第三十五話 遺言 ―秀吉と信繁―
太閤秀吉の容態は日に日に悪化していった。日ノ本中の名医、薬師を呼び寄せても、一向に回復へは向かわなかった。
「曲直瀬殿!何とかならぬのか!」
「四方八方から薬を取り寄せ、臓の治療を致しましたが……あちらを立てればこちらが立たず」
「えぇい、唐国の和議もままならぬこの時に!殿下、殿下ぁ!」
「ま……た……ざ……」
「藤吉郎殿!しっかりせぬか!」
自分も病を押して大坂に出張っている前田利家は、息も絶え絶えの秀吉に必死に叫ぶが、顔色は悪くなる一方である。利家は織田家臣以来の友人であるが、秀吉のためだけに付き添っているのではない。死ぬにしても、『唐入り』の後始末をしてから死んでもらわねば、困るのは五大老政権の中枢に据えられた自分と家康、そして三成である。
そのため、金に糸目は付けず日本一の名医である曲直瀬道三を頼った。だが秀吉の合併症には彼を持ってしても治療が追いつかないらしく、口には出さないまでも半ば匙を投げかけていた。
「政務がある故……明日、また来る。曲直瀬殿、頼みましたぞ」
「しかと」
利家と入れ違いに三成が入って来る。三成も利家と同じほどの出席率をここ一ヵ月、保っていた。
「治部、政務は如何した。唐への補給の手配は」
「某の分は済ませ、長束に任せましてございます」
「む、そうか。言っておくが、殿下はまともに喋れぬぞ」
利家が去った後、曲直瀬道三も帰らせ、完全に人払いをした。
「殿下。三成、参りましてござる」
「おお……待っておった、ぞ」
秀吉はムクリと起き上がった。その姿は、利家の前とは明らかに違っていた。つまり演技によって利家を試していたのである。そして、三成を既に信頼している証でもあった。
「ゴフッ、信繁は今、何処じゃ……」
「別の間に待たせてございます」
「人目は」
「無論、忍びましてござる」
「流石、言わずともやる男よな……かたじけない」
「勿体なきお言葉。連れてまいりまする」
「ああ、治部よ」
秀吉は激しく咳き込みながら三成を呼び止める。
「ゴホッ、やはり犬千代は……信用能うと見た」
「……はっ。では今の所、加賀大納言様と、宇喜多中納言様……この二人でござりまするか」
「左様じゃ」
三成の中では、利家は蒲生氏郷らとの友好から、情に熱い男。だが反面、外聞もなく利を選ぶ事もある、清濁併せ飲む男でもあった。だが、秀吉は利家を裏切らぬ、味方であると判断したらしい。ならば信頼するしかなかった。
三成は別室の襖を開けた。
「左衛門佐。面会の許可が出た」
「かたじけのうござる。殿下の御容態は……」
三成はその質問を無視し、面会に際する制約を提示する。
「他言無用。手出しも無用。それだけだ」
「はっ……肝に命じまする」
「来い」
襖の前まで連れてこられた信繁は、訝しがった。波動というか、人の気配を感じないのである。
――本当に、この奥に殿下が……?
しかし襖を開けると、確かに寝そべった秀吉がいるのである。勝手に虚を突かれた信繁は平服した。
「おお……信繁。いや、ここは弁丸と呼ばせてくれ。近う……ゴフッ」
「殿下!御容体は」
「ふ……長くは持たぬそう……ゴフッ、ゴホッ!」
秀吉は布団に寝込んだまま、トビウオの様に体を弾ませながら、激しく咳き込んだ。
「殿下……御労しや」
「良く聞け、弁丸。お主には、誠に済まぬ事をしたと思うておる」
「と、とんでも無き事にござります!殿下は某を客人として扱い、禄の他に官位まで授けて下さった!何を謝られる謂れがありましょうや!」
秀吉はヨロヨロと上体を起こすと、信繁に向き直る。
「儂は、そなたを真田の跡取りにしたかった。兄の信幸を廃嫡させてな……だが、鶴松やお拾が生まれてからは、そなたに目をかける事をめっきり忘れていた。今となってはそなたが真田を継ぐ事は有り得ぬ事。本当にすまぬ」
「殿下、その話なら……」
「弁丸ッ!」
秀吉は弱弱しくも、渾身の力を込めて信繁の両肩を掴んだ。
「お主を……お主を始めてこの大坂で見た時、その賢く、情に溢れた対応に惚れた。もしお主が息子であってくれたなら、とすら思うたものぞ!」
「で、殿下……」
信繁が秀吉を見た時の印象は、畏怖と貫録。この二つの言葉に埋め尽くされていた。故に、仕えるに値する『二人目の主君』かもしれないと感じた。だが今の秀吉の弱弱しさはどうだ。まるで含羞草の様ではないか。
先に大叔父・矢沢頼綱の大往生を見届けた信繁だが、老いの恐ろしさを改めて思い知らされていた。
「弁丸よぉ……これは儂の一生の頼み……否。遺言だと思うて聞いてくれ」
「何を弱気な、殿下!」
「ゴフッ……儂の、息子になってはくれぬか……」
「……」
当然、養子になれと言っているわけではない事は、流石の信繁でも分かった。ならば、この言葉の意図する所は……。
「そなたに、真っ先に『豊臣』の姓を与えたのは、昌幸の手前、実の息子と出来ない事がこの上なく悔しかったからじゃ。頼む……息子よ。秀頼を……家族と思うて守ってはくれぬか!?」
「家族……」
「唐入りは失敗じゃった。豊家の力は、ゴホッ!遠征の出費で減衰するであろう。さながら、今の儂の様に」
「左様な事は」
「じゃが、無傷でこの遠征を乗り切った家がある……言わずとも、分かっておろう?」
秀吉の充血した目の血管、一つ一つが最後の凄みを放っている様に信繁は感じた。
「あ奴は儂が死ねば、秀頼の為と称して動くに違いないのじゃ」
「しかし、」
兄が、と言いかけたが秀吉の悲愴な眼光がその言葉を押しとどめた。遺言と言われたら、今は黙って最後まで聞くしかない。
「唐入りはな。本当はお主ら若い衆に、手柄、武名を与えてやるため……親心の遠征じゃった。特にそなたのな……」
「某の!?」
「じゃが、名護屋まで出張ったところで邪魔が入った。……家康よ。真田は決して出兵させぬ様、願い出てきおった」
「内府様が、左様な事を!?な、何故」
「決まっておる。上田で散々に負かされた、真田が忌々しいからよぉ……ゴホッ」
大局を理解し、事情も知っている信幸ならば、この話がどこまで本当で、どこまで嘘か。瞬時に判別がついたに違いない。だが、信幸は他大名への情報の漏えいを恐れたため、信繁には事情を話していなかった。
信繁の解釈は一つに収束した。家康が、真田の――真田信繁の武名を轟かせる千載一遇の好機を、私情で遮った……。
――内府!
反骨心を燃え上がらせる信繁の顔を見て、秀吉は内心でほくそ笑んだ。だが顔は笑う程の気力は残っていない。無理を推して言葉を紡ぐ。
「彼奴の台頭から秀頼を守れるのは、お主しか……儂の子たる弁丸、其方しかおらぬのよ」
「私が、秀頼君を?」
「重ね重ね、頼み申す。どうか、どうか……!」
目の前の状況しか見えない信繁には、この秀吉の懇願が心に響いた。涙すら流して手を取った。今は信幸の事など、頭から抜け落ちてしまっていた。
「お任せを」
「お……?」
「必ず某が、秀頼君を守り通して見せまする!内府何するものぞ!」
「かたじけない……かたじけないのう、左衛門佐」
信繁が部屋を出ると、秀吉は激しい疲れに襲われた。だがこれで秀頼に手駒を一つ与えたと考えれば、老いる自らの体力など安い代償である。例えそれが歩兵、良くても香車だとしても。
――まぁ、領地は持っておらぬが……。鉄砲玉にはなるであろう。上手くすれば、家康を射抜いてくれるやもしれぬ……。
秀吉は次に誰を呼び出すかを思案し始めた。時間はもう、幾らも残されてはいない。
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「だぁ、だぁ」
「良き俊敏さじゃ次郎!ささ、母の毬を受けよ。そーれ」
「こ、小松!何をしておる!」
所変わって沼田。信幸の怒鳴り声により、生後八か月の嫡男・次郎が泣き出してしまった。
「ああもう!せっかくあやしておった所を」
「阿呆、毬を投げるな!まだ一つにもなっておらぬ赤子だぞ!」
「真田の嫡男、しかも本多の血も通った子でございますよ!?血統に恥じぬ様、英才教育をせねば」
「貸せ、乳母の所へ戻す。まったく……」
「ああ、返して」
「煩い!」
小松は毎日の様に乳母から次郎を奪って『あやして』いた。初めて生まれた我が子である、可愛くない筈が無かった。常に一緒にいたいのだ。
「嬉しいのは分かるが控えよ。城下に伝わったら、気が狂ったと噂されるぞ」
「私は町民には慕われておりますれば、大丈夫かと。この間も出産祝いに、タケノコを貰いました。ダンナが細川家にあげた物よりも大きかったよ」
「はぁ……」
先日は慰めに感謝したが、嬉しい事があると武家の習いを忘れるのか、直ぐに燥ぎ出す。母親と言っても小松はまだ二十歳、仕方のない事であった。果たして町民からは慕われているのか、面白がられているのか。信幸は顔を覆った。
お産を終えた時は、よくぞ生きていてくれたと手を握って喜んだのだが……。
「信繁も、子が出来ればこうなるのであろうな……」
「何か?」
「いや、何でもない」
信繁が秀頼に忠誠を誓い、家康を敵視し始めたとは知らず、信幸と小松はほのぼのとした日々を過ごしていた。
秀吉の寿命が尽きる、一か月前の風景である。
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廊下で、涙をすすりながら歩く北政所(秀吉正室)とすれ違う。三成はその様子を見た上でなお、平静を装いながら会釈をする。部屋の前へ来てみて、今が峠である事を実感する。襖の手前では、もはや生気は微塵も感じ取れない。三成は震える手で襖を開けた。
「殿下、誓紙は皆、提出し終えました」
「治部……か」
「そのままでお聞きください。ご自愛を」
「唐……入りは……」
「至極順調でござりまする」
秀吉は何とか三成に焦点を合わせると、喉から言葉を絞り出し始めた。
「お主には……一番迷惑をかけた……やもしれぬなぁ」
「何をおっしゃいますやら。殿下に拾っていただけたからこそ」
「国内の……検地……唐入りの……論功、行賞……悉く、お主に矛先が……行っておるそうな」
「それは……」
これまで、秀吉は知っていながら三成を擁護しなかった。天下を制した豊臣の名声を、小さい事で汚したくなかったからである。
「すまぬ……誠にすまぬが……最後に、一つ。秀頼は……秀頼だけは、お主にしか任せられぬ」
「しかし、某には人望がありませぬ。斯様な石頭に秀頼様を」
「気概がある!もしもの時は、お主にしかできぬ事だぎゃあ!」
秀吉は吐血せんばかりの勢いで、喉に痰を絡ませながら叫んだ。その時。三成の中で、秀吉はもはや何にでも縋る弱者と化した。自分の人生で最も巨大な、救援対象であるように見えた。
「頼む……頼み申す……」
「殿下。三成にお任せを」
「ああ……ああ……」
三成の体に縋りつく秀吉の様はなんとも情けなかった。三成はこの天下人亡き豊臣の世を、自らの行動でもって救援する事を固く決めた。
「佐吉よぉ……思えば遠くまで……来たものよのぉ」
「長浜で初めて士官した時、殿下はここまで来ると思うておりました」
「お主は最後まで……気が利く奴じゃ……。三杯の茶……あれは……美味かった。のう、佐吉よ」
「はっ」
「努々《ゆめゆめ》、忘れるな」
「御意に。決して、忘れませぬ!」
「よし、下がれ……もう、眠いのじゃ……」
1598年(慶長3年)8月18日。覇者・豊臣秀吉は、自らが引き起こした戦争の真っただ中の時期に、その激動の人生に幕を下ろした。享年62歳。
そして唐入りによって生じた豊臣政権の軋みは、秀吉の死に呼応して裂傷を広げていくのであった。




