第四十話 運命の出陣
「小早川中納言様。申し訳ございませぬが、大坂へ向かって頂き申す」
「お、大坂?済まぬが我らは会津へ急がねばならん。通るぞ」
「待って頂く!」
「無礼者、通さぬか!」
「大老・毛利輝元様の命にござりまする!毛利家一門と御成あそばせた秀秋様が、主の命に背かれるおつもりか!?」
「何ぃッ!?輝元公だと?」
関所では毎日の様に、諸大名が網に引っ掛かっていた。三成は西国大名が上杉征伐=家康の戦力として会津へ向かうのを、どうしても阻まなければならなかったのである。
大坂で秀秋を出迎えたのは、唐入りで一緒に戦った立花宗茂、そして義兄と仰ぐ小早川秀包であった。
「義兄上、これは一体?」
「うん。我らにも急な話で、混乱しているのだが……どうやら敵は家康。上杉と毛利の挟撃策を結構する様でござる。金吾殿は何かお聞きで?」
「な、内府に弓引くのでございますか!?左様な事……」
そう、常識で考えれば出来るわけがないし、やってはいけない事でもある。しかし、それをやってしまう人物がいるのもまた、この乱世であるのだが……。
「草案は治部殿が描いたらしい」
「三成が?」
「某は治部殿には一定の信頼を置いており申す。それにこの先、内府殿の独裁になるのは目に見えているし……」
「この決起、そう悪くは無いと?」
「左様。統虎……じゃなかった、宗茂も同意見にございます」
西国無双は腕組をしながらゆっくりと頷いている。宗茂と秀包は、秀吉公のお蔭で大名・官位を貰ったという恩がある。家康の独裁は豊家の傀儡化を意味するため、この発起に賛同するのも頷ける。
そして秀秋自身も、豊家に大名にまで取り立てて貰ったという、多大な恩がある。あるのだが……。
――果たして、純粋に義理人情で動いて良いものか?
秀秋の苦悩……大いなる迷いは、ここから始まる。
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「人質は丁重に扱う様」
「承知しております、毛利中納言様」
大坂城。三成は輝元に頭を下げていた。
「宇喜多中納言様も、首尾よく願います」
「分かっておる。豊家の政の為だからな」
総大将に輝元。副大将に宇喜多秀家と二人の大老を代表に置くことで、完全な寄せ集めの軍は太閤の遺志を継ぐ官軍へと変化する。兼続から授かった策であった。
毛利は家康・利家に発言権を奪われ、領土こそ広大だが中央への影響力が日に日に弱まっていた。誘いには必ず乗って来る……と三成は見ており、見事的中した。宇喜多はもはや豊家の一門であるため、三成の掲げる大義名分には迷わず乗って来た。
まずこの二人を取り込めなかったら、その時点で三成の戦は終わっている所であった。まずは第一関門を突破したのである。
「島津と立花を吸収できたのは重畳であるな」
「しかし毛利殿、彼らは『唐入り』の影響で動員力は共に二、三千程度。特に島津は、本来なら我が宇喜多と伍する石高でござりますれば……」
「確かに、島津が万ほどおれば心強かったが、過ぎた事を言うても仕方がない。西国大名は良いとして、肝心の信濃はどうする?内府も正面から全部隊をぶつけては来るまい」
そう、徳川の動員力は七万を超える。それらを一塊にして進軍させるのなら、三成らにとっても嬉しい事である。機動力に欠ける大部隊が相手なら、如何様にも奇襲ができるし、上手く輜重隊を狙えれば家康は長期戦が出来なくなる。
だが勿論、家康はそんな愚を冒さない。間違いなく、複数に部隊を分けて二方向から進軍して来るはずである。とすれば、今現在小山にいる家康が東海・信濃へ進行する事は、ほぼ確実と言えるだろう。三成の観点からすれば、この二つの部隊のどちらかを足止めし、各個撃破(といっても一つにつき三万以上の部隊であるが)したいのである。
そして三成は、既に一計を講じていた。
「真田に任せまする」
「真田?七万石の小大名ではないか」
「彼らを侮ってはなりませぬ。上田合戦では、二千の兵を使って七千の徳川軍を追い払った家ですぞ」
むう、と輝元は髭を弄びながら唸る。秀家も右に同じ反応だった。どうやら実績については、半信半疑の印象を拭えないらしい。二者は三成程には真田を信頼していなかった。
「まず、上田を素通りされれば野戦ぞ。真田の三千の兵では野戦には勝てぬ」
「心配ご無用。三河武士なら、絶対に雪辱を晴らすべく上田城を攻めまする」
「だが今回は少なく見積もっても二万。いや、三万だぞ」
「能いまする。真田安房守と左衛門佐、そして伊豆守信幸なら必ずや!」
三成にここまで言われては、両者も信用するしかなかった。総大将ではないにしろ、戦略指揮は三成が執る事になる。豊臣一門の宇喜多はともかく、毛利は最悪の場合、三成に全責任を押し付ければ良い……という覚悟もしていた。
――ここは、素直に言を聞き入れるか。
輝元は首を縦に振った。この快諾により、西軍の戦略は定まった。
「よし。集まった西国大名の力を結集し、東海道を折り返してくる一方の賊軍を……迎え撃たん!」
「はっ!」
秀家の言葉には、闘気が漲っていた。
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一方、小山へ向かう真田家の部隊。沼田の信幸は、上田の昌幸・信繁の部隊と道中で合流する手筈になっていた。
――何も起こらねば良いが。
「ほら次郎、父上にいってらっしゃいませー、って」
「ちちうえー!いってらっしゃいましぇー!」
相変わらず子煩悩な小松は、三つになった次郎を連れ出して見送りに来ていた。母になってなお眩しい爛漫さからは、悲壮感は微塵も読み取れない。信幸が討死するとは思っていないのか、それとも覚悟が出来ているのか。
決まっている。小松ならば、後者である。信幸は、父として、夫として出陣するのは今回が初めての事である。だが小松のおかげで、明るい門出になりそうであった。
「ダンナ、生きようと思ってはなりませぬよ」
「分かっている」
「忠朝によろしくお願いします。どっちかと言うとあの子の方が心配でございます」
「お前なぁ」
「ダンナ」
「何だ、まだあるのか」
小松は甲冑姿の信幸の肩を優しく包み込み、耳元で優しく囁いた。
「もし、岐路に立たされ……二者択一になったら、迷わず私を切り捨てて下さいませ」
「二者択一?」
「そんな選択を、迫られる気がするのです。案じ召されるな、私は恨み申しませぬ。ダンナの非情なところも好きだから」
「……何を言っておるのか分からぬな」
「努々、どちらもとろうと思い召さるな。優柔不断は武将の恥なれば。必ず、択一の選択を遂げるのです」
「小松、一体……」
「愛しておりまする。ご武運を」
――カッ、カッ。
「…………まぁよい、心に留めおこう。方々、出陣じゃ!」
「オオオッ!」
小松は火打ち石を鳴らして、信幸の安全を祈願した。信幸は清々しさと不吉な予感、両方を抱えた出陣となった。
表情には出さなかったが、小松は信幸よりも、ずっと大きな不安を覚えていた。少なくともこの戦が夫と、自分の人生の岐路となる。それだけは確信を持てた。分からないのは、その代償に夫が何を払うか。その一点だったのである……。
******
「何だとぉぉ!?」
驚愕の声を挙げていたのは小山に陣を張った家康である。京極高次ら、家康と親交のある諸将からの密使の言により、三成が二大老・三奉行と共に家康討伐軍を立ち上げた……つまり一連の謀反の報せが届いてしまったのである。三成が何かやらかすかもしれない、とは考えていた徳川一行だが……。
「まさか、二大老……上杉を加えて三大老と三成を加えて四奉行が敵だなどと!」
「これは、悪い夢じゃあ……下手を打てばこちらが賊軍ぞ」
戦場では恐れを知らぬ猛将、井伊直政と榊原康政の二人でさえ、この慌て様である。忠勝は黙していたが、その顔からは流石に焦りが見えた。結局、切り替えが一番速かったのは他でもない、家康本人であった。
「……過ぎた事をうろたえても仕方がない。かくなる上は、上杉に蒲生、里見ら一万五千の備えを残す。守り手は秀康。残り六万で美濃へ向かうぞ!」
「上杉は放っておいても良いので?」
「南下さえさせなければ放っておいても構わぬ。何せこちらは文字通り、負ければ賊軍じゃ。中央の戦いを優先するぞ」
「御意!」
「黒田長政、福島正則を呼べ。評定で一芝居打つぞ。豊臣恩顧を儂の元で一丸としてから、満を持しての出立じゃ」
「ははっ」
敵の懐に入る不利を知って尚、家康は歩みを止めなかった。一つ、気がかりは未だ姿を見せない真田親子の事であった……。
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佐野・犬伏の昌幸陣地に到着した信幸は、とうとう昌幸から三成挙兵の情報を聞くに至った。
「見よ信幸。治部少輔が挙兵したぞ」
「は?」
「内府の討伐じゃと。ほれ、儂に加担する様、書かれておるわ」
「お見せ下され!」
青天の霹靂である。信幸は昌幸の手から強引に書を奪い取ると、一笑に付した。
「偽書でござる」
「いや、本物だ。現実を逃避したい気持ちもわかるが」
「兄上、某も本物であると考えまするが」
「残念ながら、字が綺麗すぎる。三成の字では有り得ない。偽書で間違いない」
信繁はその洞察力に感服し、昌幸は気づかれぬように舌を打つ。信幸の考えは当たっていた。これは昌幸が用意した偽書である。花押も何とか真似をして書いた芸術品であるのだが、三成と頻繁に文のやり取りをしている信幸には通じなかった。
「こんな大事の手紙ぞ。丁寧に書くに決まっておろう」
「三成の字の汚さは天然でござる。丁寧に書いたとてたかが知れており申す」
「むぅ……」
三成の挙兵は、誤報ではない。昌幸の元には、本物の文が届いていた。だが、信幸が挙兵に賛成した、という昌幸の策まで書かれていたため隠蔽し、信幸には別の書を見せるに至ったのである。
――このままでは、手際よく上田に帰れぬ……。
昌幸は信幸を煩わしく思った。幾度も思ってきた事であったが、何もかもが優秀すぎる。思い通りに動いた試しがない。必ず期待の上を行ってしまう、出来過ぎた嫡男であった。
だが、天は昌幸に味方した。
「殿。大坂の密偵が戻りましてございます」
「密偵?俺は帰還命令を出しておらぬ」
「実は……」
「……あんの阿呆がぁぁぁぁぁ!あれほど、あれほど言ったであろうがぁ!!」
今度こそ、怒り心頭であった。大坂に潜ませていた忍から、とうとう三成発起の報せが届いたのだ。今度は間違いでは有り得ない。信頼する忍からの報なのである。
そして、その忍以上に信頼する三成から、裏切られたと感じた信幸は、地団太を踏み、周りの草木を殴って回る。
「どうやら、本当だと分かったらしいな、信幸。忍に感謝するのだな」
「何故、何故に直江兼続の言を聞き入れるのだ!あいつは上杉の事しか考えておらぬ、そのためならば何をしても良いと考えている俗物だぞ!?」
「兄上。落ち着かれよ」
「何だと……!?いや、待て。お前は何故落ち着いている、信繁」
その言葉に、信繁は冷や汗をかいた。そうなのだ。今回の様な緊急事態を目の当たりにして落ち着き払っている信繁など、今までみた事は無い。慌てるか燥ぐか、何等かの反応があるはずなのだ。
信幸は一つの疑念を抱いた。
――こ奴……知っていたのか?いや、そんなはずはない!
上田の監視は確かに怠っていた。もしかすると……昌幸が三成に密使を送った可能性があるが、信幸は思考を止めた。身内が友人を逆賊に追い込んだなどと、とてもではないが考えたくは無かった。
「チッ……如何なさいますか、父上」
「……そこの庵を借りた。談合で真田の身の振り方を決めようではないか」
「妙案にござる」
「才蔵、佐助。我ら三人だけの話し合いだ。蟻一匹通してはならぬぞ」
「はっ」
昌幸、信幸、そして信繁の三人は、犬伏にある小さな庵へと入って行った。
「おい、佐助」
「何だ」
「お前、先日留守にしておったではないか。何をしておったのだ」
「……さぁな。手前で考えろ」
才蔵は主の心の崩壊を心配した。あの戦の鬼……鉄仮面の様に冷酷だった信幸が、この頃は家族・友人と仲睦まじく、幸せな人生を享受している。その事が才蔵には嬉しかった。だがそれも、今日にて終わりを迎える様である。
――治部少輔殿は、もう助からぬ。しかし我が主のため、どうか、どうか真田が割れませぬように……御仏よ!
才蔵は生まれて初めて、手を合わせて仏に祈った。だが。昌幸は三成の合婿。信幸は家康の娘婿……。一丸となっていた真田が分裂する可能性は、極めて高かった。




