第四十二話 小松の城
昌幸は三成を七将が襲撃したという報を聞いてから、ここまでの流れの大体を読んでいた。家康が上杉討伐へ赴く事。三成が発起する事……。できれば黒田家の様に大坂の人質も引き上げたかったが、それは断念した。大坂方への忠誠、すなわち戦後の『旨味』が無くなるからである。
そして昌幸は計画を立てた。まず主筋は、上田城での籠城戦である。千鳥柵を強化し、弓鉄砲を補充。所々に罠も仕掛けた。草の者の配備も万全にしてある。例え何万の軍が来ようが、落とされない自信があった。
中山道を家康自身がくれば、討ち取れる可能性が生まれる。別働隊であっても、美濃で行われる本戦に間に合わせなければ戦功第一、信濃か甲斐一国を得るに値するはずである。
――ふっ、年甲斐もなく燃えておるわ。この儂としたことが。
昌幸は、自分が経験した中でも最も大きな戦となる事を予感していた。そのために、まずは信濃・上州の戦力を整えたい。狙うは嫡男の居城……沼田城である。
「兄上の留守を狙う、か……。左様な策があったとは」
「お前はいつまでたっても甘いのぉ。斯様な事は、戦国の大名なら誰しもやって来た事じゃ」
「存じておりまする」
「今は城代と、あの気丈な嫁しかおるまいて。参るぞ、源次郎。入れさえすれば、こちらの物よ」
が。昌幸と信繁の目に飛び込んできたものは、対面に構えられた夥しいほどの銃口であった。
「な……」
「待て、撃つでないぞ。儂は安房守昌幸じゃ。無礼者どもめが」
「おや、義父上様でございましたか」
窓から小松が現れる。胴丸に身を包んだその姿は、かの巴御前もかくや、と想像させる凛々しさであった。
――まずは威嚇。こちらの明確な敵意を伝え、戦意を削ぐべし。
「こら、小松殿。儂らは上田へ、再軍備へ向かう最中よ。急な往復で疲れた故、信幸の沼田で休ませてもらおうとした次第じゃ!」
「左様な報せは受けておりませぬが」
「急な用事だからのぉ。信幸はそのまま小山へ向かったわい。門を開けられよ」
「開けられませぬ」
「何だと?」
昌幸は猛った。主が開けろと言っているのに、開けない家来筋がどこにいるものか。
――次に行使。人数を絞った後、鍛えた武威を見せるべし。
「どうしてもというのなら、使者を一人だけ城内に入れられよ。二人以上動けば……容赦なく撃ちまする」
「……ッ!おい、行って参れ。敵意無きことを伝えるのじゃ」
「はっ」
伝令の一人が門から城内へ入って行く……が、数秒もせぬうちに悲鳴が聞こえて来た。
――恫喝。確かな恐怖を使者に与え、交渉を有利に進めるべし。
小松はいきなり使者の腕を待女に掴ませたと思うと、その待女と二人掛かりで腕を絞り始めたのである。当然、皮膚が千切れんばかりの激痛が生まれ、終いには腕から血が流れ出してしまった。
「ぎっやぁぁああ!」
「何だなんだ、その程度の腕力しか持っておらぬのか?」
「い、いきなり何をなさるのです、奥方様!」
小松は怪しげな笑みを浮かべると、名槍・小松明を突き翳して使者に問う。
「表裏比興の義父上に伝えよ!この城が欲しくば、正々堂々と弓と槍で突き崩せとな。本多忠勝が娘にして真田信幸が妻。小松姫が尋常にお相手致す!」
「んなっ……我らは休息を!昌幸様は、孫の顔が見たいと、そう申しておられるのですぞ!奥方様は人の心を失くされたか!」
「黙れぇぇぇい!」
小松は両の掌で、使者の両頬を思い切り叩く。乾いた音と共に、物理的に使者の口は閉じられた。
「夫のためなら、人の心など失って結構。良いか、この城を枕に死んだとしても、ただでは絶対に渡さぬ!渡さぬぞ!」
「こ、小松様……」
「去ね!そなたも真田の兵、命までは取らぬ」
「は、はぃぃい!」
逃げ帰る様に門から出て来た使者を、昌幸と信繁は茫然と出迎えた。
「父上、攻め落とすのも一興かと。如何に義姉上とはいえ、戦は素人なれば」
「無理だ、攻城用具が無い。それに、ここで被害が出れば上田での戦が不利になる。それに」
昌幸はちらりと、雨戸から睨んでいる小松を見た。あの鷲の様な眼。以前この沼田で見た、本多忠勝に瓜二つ……。
「あの娘は、戦を知っておる。ここで下手に兵の士気を下げたくはないしの。ここは引くぞ」
「しかし、沼田は上州の要所ですぞ」
「戦線が伸び切るのも、寡兵の我らには不味い。そう考えれば沼田は切り捨てて問題はない。先ずは上田じゃ、源次郎」
「……はっ」
「小松殿!孫によろしうな」
昌幸は大手を振って去っていく。その大らかさに、城内ではどちらが勝者なのか、一瞬の迷いが生じた、が。
「お前達、何をしている?」
「え?」
「勝鬨を挙げよ!まごう事無き、我が軍の勝利ぞ!」
「お、おぉ……」
「声が小さぁい!」
「オオオオオオッ!!」
城が激震していた。ビリビリと伝わるその衝撃が、耳に、脳に心地良い。勝利の美酒。小松はあまりの高揚感に、濡れてさえしまいそうだった。
――父上、ダンナ。これが、勝利の味なのですね。ああ、最高……。
戦国最強の呼び声も高い『表裏比興』真田昌幸を相手取り。小松は武を持って、紛れもなくこの沼田を守り切ったのである。
「奥方様、これから如何致します?」
「おっと、そうであった」
酔いしれてばかりはいられない。次の策を講じる必要がある。小松は手際よく、沼田、そして上田城下の民を接収する様、城兵達に命令を下した。
「何故にでございますか?」
「阿呆、人質にすれば上田城の兵達の士気も下がろうが」
「え、えげつな……」
「何ィ!?」
「い、行って参りまする!」
小松は戦をしているのだ。常に興奮の真っただ中、まさに狂い猪であった。
「ははうえー」
「さて、と。参るか、次郎」
息を整えると、今度はもう一つ。武家の妻としての役目を果たす為、護衛と息子を連れて城外へ出て行った。
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一方の大坂では、三成の計画に多大な狂いが生じていた。七月から攻め始めた二千人足らずが守る城を、三万を超える兵を動員しながら、落城に二十日以上もかけてしまった。もう八月である。おかげで美濃の制圧計画は尋常でなく遅れる結果となった。
「ようやく……伏見城が落ちたか」
「鳥居元忠。敵ながら恐ろしい武将であったわ」
「吉継殿。士気は……」
「半々だな。上がったともいえない。三万で二千をすり潰す戦法だからな……」
「……」
早くも暗雲が立ち込めていた。だが、迷ってはいられない。三成と吉継は、家康を美濃に誘い出して討ち取る腹づもりであった。そのためには、大坂方に有利な布陣を先に敷いておく必要がある。即ち高所を抑える事が肝要なのである。
そのためには、美濃の調略が一刻も早く必要なのである。
だが三成は、大軍を得ていい気になっていた自分に気づく。大軍で攻めた時、寡兵が死兵となって向かってくる……。忍城でもそうであったが、あの恐ろしさはどの人間にも備わっている『底』の部分。大軍相手では、どうしてもそれを呼び起こしてしまう……。
「しかも、人質を利用して甲賀衆の裏切りを誘った……数の差に加えて、こんな汚い戦法を……本当に、我らは官軍か?」
「たわけた事を抜かすな!賊軍を官軍に変えるのは戦争の仕方ではない、大義名分じゃ!大将がその様な事、二度と口にするでないわ!」
大声を出した吉継は体に痺れが来たらしく、しばし蹲っている。叱咤してくれたおかげで、自信なさげだった三成も立ち直った。
「すまぬ、言い過ぎたな。そう神妙な顔をするな、三成。誰しもあのような抵抗が出来るわけではない。元忠も、上田城で戦い方を学んだのであろうよ。元々強者なのに、鬼に金棒となっていた。そりゃあ、二十日もかかるわい」
「上田か……真田は上手くやってくれるだろうか。万の軍勢を相手に」
「昌幸殿と婿殿、それに伊豆守殿なら上手くやるだろう」
「そうだな、伊豆守なら……」
三成は上田の方向を見やる。
――俺は……秀頼様を守り抜くだけだ。救ってやれるのは、気概を持つ俺だけだ!
吉継、兼続、信幸。戦っている友達を信じて、自らの責務を全うする。それが三成の最善策であった。
その友の一人が、既に徳川方についているとも知らずに。
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「よいよい、源次郎。沼田は所詮行きがけの駄賃じゃ」
「しかし義姉上も非道なお方。甥の顔ぐらい見せてくれても良かろうに……」
「まぁ、さすが本多平八の娘、としておこうではないか」
結局昌幸の一行は、道中にあった寺に止まる事になった。沼田城に未練のある信繁を、昌幸は宥めている。と、そこへ一報が届く。
「お、奥方様が……いらっしゃいました」
「は?山手の事か?」
「いえ、小松の方様でございます」
「何だとぉ!?」
何と小松は、少数の護衛に酒とつまみを持たせ、昌幸達を労いに来たのである。即刻、人質とされる可能性があるにも関わらず、敵方にほぼ単身、乗り込んで来たという事になる。
――馬鹿な!?
呆気にとられたのは昌幸である。この大胆さは、仮に彼女が男でもネジが外れていると言わざるを得ない。そのぐらい有り得ない行動である。
「義父上。源次郎殿。ご無沙汰しておりました」
「先程会うたばかりですぞ、義姉上」
「敵将としては、左様で。今は真田の家族として、息子の顔を見せに来た次第」
「……」
――大物め!
昌幸は、先ほどの戦は引き分けのつもりであった。しかしここまで踏み込まれた以上、どう見ても自分の負けではないか。この事実に基づき、昌幸は笑い出した。
「フハハハハ!武家の娘とは、こうでなくてはなぁ!」
「ち、父上?」
「飲もうぞ信繁!この戦、我らの負けよ」
「じいさまー」
「おお次郎!近う寄れ」
今膝に抱いている次郎を、人質にとる事も出来る。しかし昌幸はそれをしない。武門の誉など犬猫に喰わせればよい。だが、この瞬間は家族なのである。それをしてしまえば、器量においてまでも完全に目の前の娘に敗北してしまう。『徳川の娘』に、である。それだけは、昌幸に残る誇りが許さなかった。
――婚姻の件。信幸に判断を委ねたのは、やはり失策であったか。
昌幸は上田道中で、密かに後悔していた。だが、悔やんでばかりもいられない。恩賞を確実にするために、今一度三成へ念を押す必要がある。
「治部少輔へ、文を出せ。我ら盟約通り、上田城へ籠城致す」
「兄上の事は、どういたしまするか」
「……」
昌幸は悩んだ。信幸が徳川方についたと書けば、友たる三成は落胆するだろう。
下手をすれば、甲斐・信濃の恩賞は反故にされかねない。昌幸は信幸との別離を捻じ曲げる事にした。
「信幸も、快諾したと伝えよ。それに加え、もしかすると我らも美濃への着陣が叶うやもしれぬ。その時のため……そうだな。予想布陣図が欲しいと伝えよ」
「ああ、それは必要ですな。徳川軍を追撃した末に、合戦に雪崩れ込める」
「そういう事だ。何事も備えが肝心だからな」
昌幸は万全の備えを終えたつもりでいた。しかし、この時……天下を左右する失策を犯した事には、全く気付いていなかった。
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同じ頃、信幸は小山を出発前の二代目、徳川秀忠に面会していた。
「秀忠様、お久しゅうござりまする」
「伊豆守か。此度はそちに上田までの道案内を頼みたい。心苦しいであろうが……」
「滅相も無い。もう親族とは思っておりませぬので。お心づかいのみ、受け取っておきまする」
「うむ。では先鋒は任せるぞ」
「御意に」
信幸は少なからず驚いていた。一族衆の秀忠に総大将を任せるのは良いとしても、問題はその数である。三万八千。しかも榊原、大久保らを含む主力部隊を組み込んでいるではないか。
「若様は、心躍っておいででしょうな」
「ん?この大軍か?まさか、初陣で斯様な大軍の指揮を執らされるとはなぁ……父上も豪気な事よ。ハハハ」
「……」
家康の意図を、信幸は考える。利益。秀忠に手柄を立てさせると同時に、後に跡目を譲った時のため、大軍の指揮を経験させられる。不利益。家臣の統率が執れるかどうかが非常に怪しい……。
この不利益を解消するため、家臣は徳川の精鋭で固めたのだろう。外様は信幸や仙石秀久など、ほんの少数であった。なるほど、これなら初陣でも指揮を執り易い、と信幸は感心した。
だが、感心してばかりもいられない。問題は信幸自身の身の振り方である。なにしろ、上田城で待っているのは日ノ本一の鬼謀の持ち主……父・真田昌幸なのだから。
「才蔵」
「はっ」
「この文を遣わせ」
「何処へ、でございますか?」
「……」
できるなら、使いたくなかった戦力。信幸は解放する決意を固めた。
「多目周防守殿へ、だ」




