。
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「戻ったか秀包、和睦の交渉の首尾は?」
「成らずございます、兄上。京極高次、中々どうして根性がある様でござる」
「ならば、再開するか。宗茂にええと……国崩しだったか。あれを打ち込む様伝えてくれ」
「はっ」
所変わって大津城。降伏の使者を何度送っても、高次は首を横に振っていた。守備兵の数は三千にも満たないというのに、援軍は中央決戦が終わらないと絶対に来ないというのに。高次は諦めていなかった。その根性に毛利元就の八男・元康と九男・秀包は感嘆した。
が、感心してばかりもいられない。このままでは自分達も本戦に間に合わなくなってしまう。そこで宗茂らが近江・国友の協力を得て再現させた、大友宗麟の大砲『国崩し』を城に向かって打ち込み始めたのだ。これに混乱したのは城内である。
――ボコッ、バキッ。
「何だ、城壁が打ち破られていくぞ!?」
「これは立花の大砲か!?不味い、これでは城内も安全ではないではないぞ!?」
「ヒ、ヒエェェェ!!また来たぁ!?」
当時の大砲は、着弾点で爆発する使用ではないため、当たりさえしなければ何のことは無い。早い話が、長距離で鉄球を投げつけられている様な物である。命中率も高くない。が、その鉄球は物理的に城を落すのではないか、というほどの力強さ・質量を持っていた。確かな恐怖を城兵に植え付けていくのである。
理不尽な話であった。何しろ高所からの長距離射撃なため、相手側の数は全く減っていないのだ。その事実が城兵の士気をみるみる内に下げていく。自分達は、ただ耐えるだけ。ただ人数が減るのを待つだけ。砲弾が自分に当たるのを待つだけなのである。むしろ城外にいた方が、恐怖感は薄いかもしれなかった。
――メキメキッ、バキッ。
そして砲弾は、天守に着弾した。
「あ、義姉上!義姉上ぇ!」
秀頼の母・淀殿の妹である高次正室・初が叫んでいる。守備兵の指揮をとっていた高次が初の元に駆けつけると、実姉である※松の丸殿が折れた柱の下敷きになっているではないか。大急ぎで救出し、頬を叩いて気付けをすると、微かに呻き声が聴こえてくる。その痛ましい姿に、高次は叫ぶ。
「くぅぅ……鬼畜なり宗茂、ここまでやるのかぁ!!」
高次の怒りが聴こえるはずもないが、近隣の高所で宗茂は溜め息をついていた。何しろ西軍は、全くの無傷。攻城戦なのに二万の兵を全く損なわず、一方的に砲撃を行っているだけである。本戦のためには四の五の言ってはいられないが、宗茂の好む戦い方ではなかった。
「親次でも連れて来れていれば、この様な苦労はなかったのだが」
宗茂は大友家時代に共に育ち戦った男、智将・志賀親次を懐かしみ、ポツリと呟いた。彼は主家大友亡き今、別の家で頑張っている。
――奴も心苦しいだろうが、これも乱世。こんな事を頼むのは某の本領ではないが、仕方ない。
「宗茂、如何した?」
「秀包、悪いがもう待ってはいられない。某は城兵共に名を成さしめてやることにした」
「突入か?上方からの命だぞ、本戦のためにも悪戯に兵数を減らすのは不味い」
「もう十分に士気は下がったろうよ。行くぞ、百名も失わずに落としてやる」
宗茂は、四千の兵と共に独断で三の丸に取り付いた。やむを得ず秀包、元康の軍も続く。9月9日の事であった。
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「遅い!家康殿は、一体何をやっておられるのか?」
「我ら公約通り岐阜城を落としたと言うに、いつまで清州で日和見をしているのだ!東海一の弓取りが聞いて呆れる!」
9月12日。軍議の場にて焦っていたのは赤坂の主力・福島正則、黒田長政である。大垣城は目の前であるというのに、肝心の総大将が来ないのでは話にならない。自分達だけで攻めてしまおうかと、そう言う話すら出てきている。
「御注進、御注進!」
「何だ、騒々しい」
「敵の毛利秀元、吉川広家の毛利本家と思われる軍が、この赤坂の南方……南宮山に陣を張りましてございます!」
伝令は緊急事態を二人に告げた。大垣城攻めを始めた際に南方から毛利勢が攻め昇れば、背後を突かれる。毛利本家の動員力は万単位、東軍にとって危険な位置取りであった。流石は毛利、と諸大名はざわついたが……。
「何だ、騒ぎ立てておいてそんな事か……分かった、下がれ」
「え?」
落ち着きを見せたのは黒田長政である。毛利の絶妙な布陣について、ただの一言も、一滴の汗も流さない。無表情である。他の大名が再びざわついたところで、タネを明かす。
「良いか皆の者。俺は唐入りの際に知己を得た吉川広家殿から、内応の確約を得ている。南宮山に陣を張ったという事は、大垣の連中に知られずに情報をやり取りできるという事だ。必然なのだ、必然!」
「オオオオッ!」
「つまり、南に陣取ったは味方という事か!」
「何と言う知略!流石は黒田官兵衛殿の御嫡男!」
「ハッハッハ、そう煽てるな」
気分の良くなった長政は、ソヨソヨと扇子で頬に風を送っている。ここで出遅れて存在感を気迫にすまい、と福島正則も負けじと知略を披露する。
「長政殿、吉川は良いが小早川は如何か?」
「小早川も使者は送っている。内応はすると言っているが……反応は毛利よりは芳しくござらぬ。裏切るやも。正則殿は何か?」
「フッ、小早川には……我が配下より密偵を送ってござる」
「み、密偵!?」
周囲がざわついた。という事は、内部事情が正則へ漏れる可能性が高い。敵側でも最大級の兵数を持つ小早川が味方となるなら、勝利はこちらにグッと近づく。だがもし味方にならなくても、敵軍の進軍方向や軍略の情報を握る密偵がいればどうとでも撃破が可能となる。
「そう言えば、家老の平岡が左様な事を言っておったな……その男、信用できるのか?」
「これは以前、金吾中納言本人から聞いている。儂から頂戴したあの男には一軍を任せている、とな。先鋒、次鋒……何れにしろ一軍の将だ。奴の行動次第では、金吾殿をなし崩し的にこちらに付かせられようぞ」
「おおっ、流石は正則殿!」
「賤ヶ岳七本槍、武勇だけではございませぬなァ!」
「ハッハッハ!おいおい、脇坂なんぞと一緒にしてくれるなよ」
長政、正則の軍略披露により、各将は活気づく。家康がいない赤坂での士気は昇り調子であった。家康の到着を待っている忠勝らはホッと一息をついた。
「直政、一体殿は何をしてやがる!とっくに赤坂の戦機は熟してるぞ」
「忠勝殿こそ、御嫡男からの報せは無いのですか?殿は秀忠公の到着を待っているのでござる!」
「俺が知るかぁ!いくら福島・黒田が盛り上げ上手だからって、この状態がいつまでも持つわけあるめぇ。このままだと奴ら単独でも大垣城へ突っ込むぜ!?」
「それは分かっておりまするが……我らにはどうしようも」
「お二人とも、落ち着かれよ」
仲裁に入ったのは、伊予八万石の小大名・藤堂佐渡守高虎であった。この赤坂に陣を敷いたのはこの高虎の策である。
「調略のために赤坂まで近寄ったのは良いものの……些か大垣城と近づきすぎましたな、高虎殿。殿の思惑とは逆に、野戦に持ち込み辛い」
「確かに、内府様の参陣が遅くなるのも、この位置では無理もないところ。が、御心配なく。内府様は清州をご出立なされたとの報が届きました」
「オオッ、ようやくか!」
「お静かに!間諜がいたら、進軍の隙を狙われますぞ!その裏をかくために、某だけに密使を送られたのです」
「す、すまん……」
忠勝の口を、高虎が物理的に塞いだ。どうやら家康は高虎を家臣並に信頼しているらしかった。二人にとって面白い話ではないが、それでも家康出陣と聞いてホッコリしている忠勝と直政の顔に対し、逆に高虎は神妙な面持ちであった。
「どうなされた高虎殿?まだ、何か?」
「いえ、直政殿に聞きたいのでござるが……この戦、『北条氏規』殿は御参陣で?」
「氏規殿?ハハ、妙な事を仰る」
直政は高虎の言を笑い飛ばした。氏規は家康の盟友にして、小田原で大名として滅亡した北条家の生き残りである。河内九千石の領地を得ていたが、三月にその生涯に幕を下ろしている。子の氏盛が後を継いだのだが、参陣しているという噂は聞かない。
「子の氏盛殿、徳川軍参加の意志は文にて示され申した。誰かの軍に混じって参陣していてもおかしくはない。で、それが如何されたのか?」
「いえ、配下がこの付近でうろつく北条兵と思わしき寡兵を見たと言うので、尋ねたまで。味方なら安心でござるな」
「へっ、どっちにしろ寡兵なのでござろう?寡兵で武田や羽柴軍を止めた俺が言うのもなんだが、そこまで気にする事もあるまい」
忠勝も笑い飛ばす。後は徳川軍の到着を待つばかりとなったせいか、意味深な話題は笑い話へと変換された。怪談話でもするかの様に、三人が仲良く談笑していたその時である。
「御注進、御注進!」
「何だ何だまたか、いいところなのによぉ」
「た、田辺城の細川幽斎様、昨日未明に降伏!敵の開城要請に応じましてございます!」
「何ィィ!?」
細川家当主・細川忠興の怒号と共に、赤坂・大垣の情勢は風雲急を告げていた。
※真田昌親……昌幸の四男。信幸・信繁・村松殿の弟。
※松の丸殿……秀吉の側室。彼女と正室・初の存在のおかげで高次は出世したと言われ、『蛍大名』と揶揄された。




