第三十七話 大戦の気配
信幸は眼を頭から足へ向けて滑らせる。気取られぬように、一瞬で周防の現状観察を終えた。抜け毛は少ないものの、その殆どが白髪と化した髪。萎んではいるが、意外にも量を保っている筋肉。山菜を摘んだか、あるいは野生動物の肉を食したか。いずれにしろ周防は逞しく生きていた。
「仕官は?」
「……」
「なるほど。長続きしなかった、と」
「……」
信幸に対して周防は、質問に答える様子もなく、次々と目線を変えつつじっくりと観察を行っていた。
「相変わらず若いな。『孫弾正』」
「孫弾正?」
「弾正幸隆の孫、であろう?」
その安直な感性に信幸は苦笑したが、これも自分に取り入る策かと思うと逆に緊張感を増した。
「若さとは青さよ。そなた、軍略が欲しくは無いか?」
「そう言うあんたは幾つなのだ」
「さぁな。七十を超えてからは、数えておらぬ」
伝説が本当ならば、周防は武田信玄公の時代から合戦に出ている。となれば矢沢頼綱と同世代、あるいはその少し下であろう、と信幸は予想した。
「つまり俺に、あんたを雇って欲しいと。そう言う訳か」
「然り」
「断る」
その解答を聞いた瞬間、周防は研いでいた木槍の切先を信幸に向けた。が、信幸は微動だにしない。正確には、右手だけ動かした。周防に向かう才蔵の刃を制するためである。
――読んでいたのか。全て。
察した周防は、敢えて切先を降ろさずに口を動かす。
「私の誘いを断れば、この槍を突き刺すぞ」
「結構。俺の領地は、直ぐにでも弟に引き継がれる。それで終いだ」
「……」
周防は、信幸と小松の夫婦仲が睦まじく、子も得ているという情報を得ていた。つまり、信幸には死にたくない理由が確かにあるはずなのである。
――なのに、この迫力は何故だ?
「断る由縁を聞かせよ」
「あんたは俺に負けた。手子生城でな。それだけよ」
「何を今更。忍城で無様を晒したのはどこの誰だ」
「忍城?」
しばし考えを巡らせた後、全てを悟った信幸はゲラゲラと笑い出した。
「何を笑う事がある!何が可笑しいのだ!」
「あれは弟の方だ。まさか『あれ』を俺だと思ったのか?」
「弟……?」
事の次第は三成や吉継に聞いていたため、信繁と周防の対決の大体の詳細は知っている。むしろ周防相手なら、信繁の方を褒める内容であった。
「俺は奴ほど武勇に長けておらぬ。あ奴はほとんど一人でお主の前に突出したのであろう?俺はそんな事はしないし、そもそも出来ぬわ」
「何だと……という事は」
自分は汚名を濯いだわけでは無かった。その事実に気づいた周防は――狂った様に笑い出した。
「なるほど……お主は何一つ傷を負っておらぬのか」
「何だと?」
「増々死ねなくなったわ。嫌でもお主の苦しむ姿が私は見たい」
「くだらん。豊臣に粗相をしなければ、この先も平穏は続く」
「ふっ、分かっておる癖に小賢しい。必死に目を背けておるわ」
「……」
周防の言いたいことは分かっている。五奉行・五大老制はその個性の強い政治家達の話し合い。唐入りに参加した諸将への手当てがままならない事から見ても、明らかに機能性を欠いていた。特に問題があるのは、三成と家康である事は容易に想像が出来た。家康は我流の政治を行いたい。藤堂高虎らを始めとして、諸大名に人望のある家康にとってそれは容易な事である。だが、豊家の側から見ている三成には見過ごせない事案となってしまう。
つまり、豊家の中では、今まさに内乱のきっかけが生まれかけているのである。
「だからと言って、お主と俺との間で争いは生まれん。この信州と上野では争いは起こらぬ。もう俺を討ち取れる機会は無いぞ」
「そう、私とお主の間では、な」
「……何が言いたい?」
周防は意味深げに、再び槍の先端を削りだした。
「中央で戦が起これば、そのどちらに付くかで生存が決まる」
「中央での戦だ。信濃には関係ない。中立を保てば良いではないか」
「分かっておらぬな。この乱世において大名が、日和見をした者にどの様な態度を持って臨むか。今まで散々に見て来たであろう」
「む……」
その通りであった。少なくとも家康は、信幸に……真田にその対応をさせないために、小松を娶らせたのだ。そこで日和見に回れば、最悪取り潰しの可能性がある。大坂にも、信繁の妻・利世が人質として入っている。中立のあかつきには、彼女の命が危ないだろう。
「どちらかを選ぶしかない。どっちを選んでも悲惨だがな」
「どちらも、顔を立てる様……上手くやる」
「難しいのう」
「お主こそ日和見ではないか。偉そうに言うな、牢人の分際で」
だが周防は不遜な態度を崩さない。まるで自分の方が上位の存在だと、信幸に伝えたい様子であった。信幸は眉を顰めた。
「私の部隊……北条『黒備え』の生き残りが、まだ各地に散らばっている」
「はぁ?」
「数はまぁ、五百といったところだ。お主が兵隊が必要な時に呼べ」
「阿呆、俺は今断ると言うたのだぞ」
「本当に断るつもりなら、共の者をもっと多く連れてきておるわ。最初から召し抱えるつもりだったが、情報を引き出すために焦らしたのであろう」
「おっ……」
今度は信幸が考えを読まれた。周防の言う通り、信幸は初めから周防を引き入れる気であった。だが、彼の現在の健康状態・動員能力、そして洞察力を試したのである。
結局、中央に秘匿されたまま五百の兵を手に入れたのは良いが、やはりこの男は油断ならないという情報が残った。
「あんたの様な爺の働きに期待はしておらぬ。戦が起こったとしても、老衰しておらねば良いな」
「さっきも言ったが、齢七十を超えてからは数えておらぬ。が、まだまだ働けるぞ、私は」
「ほざけ。俺は帰る」
「おっと、孫弾正よ。これだけは言っておかなければならぬ」
才蔵を呼び、帰ろうとする信幸を周防が呼び止める。が、信幸は無視して行ってしまった。周防は追わず、ポツリと呟くに留めた。
「……骨肉の争い、覚悟しておけよ」
******
老人との面会を終え、沼田に帰って来た信幸を待っていたのは、またもや老人であった。
「今度はお前か、慶次郎。何の様だ」
「御家老殿に京の様子を探って来る様に言われてのう。その帰りにちと寄ってみたわけじゃ」
「老骨に鞭打ってよくやる。お主に諜報は向かぬと思うが、あの男もよくよく人を見る目が無い」
「悪口を言うなら、情報をくれてやらぬぞ」
「どうせ誰々と誰々が喧嘩をして、政が上手く行っておらぬ。という事ぐらいであろう」
慶次郎は神妙な面持ちになると、信幸の耳に唇を当てた。今からいう事がどれほど天下にとって重要な事であるのか、信幸は直ぐに察し背筋を凍らせた。
「五大老・前田大納言利家。ご逝去なされた」
「……ッ!?」
三成と家康。豊臣政権の中枢を巡る対立にあって、両者を上手く抑えていたのが利家である。世渡りの上手さでは戦国一と評判される彼は、先に家康派と一触即発になった時も加藤清正らを引き込み、和睦にまで持っていった実績があった。
それにより家康の力も押し込められていたのだが……今やその利家もいない。ならば、家康の台頭を抑えられるのは三成も含めて、誰もいないという事になるだろう。
「お前、よく平然としていられるな。肉親……ではないにしろ、自分の叔父が亡くなったというのに」
「気にしていたらここまで迷惑をかけておらぬわ。それに奴がいなければ、儂が前田の主であったのだ」
「恨んでいるのか?」
「ほんの少しな。その分迷惑をかけて鬱憤を晴らしてやったし、お相子よ」
「子供かお前は」
「ともかく、『肉親でなければ』耐えられるものなのよ。そして、問題はその直後だ」
「直後?」
慶次郎は再び、ピタリと信幸に密着する。再び緊張が走った。
「治部少輔三成の、暗殺計画が遂行された」
「何だとぉッ!?」
******
「治……部、おるか」
「ここに、大納言様」
三成は利家の老衰直前、枕元に呼ばれていた。利家は唐入りの部隊を引き上げた事で自らの責務を終えたと考えていたが、もう一つ言っておかなければならない事があった。
「儂……が死ねば、他の、大老、では……内府には、勝てぬ。否……儂が、おったと、しても、勝てぬ」
「何を仰います!大納言様と某がいれば」
息も絶え絶えに語る利家に、三成が喝を入れる。側に控えていたまつの方(利家正室)に窘められる。
「良いか……唯、一、勝機がある、なら……日ノ本、全て、巻き込んだ……大戦じゃ……」
「大戦?」
「内府、一人の、指揮能力など、関係なくなる、ほどの……大戦よ。それ、が、でき、な、けれ、ば、決して、動、いて、は、なら、ぬ、治部……たの、ままままままつ」
痙攣を繰り返しながら奥方の名前を呼ぶ利家の声を聴き、まつは三成を突き飛ばして側へ駆け寄り、小刀を握らせた。利家は最期の力を振り絞ってそれを天に翳すと、刃に反射する閃光に導かれるようにして絶命した。
まつの慟哭の中で三成は、全く関係の無い事を考えていた。六尺を超える利家の体躯は、信幸や信繁と似ている。その様な巨漢であっても、老衰の運命は変えられない。利家の老いがあと五年遅ければ、利家の言う大戦を家康相手に起こしていたかもしれない。例え、豊臣にとって不義理となる大戦であろうとも。
――起こさねばならぬのか。俺や兼続、吉継殿や信幸が老いる前に……。
まつに一礼して、三成が屋敷を出ようとした時である。
「三成を出せぇッ!」
前田邸に押し寄せた軍勢を、三成はその目で確認した。
――旗印が……七つ!?
驚愕した。自分を襲撃するという情報は密偵から聞いていた。だが、大老たる……否、現在の主とも言ってもいい前田利家が亡くなった直後に仕掛けてくるとは、夢にも思っていなかった。
「やられた、な……」
蛇の目の旗印……加藤清正。沢瀉の家紋……福島正則。豊臣政権でもよく見知った両名が先頭であった。智謀に優れる二人である、仮に利家への不義理となろうとも、三成が最も無防備になる瞬間を狙ったという事だろう。分かり易い足音を鳴らし、まつの方が三成の控える部屋の障子を開けた。今度は悲鳴をあげるどころか、怒りの目で三成を睨み付ける。
「豊臣の将……虎之助殿や市松殿……が、来ておるようですね」
「弔問かと」
「それ以上冗談を言えば舌を斬りますよ、治部少輔殿」
「狙いは某でしょう。匿ってもらえると……」
まつの目が三白眼に変わる。小松もそうだが、女の眼力と言う物は一度固まると物凄い迫力を持つ。これ以上、利家との最期の時間を邪魔されたくはないのだ。家臣たちも同じ気持ちであろう。
「承知しました。ですが、裏には回らせてもらいます。もう何をやっても、某は死ぬでしょうがね」
「其方は死にません。石田邸に戻ったら、そこで体勢を立て直されませ」
「将達は如何するのです」
「私が止めます」
「はぁ!?」
そう言うと、まつは無言で三成を抱きしめた。
「太閤様……藤吉郎殿が亡くなってからは、皆自分の事ばかりを考えていた。夫もその一人です。その中であなただけは、夫の最期を案じてくれた……嬉しうございました。ありがとう、ありがとう」
「奥方様……」
「誠の義将・治部少輔三成殿。良いですか、死んではなりませぬ」
三成は、前田家の未来を案じた。まつには分かっているのだ。この先、利家を失った前田家は政治中枢から排除されるという事を。結局は利家の武勇と人望で持っていた家である。ここからは……家康に媚びるしかないのだろう。
しかし、そうなる前に自分だけは、逃がしてくれようとしている。最期まで側にいてくれた、ただそれだけの恩義に報いるために。
三成の中で、前田家は時の権力者に恩を売って生き残って来た家だと思っていた。だがここに義の心が、まつが、最後とはいえ確かに残っていた。
「さぁ、お行きなされ」
三成は裏口から脱出した。まつは清正ら七人の将に三成の不在を告げ、利家への弔問を強制した。
「すみませぬ奥方様、我らは不届者を成敗せねばなりませぬので」
「冗談はそこまでにしなされ、虎之助殿」
「冗談?」
「犬千代様の大往生の場を汚しておいて、どちらが不届者か!四の五の言わずに弔問をすませよ!勿論、ここにおる兵全員じゃ!」
「なっ!?」
まつの言う事に筋が通っているだけに、清正は逆らえなかった。結局率いて来た兵の全員が弔問を行う事になったため、三成はその時間を利用して伏見の屋敷に逃げ込んだ。
******
「左近、戦支度はどうか」
「佐竹様、直江様の加勢により、気勢は上々。すぐにでも戦えまする」
「……」
「殿?」
「三成、如何した。清正と戦をするのではないのか?」
兼続はすでに臨戦態勢である。久々に上杉の武勇を天下に示せると、意気揚々として軍備を整えている。だが、三成の考えは違った。
――ここで清正らと一戦交えれば、家康に自分を討つ大義名分を与えてしまう……。
利家の言葉を思い出す。このままでは、大戦で家康を討ちとる前に自分が逆賊として討たれてしまうではないか。
「真田信幸がおったらなぁ。こんな窮地は慣れておるだろうに」
「あんな小物、糞の役にも立たぬわ。最悪、会津まで上って一戦してくれようぞ」
だが、兼続の言には現実性が欠けている。家康の二百四十万石に対し、上杉は百二十万石。動員力が倍近く違う。しかも会津まで無事に辿り着けるかどうかも賭けである。三成はその意見を退けた。
「なら、どうするのだ」
「伏見の徳川邸へ行く」
「何ですと?」
左近は驚いたが、兼続は頷いた。
「妙手だ。お主が斬られれば、上杉と毛利が内府を挟撃できるな」
「ああ。尤も、家康は斬らぬだろうがな」
家康もまた、逆賊となる事を恐れているはずである。三成が徳川邸に赴くと、家康はやはり笑顔で迎え入れた。
「治部少輔殿の身柄、某が責任を持って御守りしましょうぞ」
「かたじけない、内府殿」
これで一件落着、と三成が思った次の瞬間であった。家康はこの状況を、最大限に利用する策に出た。
「しかしこのままでは、何度でも同じ襲撃が起こりましょう。そなたとあの七人との軋轢、相当な物の様でございますな」
「……何を仰りたいのです」
「御隠居なされ、治部殿」
「何だと!?」
家康の傍らで控える忠勝はこの瞬間、確かに近づいた大戦の気配を感じ取っていた。




