第三十三話 二人の小早川
「さいつ殿」
「……」
「さ、い、つ、ど、の」
鬱陶しそうに信幸が振り向くと、三成が立っていた。
「何だ三成殿か。検地から戻られたのか」
「ああ、薩摩は骨の折れる土地であった。それより、とうとう官位を貰ったらしいではないか」
「従五位下・伊豆守だ」
「聞いておる。だから真田伊豆殿と」
「ふん。下らぬ言葉遊びよ」
1595年。信幸は豊臣性に加え伊豆守の官位を朝廷……というより秀吉から賜った。同時に信繁も従五位下・左衛門佐に任ぜられている。位に関しては、兄弟の間で差はつけられなかった。
「お主が、信繁を推してくれたのか」
「俺はそんな権限を持たぬ。太閤殿下の御意志よ」
「いきなり、国内の者に官位を与え出したな?恩を売ろうと言う魂胆しか見えぬが」
「……まぁ、和子様が生まれた故なぁ」
1593年八月に、秀吉に鶴松以来の待望の男子・お拾が生まれていた。恐らく秀吉はいつ死んでも良い様に、次代への政権交替の準備を始めたのである。
――ならば、最初から唐入りなどしないで欲しいものだ。
鶴松が亡くなれば出兵させ、拾が生まれればそれらを放り捨てている。信幸ならずとも、全国の諸将は秀吉の政に困惑しつつあった。何しろ、唐国に渡ったほとんどの大名は滞在したまま、いつでも再戦できる準備を整えている。一体いつ、本土に帰国できるか全くわからない状態である。
「再戦はあるであろうな」
「ああ、何しろ両方賠償する気がない」
交渉は平行線を辿っていた。秀吉は拾に夢中であるが、メンツを潰されれば再び開戦するのは目に見えていた。名護屋城からの補給も楽では無い。何しろ、兵は今も疫病で死に続けている。
「中でも気の毒なのは、秀包殿だな」
「秀包殿が何か?」
三成は周りに聞き耳を立てる人物が居ない事を確認し、そっと信幸に耳打ちした。
「実はな……豊臣秀俊様が、小早川隆景殿の養子に入る事が決まった」
「秀俊様?太閤殿下の御養子ではないか」
「理解できぬか?」
「容易だ。秀次様だけでなく、秀俊様も中央から切り離すおつもりか」
秀吉から関白職を継いだ秀次は、謀反の疑いで切腹、更にその首を三条河原に晒されるという酷い仕打ちを受けた。この仕打ちの発端は、秀次の目に余る行いを、三成が秀吉に密告した事が始まりと噂された。
そのせいで三成の評判は、検地を手伝った各地でさえ下降気味であった。噂の真偽は別として、信幸は三成に同情していた。そして今、秀包にも……。
「どうやら分家するらしい。が、廃嫡は秀包にとっても良い報せではないだろうよ」
「次世代への準備とはいえ、流石に強引がすぎる」
「まぁそう言うな。拾様は幼い。分別がつく秀包が割を食ってくれるから、豊臣の天下は安泰となる」
「はぁ、お主は……」
信幸は三成のその嬉々とした仕事ぶりが、秀次事件の三成の加担を諸将に印象付けているのだと確信した。
「左衛門佐……信繁は如何か?」
「奴は今大坂で、愛妻生活の真っただ中よ。ようやく落ち着いてくれたと喜んでおったところだ」
「はっは。あの信繁がなぁ」
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信繁は官位に加え、ようやく帰国した大谷吉継の娘・利世と婚儀を挙げた。今はその利世が人質として大坂に入っているため、信繁も付き従っているのだ。が。
「婿殿、いい加減に致さぬか。今は利世と蜜月の時を」
「いえ、唐国の様子をお聞き致すまでは、刑部様を放すわけには」
「ゴホッ、えぇいこの糞たわけが!」
病を患っている吉継にも平気で掴みかかる信繁。嫁よりも戦への興味が先行していた。利世は呆れて茶を啜っている。
「この間、碧蹄館の話をしたであろう。私の知っておるのはあれで全部じゃ、後はあずかり知らぬ」
「立花と小早川でございまするな」
「おお、古今無双の戦ぶりであったと、何度も言っておろう」
「むむ……やはり某も、太閤殿下のお役に立ちとうござる」
「お前様!いい加減にしてくださいまし!」
利世が、立ち上がろうとした信繁の袖を掴んだので、再び座り込む。信繁は再び訪れた戦功を挙げる機会が、立ち消えとなる事を恐れていた。このままではせっかく賜った左衛門佐の名が泣くと、毎日吠えながら槍を振るっている。利世と、吉継と、やがて生まれ来る我が子のためでもあった。
――欲しい。功名が!手柄が!
婚姻によって大人しくなるかと思われた信繁だったが、信幸にとっては困った事に、功名心がより一層高まってしまったのである。
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小早川秀包と、豊臣秀俊改め小早川秀秋との対面は、再び行われる事となった慶長2年の唐入り、即ち『慶長の役』の間に行われた。二人は太閤殿下のお気に入り同士という事もあり、大坂・伏見での面識があった。
「金吾中納言・秀俊様……否、秀秋様。お久しぶりにございまする」
「ひ、秀包殿……此度の事、何と申して良いやら」
秀秋は低頭な姿勢であったが、それが逆に秀包の叱咤を招いた。
「成りませぬ!※官位は貴殿の方が上なのです、それに小早川の当主が易々と頭を下げられますな!」
「ひっ!?」
秀秋は秀包が起こっている事を想像しながら海を渡った。それだけにこの叱責には恨み・妬みが絡んでいるとみてしまう。しかし、秀包はそんな狭量な男では無かった。怯える秀秋の姿に慌ててニコリ、と笑う年長者に、秀秋の心は若干の安息を得た。
「ふぅ……そう言えば、秀秋様は此度が初陣でござりまするな?」
「は、はい。左様ですが」
「陣割で私との連合にする様、注文致しましょう。さすれば某が貴殿を認め、上手くすれば功も立てられまする」
「ええ!?」
秀包はこの十五歳、元服したばかりの子供に、つまらない政治問題から来る精神的重荷を背負わせる事を嫌った。廃嫡の事などどうでも良かった。自分の行動によって彼の人生に光明が差すなら、喜んでそうするのである。それが、三成や統虎から影響された彼の生き方であった。義父・小早川隆景から学んだ政治・謀略の知識を使う事は好まなかった。
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「秀包殿は、初陣の際は緊張はなさらなかったので?」
数年後、二人は加藤清正らが籠城する蔚山城の援軍として布陣していた。一揆勢との小競り合い以外では、これが秀秋の初陣と言えた。そのために馬に乗っていなければ、足腰が立たないほどに彼は緊張していた。
「某は兄……義父・隆景の指導もあって勝ち戦でございました。が、ほとんど何もできなかったのでございます」
「秀包殿でも?」
「初陣など、誰でもそうです。父・元就などは異常な戦果を挙げていますが、そんな事が出来ればまさしく軍神でしょうね」
秀包はケラケラと笑っている。戦場でこの芸当が出来るのは、初陣と違い今では戦慣れしている証拠である。秀秋は溜め息をついた。
「初陣と二回目は、意味合いが違うのです。いわば初陣はその人の才を測る尺度」
「尺度……」
「何度やっても戦は恐い。でもその中でも初陣が一番怖いのです。その中でどれだけの戦果を叩き出せるか。これ以上優秀な測りはございません」
「な、なるほど……」
秀包は震える秀秋の肩をグッ、と寄せて抱き寄せる。元気づけようとしている事を秀秋は直ぐに察したが、その手に触れた瞬間驚いた。まだ大して運動もしていない北の大地なのに、秀包は滝の様な汗を書いていた。
「分かりますか」
「な、何が」
「幾ら強がっても、体は正直だという事。戦に慣れる、恐くないなんて、一握りの才人の言う戯言です」
この言葉を聴いた瞬間、秀秋の体の震えが止まった。人は自分が一人でないと気づいた瞬間、これ以上ない心の落ち着きを得ることができる。謀神・毛利元就の実子である秀包でさえ、ここまで緊張している。その事実が秀秋を救った。
「ここまで緊張させられたのです。絶対に空手では帰らない」
「でも、初陣は」
「金吾様ならできます。良いですか。絶対に空手で帰ってはなりません。必ず手柄をあげるのです」
「は、はいっ」
二人はニヤリと笑うと、ゆっくりと進軍の合図を出した。変に気分が高揚したせいか、ほとんど大将二人が突出したまま蔚山城の救援に参加するという恐ろしい事態に繋がってしまう。幸い小早川の旧臣が大半である秀秋軍と、秀包の軍は相性がよく蔚山城の味方は助かった上、二人は生存した。
「御両人、何を考えておられるのだ!助かったから良い物を!」
助けられたとはいえ、あまりに軽率な行動。年長者として籠城していた将達は、二人に説教の褒美を与えた。清正らに叱責を受けた二人は、しばらくの放心状態の後に笑い出す。秀秋は秀包を、まるで実の兄の様に頼もしく感じたのであった。
「ハハハッ、秀包殿」
「何でござる?」
「礼を言いまする。初陣で功を立てる事が出来申した。ありがとう、義兄上」
「……」
軽率とはいえ、功は功である。その嬉しさから、先に小早川隆景の養子となった秀包を兄と呼んでしまった。秀包は固まって反応を返さない。
「あ、その……いけませぬか?」
「あ、いえ。その……某は末っ子ゆえ、何と言うか新鮮で」
「フフッ」
「ハハハ!義兄かぁ」
その呼び名に感動した秀包は、熱く固い握手を秀秋と交した。一人の少年が、武将となった瞬間であった。
『唐入り』の発端であり、この二人を引っ張り上げた人物――太閤・豊臣秀吉が病没する、約半年前の事であった。
※官位……秀秋は従三位・権中納言。従四位下・筑後守の秀包よりも高位。




