第一話 信幸と奇妙な来客
天正十年(1582年)は激動の年であった。真田の主家である武田家は天目山における当主代・武田勝頼の壮絶な自害によって、滅亡した。
さらに武田家を滅ぼした織田家当主・織田信忠、そして天下人と目されていた織田信長までもが、明智光秀の裏切りに遭い死亡。
「何度見ても、電光石火だな……」
源三郎――真田信幸は何度も何度も文を見返し、その過程を確認していた。
信幸自身にとっても激動の年である。元々は勝頼の居城、躑躅ヶ崎館に人質として赴いていたのだが、織田家の侵略に寄り居城を追われたために岩櫃へ返還されたのである。
一方で幸運もあった。父・昌幸の政治的手腕を間近で見られたことである。
勝頼を織田へ売り渡した小山田信茂とは対照的に、昌幸は勝頼が討ち取られる報が届くまで、決して降伏することは無かった。
結果、降伏した小山田は処刑され、降伏しなかった真田が生き残る。かくして望まれない形ながらも、真田家は戦国大名として生存したのである。
この過程が信幸にとって新鮮であった。
――降伏するにしても、その時分が寛容。
信幸は自分が当主となった時の為に、深く頭に刻み込んだ。
「兄上!稽古をつけて下され!」
刻み込んだものが掻き消されそうな大声が、信幸の脳髄に届く。
「後にせよ、弁丸。俺は今多忙であるのだ」
「如何したので?」
信幸の居室には文が散乱していた。
「父上宛に送られて来た文を?」
「丁度良い。論議を交そうではないか」
信幸は弁丸に向き直る。自分とは一つしか歳が変わらないが、元服はまだである故、と言って剣術、兵術以外学ぼうとしない弟に信幸は手を焼いていた。
「いえ、某は槍の指南をお願いしたく」
「よいか弁丸。この真田家の当面の敵は何と心得る?」
政治を語る時の信幸の押しは強い。諦めた弁丸は槍を床の間に置くと、
「北条、徳川。この二家でございましょう?」
これでいいだろう、と言いたげな雑な口調で言い放った。
「上杉は敵ではないと?」
「上杉は武田の同盟国でございますから」
「我らは武田ではない。真田であるぞ」
「最早縁は無いと?」
「然りだ。上方から戻ってこぬとはいえ、我らは未だ滝川一益殿の配下と目されていてもおかしくはない」
織田家家臣、滝川一益は織田信忠と共に武田家を滅ぼした猛将である。真田は織田家に臣従した際、上野及び信濃数郡を任された彼の配下に落ち着いた。
しかし本能寺の変後、北条氏直との一戦で敗北した一益は、羽柴秀吉の召集を受け清州へ向かってしまったのである。その際に昌幸は上野、信濃の豪族をまとめ上げ、実質的な支配権を獲得した。
「では隣接する三家全てが敵であると?」
「そうなれば羽柴と合わせて四面楚歌だ。故に今、父上が考えておられるのは三家の内の何処に臣従するか、ということだろうよ」
何しろ真田家は北に上杉、東に北条、南に徳川。いずれも強大な力を持つ大名家に地理的に囲まれているのだ。何れかに臣従しなければ滅亡は必至である。
「武名ならば上杉でござりましょう」
「それは謙信公の頃話であろう」
「それもござりますが、先だっての内乱を見事沈めた上杉景勝と申す当主。かなりの戦上手と見ましたが」
「どの辺りのことを申しておる」
弁丸は、信幸に試されていると思った。背筋に緊張が走る。答えは、間違えられない。
「援軍を呼ばせなかったこと、にございます」
「なるほど。同意見だ」
景勝に敵対していた上杉景虎は北条氏康の三男である。北条に援軍を要請していたが、景勝が武田と同盟を結んだため勝ち目が薄くなり、北条家は援軍を中止したのである。
弁丸は兵法の論議で兄と意見が合うことが何より嬉しかった。
「しかし上杉に臣従するのは危うい」
「は?」
内心で小躍りしていた弁丸は肩すかしを食らった。
「先の内乱で上杉の国力は落ちている上、新発田重家の反乱もある。信濃の事情に関わる余裕はないであろう」
上杉に臣従しても、北からの脅威が無くなるだけで旨味が無い。どうせなら別の脅威からも守ってくれる大名家につきたい。それが信幸、ひいては昌幸の考えであった。
「徳川だ」
「北条の方が武名高く、国力も安定してございます」
「旧武田家臣が徳川に多く雇用されている。徳川につけば冷遇はされまい」
「むぅ……」
信幸は納得しない弁丸を見て溜息を一つ。
どうも弁丸は三方ヶ原で武田信玄公に蹴散らされた徳川家康を軽んじているようだ。もし父・昌幸と自分が戦死したら、当主となったこやつはどの様な行動に出るのだろうか?
「まぁ、お決めになるのは父上だ。俺たちは情勢から目を離さず、且つ鍛錬をして待っていればよい」
「然らば槍の稽古を!」
床の間に置いた槍を持ち上げ、子犬の様に庭に駆け出す弁丸。それを見た信幸がやれやれ、といった面持で庭へ出ようとした時だった。
「若様、御来客でございます」
待女が来客を告げる。
「誰か?」
「慶次郎と申す方です。やたらと大きな体躯をしていらっしゃいました。吾妻川の河原で待っているそうでございます」
「あの者が……!?わかった。すぐに参る」
信幸の眼の色が変わり、槍をぐるんぐるんと振り回して待っていた弁丸を放って行ってしまった。嫉妬の炎に焼かれた弁丸は槍を持ったまま後を追う。
「ついて来るな弁丸。大事なのだ」
「女人で?」
「阿呆!」
結局、弁丸は槍を持ったまま河原までついて来てしまった。
「お久しゅうござる。信幸殿」
弁丸は度肝を抜かれた。煌びやかな女人でもない。かといって正装をした他家の使者でもない。薄汚い格好の大男ではないか。信幸とは二十も歳の違う老人に見える。
この男と、数十年後に槍をかわす事になろうとは。弁丸……真田信繁は、この時考えもしなかったのである。




