第三十六話 早すぎる戦支度
雷雨往来する未来。1600年(慶長5年)9月5日。信州・砥石城にて信幸は岐路に立たされていた。
目の前には一通の手紙。こんな紙切れが『親の仇』の様に憎い一方、それは紛れもなく彼の前に降って湧いた、起死回生の好機でもあった。
「……」
「殿、使者殿を待たせておりまする。如何致し……」
「黙れ!」
「はっ、も、申し訳」
「……すまぬ。静かにせよ、才蔵」
悩んだ。これまでの人生で、岐路に立たされるたびに論理的思考を組み立てて来た。実利と不利益を照らし合わせ、常に正解を選んで来た。しかしこの時だけは、損得を抜きにして考えなければならなかった。
この選択により、己の人生の中で一、二を争う、大切な人物を失う事になる。それだけは明らかであったからだ。故に、損得ではない。自分の中での優先順位を、今つけなければならないのだ。
武功も欲しい。領地も欲しい。民も欲しい。友も欲しい。主君も欲しい。嫁も欲しい。子も欲しい。親も欲しい。そして、弟も欲しい。自分の中にこれほど多くの欲望があった事を、信幸は初めて自覚したのかもしれない。
――何の事は無い。これらから目を背けておいた報い、と言う訳か。
そして半刻後、信幸の腹は決まった。待たせてある使者の元へ、才蔵と共にゆっくりと歩み寄る。使者は信之の、怒・哀の入り混じった般若の様な顔に、思わずのけぞった。
「い、伊豆守様……!?」
使者の怯えきった顔を見て、ますます信幸の表情が。息遣いが。心拍が乱れていく。
こんなにも苦しい選択は無い。この返答を永久に先送りに出来たら、どんなに幸せだろうと信幸は思った。だが、どんなに神に願おうとも、宿命からは逃げられない。
――これが俺の答えだ、小松。
「才蔵」
「はっ」
「その使者を……」
発声に呼応するかの様に、雷鳴が轟いた。
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時を遡る事、約二年(1598年)。徳川家康・前田利家の両大老の命により、唐国から引き揚げて来た遠征組を、三成ら饗応係が出迎えていた。
しかし目の前に立ってみると、手負いの獣達の放つ殺気に、三成と従者達は畏怖を覚えざるを得ない。傷つき、仲間を失った結果、彼らは何も得られずに帰国するという苦汁を舐めさせられたのだから、必然的に生まれた心の荒みであった。
「皆々様、疲れも溜まって御座いましょう。ささやかながら、茶会の準備を致しておりまする」
「茶会……だと?治部、お主はそんな事で我らの傷が癒えると思うてかぁ!?」
この発言に、加藤清正を始めとする諸侯は激怒した。失った兵・兵糧に対して一刻も早い手当が欲しいところであるにも関わらず、先方には茶会の準備が出来ているという。つまり本来の政務に徹せず、茶会の準備をしていたと捉えられても仕方のない事である。しかも、その様な席は目出度い事が起こった時に催す事であるため、結果を出せなかった諸侯に対する侮辱ともとられかねない。
「治部!お主、先の論功行賞でも小早川、黒田らの功を福原長堯と謀り、亡き殿下に捻じ曲げて報告してくれたらしいのう!?」
「左様な事実はござらぬ。長堯はありのままを報告しただけの事。某は関与しておらぬ」
「我らに対しての手当ては如何するつもりじゃ。中央の政治はお主が司っておるのだろうが?」
「五大老様方の総意、未だ纏まらぬ故……今しばらく」
「その纏め役を放って茶会とは、なるほど?茶坊主の治部少輔らしいわい!」
「……聞き捨てならぬ!」
三成は激高しかけたが、一人の将がそれを手で制した。立花統虎……改め、立花宗茂である。
「まぁ良いではござらぬか。治部少輔も我らのためを思った事、某には十分伝わり申した……のう、島津殿?」
宗茂は事の締めを最年長、隣にいる巨躯・島津義弘に託した。島津家は父・高橋紹運の仇であるのだが、唐入りを経てからの二人は友情すら感じていた。
「…………治部の心遣い誠にありがたか。じゃっどん、此度は一刻も早く領地に戻らせてもらっど」
「義弘殿……わ、分かり申した」
第二次唐入り=慶長の役での戦功第一たる島津の言葉となれば、三成や諸将も納得の解散となった。だが清正や黒田長政らは三成のもてなしに大いに不満を覚えたのである……。
「治部殿。気になさるな」
「心遣い痛み入る、大丈夫だ」
小西行長らが宥めてくれたものの、三成は内心で焦りを感じていた。太閤秀吉に、直に秀頼の護身を頼まれたのは自分なのだ。『誰かが』動いた時に向けて、今から仲間を増やしておかねばならない。にも関わらず、その初手で逆に清正らに反感を買っているではないか。
今現在、三成にとって信に足る武将は大谷吉継を筆頭に直江兼続、宇喜多秀家、田中吉政、立花宗茂、小早川秀包、そして真田昌幸に真田信幸。これら大名並に加え、真田信繁、平塚為広を始めとする小領ながら頼れる武将が幾人か。はっきり言って、駒が少なすぎた。しかも上杉家などは秀頼の擁護には関心が無い様にも見えるため、兼続という人物以上には信用が出来ない。せめて九州勢――島津や龍造寺の古豪、黒田に清正は仲間に引き込みたいところであるのだが……。恨むべくは自らの信用の無さであった。
人のため。そう考えながらも自分の能力を知らぬうちに誇示していた。それが鼻につく行為であった事を、三成はようやく知りつつあった。
――急がなければ……。
三成は静かに、ゆっくりと自分を見失いつつあった。
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「信繁ぇ!阿呆かお前は!」
一方上田の昌幸・信繁を訪問した信幸は、信繁の頭を引っ叩いていた。城内でさながら開戦前の様に、積極的に練兵を行っていたからである。
「痛うござる!」
「ござるじゃない!何故兵の訓練を、斯様に分かり易く庭で行っておるのだ!」
「何か不都合でも?」
「大有りだ!上方は今、唐入りから帰って来た諸将の手当を探して居る。諜報部隊にこの様子が見つかったら……」
「見つかったら?」
信繁は、信幸の言いたいことが分かっていない様子であった。信幸は深く溜め息をつくと、自らの指示で訓練を取り止めさせた。
「何をなさる!如何に兄上と言えど」
「いい加減にしろ。お前は何を焦っているのだ」
「何、とは……」
「大坂から帰って来てからというもの、お前の行動は目に余る。まるで戦の功を焦っている様ではないか」
「う……」
信繁は押し黙った。信幸は、上方で『誰か』に余計な事を吹き込まれたのだと、確信に至っている。それが兼続なのかどうかは分からないが、悪友からの進言である事は予想が出来た。皆が皆、大谷吉継の様な賢人ではない。今、合戦を欲している人物は限られている。
その人物が故・豊臣秀吉であるという事実は、流石に頭の中にはなかったのだが。
「お前の軽率な行動は、大坂の妻(人質)を殺すという事だぞ。それは刑部殿にも迷惑をかけるという事だ」
「それは……」
信幸は呆れ顔で、信繁の頭をポンポン、と優しく叩いた。
「五大老制で天下は丸く収まる。そうなれば、人質は別の人物を差出、上田で妻子と仲良く暮らせる様になる」
「む……」
「だから今はジッとしておけ。ゆっくりと体を休ませろ」
「……はっ。左様にいたしまする」
振り返って城内へ歩いて行く信繁の、生返事に違和感を覚える。あの真っ直ぐな信繁が、『分かったフリ』をしている。自分の前で演技をしている。不安と、ほんの少しの悲しさが信幸に去来した。
信繁も、もう三十一歳。これといった武功も無しに歳を重ねつづけて来た。それ故に、功に餓えている。戦国武将ならば当たり前の欲求だが、『誰かが』それを利用して何かを焚き付けたのだ。純情な信繁が弄ばれている気がして、信幸の腸は煮えくり返っていた。
と、その時である。背後からよく見知った気配がしたのは。
「才蔵か」
信幸は振り向かずに名を呼んだ。二人の確固たる信頼関係の証である。
「はい。殿に言上申し上げたき儀が」
「近う」
「はっ」
肌と肌が触れ合う程に、密着した状態で告げる様、信幸は指示をした。昌幸の忍に聞かれるのを憂慮したためである。才蔵の言上は、基本的に『そういう』事ばかりなのである。
持って来た情報は、ある牢人の存在についてであった。
「太郎山に?」
「恐らくは、信幸様との対面が望みかと」
「ふむぅ……」
信幸は数秒悩んだだけで、呆気なく才蔵に指示を出した。
「参るぞ」
「参るとは」
「太郎山に参る。共をせよ」
「では、他に幾人か護衛をつけまする」
「無用」
「無用とは!?」
一介の牢人に会うのに、危険を伴うのに、信幸は才蔵と二人だけで赴こうとしている。才蔵は流石に引き止める義務があったが、信幸は一瞬の隙をついて馬に跨り、駆けて行ってしまった。虚を突かれた才蔵は慌てて追いかける。
「殿!いい加減に!」
「阿呆。大勢で行けば父上に勘付かれるだろうが」
才蔵はその言葉で、ようやく合点がいった様子だった。
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――シュッ、シュッ。
木槍の先を、刃で削る音が小気味よく耳に入る。その尖った先端を指で突くと、忽ち指の腹に血が滲んだ。軍師はその濁った赤を見て、ニタリと笑いながら作業を再開する。
上田城の北に位置する太郎山。簡素な庵の中に、その男はいた。
「来たか。お入りなされ」
「失礼仕る」
「殿!無防備にござりまする!」
「久しぶりであるな。周防殿」
信幸はその名前を忘れてはいなかった。多目周防守元忠。かつて信幸を苦しめ、信繁に辛酸を舐めさせた北条の軍師は、信幸との再会に口端を持ち上げた。
この再会が後に重要な意味を持つ。その確かな予感を、既に信幸は感じていた。




