第三十八話 二人の友から三成へ
「つまりだ、治部少輔殿。其方がいる限り、大老・奉行制は機能しない。殿はそう申しておるのだ」
家康の代弁を担当したのは四天王の一人、井伊直政である。三成は仇を見る目で家康を睨み付けている。
「不満を持つ者が多いという事は、そちの決定に賛同する事も少ない。ならば、他の優れた政治家に任せるが良策」
「奉行を辞せ、と」
「左様」
「その処置は無用でござる」
三成は食い下がった。ここで中央から排除されてしまえば利家も消えた今、家康の独裁を止められる者はいない。秀頼を守る事が出来なくなる。
「其方の我儘で天下を混乱させるつもりか、治部少輔」
「家康殿こそ、誓書の約束事を破り、諸大名と婚姻を結んでおるではないか」
「豊家との繋がりを強め、大老制を機能させんがため」
「ぬけぬけと!前田家や上杉家は左様な事はせなんだぞ!」
「治部殿!お控えなされ、筆頭大老の前でございまするぞ」
「其の方こそ黙れ、井伊侍従!」
三成はどんどん頭中の温度を上げていく。その様子を見た家康はほくそ笑んでいるのか、憐れんでいるのか。複雑な表情を見せた。忠勝は胡坐をかいたまま黙している。三成としてはここで斬られれば命を失う代わりに家康を逆臣にできる。逆に家康は豊臣との戦のための火種として、三成の存在が必要不可欠なため、殺せない。ここで三成が完全に消えれば、豊臣は団結してしまう。
だから、いつでも復帰できる状態で蟄居して貰う必要がある。これは三成が最も望まない形であった。
この時、家康と三成、双方の言い分に決め手が欠けていた。が、ここで思わぬ方向から横槍が入る。
「殿、直江山城守殿から書状でございます」
「何?」
驚きの声を発したのは三成の方であった。家康は蝿を払う様に書状を開くと、クスクスと笑い始めた。
「治部殿。直江殿も、儂と同意見の様だ」
「そんな馬鹿な!?」
「『此度の件、大老上杉景勝が言をお伝えしたく。治部少輔三成を佐和山に蟄居せしむるが上策と存じ申し上げる』」
「有り得ぬ、偽書に違いない!兼続が左様な書状を送るなど!」
「花押がある。つまり、これは大老二人の意見にて。利家殿亡き今、御従い下されるな?」
「ぐっ……」
三成は唇の血管を何本食いちぎったか分からないほどに強く歯を食いしばり、怒りに満ちた表情を見せた。
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という一連の流れを、ようやく信幸は慶次郎から聞き終わったところであった。
「で、その後は?」
「太閤が生きておったころは、大老衆は大坂・伏見に留められ続けておっただろう?家康はそこを狙って、新体老・前田利長を含む四大老に帰国の許可を出したのじゃ。言うまでもなく、皆嬉々として帰って行ったわ。我が上杉も、今は領国経営に汗を流しておるぞ」
「……」
信幸は、別に家康中心の政治体系に異論はない。むしろ最良の形だと考えている程である。だが、今の話で一つ気になる部分があった。
「直江殿が、何故その様な書状を?景勝殿に会って、花押まで押してもらってまで。奴が三成を排除する理由が無い」
「そこんところは、儂にもよう分からんのよ」
「むむ……」
兼続が何か企んでいる事は明白であった。信幸は思考を開始する。兼続がここまでの流れを読んでいたとするならば。仮に、兼続が景勝と自分を会津へ移動させたかったとしたら……。
「まさか、謀反を起こすのは……」
「如何した、信幸」
「いや、まさかな……慶次郎、頼みがある」
「ほう、珍しい?」
信幸は急に頭を下げた。慶次郎は信幸に頼られて、得意げな顔を見せて胸を反らした。
「俺の読みでは、直江殿はまだ会津に戻っておらぬと思うが」
「鋭いのう。然りだ」
「不味いな……」
「何が?」
「佐和山へ行きたい。それも、※哨戒を掻い潜って」
慶次郎は大笑いしながら首を振る。その態度に信幸は低頭した事を後悔した。
「あのなぁ、哨戒は掻い潜れぬから哨戒なのだ。出来るわけがなかろう」
「今行かねば、大変な事になるかもしれぬ!」
「とは言ってものう……」
「チィッ!三成が佐和山へ行く前だったら……」
「まぁ、渦中の友に会いたい気持ちは理解できるがなぁ……では、儂はこれにて」
「役に立たん糞爺め!」
笑いながら去って行く慶次郎を見送りながら、信幸は拳を床に叩きつけたが、もはやどうにもならなかった……。と、思いきや。
「……才蔵、おるか」
「はっ」
「頼みたい事がある」
慶次郎が会津へ帰った後、信幸はすぐさま行動を起こすのである。
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「まぁそう怒るな。そのおかげでこうして密会が出来ているのだ」
所変わって佐和山城。三成は頬を膨らましながら、兼続を睨んでいる。
「なるほど、大老として肯定的な意見を出せば、見張りの一人を上杉から出す事も可能、という訳か」
「そういう事だ。おかげで哨戒に引っかからぬ道筋を作り出せた」
「だがな!」
三成が拳を床に叩きつける。側で控える重臣・島左近、そして兼続の顔付が変わる。
「俺が政治体系の中心から排除された事実はもう変わらぬ!これでは、これでは如何にして秀頼君を守れば良いのだ!内府の政権簒奪を、この佐和山から指を咥えて見ておれば良いのか!?ああ!?答えよ、兼続!お前は何故」
「声を潜めろ。せっかく哨戒を誤魔化したのに台無しだ、馬鹿たれ」
「……」
――フッ。
兼続の吹きかけた吐息は、蝋燭の火を消し去った。敢えて、表情の見えない暗闇の中で話すという状況を選んだ事で、三成は緊張せざるを得ない。
「良いか……加賀大納言に何を言われたかは知らん。大方、大戦で内府を仕留めろだとか、そんな事を言われたのだろう。だがな、大戦を誘っておるのは、むしろ内府の方よ」
「何……」
「奴は野戦では三方ヶ原以外負けなしの武勇持ち。奴だけではない。本多忠勝、井伊直政、榊原康政……上手く手を打たぬ限り、徳川家単体とやり合うたとしても、どの家でも勝てまい」
「なら……如何するというのだ」
「知れた事、挟撃よ」
三成は、傍らに控える左近の肩がブルッ、と震えた事に気づいた。
――という事は、妙手か?
左近は三成が四万石の石高を貰っていた時代に、半分の二万石で召し抱えた重臣である。渡辺新之丞らと同様に、家中での賞賛の声も大きい。名実ともに、石田家の武の要である。その左近が身震いをするほどの兼続の策……最後まで聞いてみる価値はありそうであった。
「聞こう」
「ふっ、乗り気になったか。良いか、俺がそなたを敢えて中枢から排したのは、家康が自分に権力を集中すると思うたからよ」
「今の状態を読んでいた?」
「然り。必ず家康は、大老衆を領国へ返すと思ったでな。それが俺の狙いよ」
「まさか、会津では?」
「応よ。今は機密事項だが、着々と事は進んでいる。いずれ大っぴらにやってやるわ。今の会津の動員力が分かるか?」
「幾らなのだ」
「四万だ。若しくはそれ以上」
「よっ!?」
三成は驚愕した。その数字は、百二十万石の動員力を遥かに超えている。どうやったのかは知らないが、一体どれほどの兵糧を他家から奪えば可能になるというのか。兼続は全身を振るわせて笑っている。果たしてその表情はどれほど破顔していたのか、付き合いの長い三成ですら想像もつかなかった。
だが、それでも二百四十万石の家康の動員力には及ばない。しかも、今の家康には全国の大名を動員できる権利があるのだ。
「無謀だ!今すぐ軍備を止めねば、取り返しのつかぬ事になるぞ!」
「おいおい。貴殿は我らが単独で戦うと思うておるのか?」
「まさか……」
「左様。お前だよ」
兼続はもはや、発起する事に何の不安も感じていない様だった。三成は、それほどまでに自分を信頼してくれている兼続を誇らしくすら思った。が……。
「できるとは思えぬ……今の俺に」
自信が無い。当然である。存亡を賭けた戦い、石田家の動員力は精々五千から七千。他家に協力を煽らなければ計画は遂行し得ない。
だが、三成は勧誘に必要な人望が圧倒的に足りなかった。肩入れを確信できるのは真田・佐竹くらいのものである。大谷吉継でさえ、利で持って徳川へ味方する可能性がある。
「三成よ。良いか、出来るか出来ぬか。問題はそこではない。今我らが立たねば、大坂は権力者・家康の物となるは必定」
「大坂……」
「そうだ、秀頼様だ。我らが主君の危機だと言うのに、毛利も宇喜多も、誰も立ち上がろうとはせぬ」
「……」
「我らには、家康程の戦の才は無い。だが、気概がある。この日ノ本の誰にも負けぬ気概がな。この戦、我らにしか出来ぬのだ!武で持って主君を救う事は、武将として何よりの喜びではないのか?」
その言葉に、死に際の……痩せ細った秀吉が蘇る。今発起すれば、生き残りと滅亡の二択となる。ハッキリ言って、三成自身には実の無い戦になるだろう。それでも、それでも三成は……義の道を、自らの光輝く道を歩みたかった。生き残って、何年も後悔しながら生きるよりは……。
「左近」
「はっ」
「軍備を……進めよ」
「ははっ」
「三成!」
「兼続……俺は、お前を信じる!」
「応、大船に乗ったつもりでいろ!ハッハハ!」
兼続は笑い終えると、最後にある策を三成に授け、去って行った。再び哨戒を抜けると、道中で忍と落ち合う。兼続は生真面目顔で告げる。
「殿に伝えよ。治部少輔の発起、確実。『我ら領土拡大の絶好機を得たり』とな」
「はっ!」
兼続は振り返って、ほくそ笑みながら佐和山の城を見やる。
「三成……さらばだ。今生の別れとなるか、後はお主次第よ」
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「左近よ。友とは良きもの。俺は、兼続と知己であれた事を誇りに思う」
「しかし、全てが上手くいくとは限りませぬ。まずは、大坂を境界として検問を張る準備をしましょうぞ」
「うむ」
再び酒を飲みかわしながら、三成は左近と策を確認していた。と、その時、左近が突然、膳を天井へ投げつけた。
「何奴だ!」
「何?」
――聴かれたか!?
三成の背にヒヤリとした汗が流れ落ちる。ゆっくりと天井の板が外れ、侵入者が降りて来た。
「治部少輔三成様。某は沼田城主・真田伊豆守信幸が家臣。才蔵と申しまする」
「才蔵?信幸殿の家臣?忍ではないのか」
「忍働きもできまして……我が主からの、言伝を預かって参りました」
「おおっ!俺も今丁度……」
「殿!」
兼続と共に信頼する信幸の家臣と知って、三成は安心しきっている。左近の窘めを受け、三成は咳払いを一つ。落ち着きを取り戻した。
「苦しうない。申せ」
「それでは。治部少輔様におきましては、決して、軍備をなされぬ様」
「……は?何だと?」
「え、いや。決して、出陣の準備をなされぬ様」
「下郎め!今の会話を……」
左近は罵りと共に、差し料を抜きかけた。が、三成が片手で制す。左近はハッとした。今自分は、とんでもない間違いを仕掛けたのだ。危うく情報が、あの油断ならない真田家に完全露呈するところだった。同時に、意外にも動揺の少ない三成に、再度将器を見出した。真田信幸への信頼感のなせる業か。
「俺は軍備などしておらぬ。丁度良い、聞かせよ。信幸殿は今、俺について如何にお考えか?」
「それでは、記憶しております主君の言を、再現させて頂く」
「よし、申してみよ」
才蔵は息を吸い込むと、信幸の威厳さながらに語り始めた。
「三成殿、我は其方の友として、敢えて苦言を呈す。此度の騒動、心中ご察し致す。が、何故むざむざと佐和山に退去してしまわれたのか。そなたは政の中枢になくてはならぬ存在、我はその事を甚く残念に思う次第。だが事ここに至っては、安穏な生活を享受して頂きたく候。仮に返り咲こうとするならば大戦の必要、有之。されば滅亡は必死也。家が亡くなるという事、この上なく悲惨也。其方が勝頼公となる様、我の目に入れる事、御免こうむりたく候。返す返す『頼み申す』。直江山城殿に何を吹き込まれようが、決して動いてはならぬ」
才蔵は息を切らしていた。きっと、信幸もこうあったのだろうと三成には推測できた。そう、初めはもっと冗長で、感情的な言であったはずなのだ。それを何度も何度も才蔵を呼び止めて、簡略化して、伝達を成功させるべく奔走したのだと、容易に分かる。
――俺が、勝頼公に……。
信幸に、兼続の策が筒抜けになっているとは思い難い。だが、兼続が何かを吹き込む事、それだけは予想がついたのだろう。自分が見て来た滅亡の様を、友には決して味わってほしくないと……。気概は無いかもしれないが、一度信を置いた人間には限りなく深い情けをかける。危険を冒してまで、この才蔵を遣わしてくれた事が、真田信幸最大の魅力であった。
――ふん、小物め。
三成は、熱い物を流しながら才蔵に告げる。
「あい分かった。この石田三成、友の助言を心に留めよう。かたじけない、嬉しかったと伝えてくれ」
「はっ!畏まって候」
「我は、良き友を得た。信幸殿に、くれぐれもよろしく頼む。我らの友誼は……」
――来世まで続くものぞ。
「如何されました?」
「いや、何でもない。行け」
「はっ」
才蔵は再び哨戒を抜けるべく、屋根裏から去って行った。
「殿……」
「二人の友の言、どちらに従うべきか。数日考えさせよ、左近」
三成は自室へ戻って行った。紙と筆の待つ自室へ。
※哨戒……見張りの事。




