第二十七話 常在戦場
九月某日。やっとの思いで戦乱時から改修を終えた徳川家康の新拠点、武蔵野国・江戸城にて。約三十人の若武者が、家康と友誼を深めるためと称して宴会場に集められた。集ったのは徳川家臣、もしくは従属大名の子息達である。
「徳川家康様の御成である!」
宴会場の上座に家康が現れる。仮にも名の通った男達の息子が平伏する。
「苦しゅうない。その方ら、顔を上げよ」
主君の言葉にようやく顔を上げた二世達の脳に冷や汗が走る。家康の傍らに控えている人物……本多平八郎忠勝の存在である。
「貴殿ら、若い衆に集ってもらったのは他でもない。座談をしたいと言うのが、この平八郎の頼みでのぉ」
「と、東国無双の本多様と語らう機会を頂けるとは!我ら、恐悦至極にございます!」
二世達の言葉を聞いて、忠勝が苦笑した。
「あのな、俺は後見人にすぎぬ。お前らには、娘の相手をして貰いたいのよ」
「む、娘?」
「申し訳ないが、多少の無礼をお許しあれ。先に謝っておくぞ」
忠勝が急に二世達に平伏する。慌てて平服仕返す男達を見て、家康は一抹の不安を覚える。
「平八、これは下手をすると誰も眼鏡に敵わんやも知れぬぞ」
「その時はその時にござりましょう。よし、義理は通した。小松、入って来いや」
「応!」
二世達は絶句した。上方から会場に入って来たのは、思わず見惚れてしまう様な黒い髪。スラリと高い腰。極め付けは鷲の様な三白眼を持った少女であった。
「本多忠勝が長女にしてその主君、徳川家康様が養女。小松姫である!」
呆気にとられる二世達の顔を見て、小松の眉間に皺が発生する。
大名に輿入れをする体裁を整えるために、徳川家康の養女となった小松姫。彼女の夫を決めるための、一大品評会……もとい、『小松姫と語らう会』が催された。
「なぁなぁ、私は武芸の稽古、特に薙刀や弓が好きで……」
「はぁ……左様でござりまするか」
宴会の趣旨は小松と心行くまで語り合う事で、双方の魅力を見出す目的である。にも関わらず、二世達は小松の眼力と本多忠勝の無言の威圧に恐れをなし、押し黙ったままである。彼らの大半がこう思ったに違いない。
――ああ、圧されるとは、こういう事を言うのだ……。
もう初陣を果たしている者が大半であるはずであった。にも関わらず畏まってしまう理由は、小松姫の持つにわかには信じがたい逸話が影響していた。
******
「せいっ!」「うりゃあ!」
時を遡る事ふた月。七月某日、本多忠勝の居城・大多喜城から元気な声が漏れてくると、城下町の人々の顔が綻んだ。
「小松様は今日も元気じゃあ」
「うちの倅も、小松様の様に育てにゃあなぁ」
「女武将、いやぁ忠勝様も良い跡継ぎを育てなさった」
「アホ、姫が跡継ぎになれるかいや」
大多喜の元気印、小松姫は町の人気者。本気で忠勝の後を継がせては、という笑い話も出てくる程であった。
「せりゃあ!」
「うあっ」
その重く大きい薙刀は、本多家の長男・次男の足を同時に刈った。バランスを崩した二人は同時に、肩から地面に落下した。
「忠政、二郎。覚悟ぉ!」「やめぇい!」
本多忠勝の怒声が響く。少女は本気で打ち下ろす気だった木製の薙刀を、二人の頭の部分で寸止めした。
「小松……何してやがる」
「何とは無いでしょう、父上。戦場で恥をかかぬ為の稽古にござります」
「馬鹿たれ。再来月、お前は見合いだぞ?分かっててやってんだろ。その乱暴、他家にまで噂が届いているぞ」
「おおっ、それは武名でござりまするな」
忠勝は長女・稲姫改め小松姫を無視すると、長男・忠政と次男・二郎をの首をそれぞれ掴み、睨み付けた。
「お前らそれでも本多の男か!たかだか女一人に良い様にやられやがって」
「姉上は女ではござりませぬ。鬼にござる!」
「やかましい、俺の娘を鬼と申すか!何もしなければほれ、人形の様に」
忠勝は小松の方を振り向くと、既に姿は無かった。待女に聞くと、町へ出てくると行って駆けて行ったらしい。
「全く……同情するぜ。あいつの夫になる男にはよぉ」
頭を掻き終えると、忠勝は忠政に稽古をつけ始めた。
――まぁ、あの男になるだろうがな。そうでなければ困る。
「小松姫様、お早うございます」「こまつさまー」
小松が町に出ると、いつも挨拶をしてくれる親子が声をかけてきた。
「うむ。その方らも元気そうで何よりであるの」
「何でも、輿入れをなさるとか?」
小松はその単語に対し、少し頬を緩ませる。
「ふふ、私に見合う男がいれば、の話だがな」
「こまつさま、こんいん?」
談笑していると、笑い声が突然、悲鳴に掻き消された。
「い、猪じゃあああ!」
「逃げろ、命が惜しかったら逃げろぉ!」
何と町中に、怒り狂った猪が乱入して来たのである。道のど真ん中を、まさに傍若無人に走り回っている。
「坊やーっ! ああ、誰か。後生でございます!」
歩行人が一目散に逃げる中で、母親が赤子を籠ごと落っことしてしまった。しかし猪は委細構わず、籠目がけて突進をかまそうとしている。
それでも当然誰も助けに行かない。行けないのだ。誰であろうと、この状況では足に糊がついてしまうだろう。
だが恐れを知らぬは本多の娘。声の方向を振り向いて猪と赤子の位置を確認した小松は、迷わず路上に飛び出した。
「姫様、危のうございます!」「こまつさまー!」
親子の叫び声も、今の小松は馬耳東風に伏す。素早く赤子を拾い上げると、
「ほらっ、しっかり掴め!」
母親の所まで下手で投げた。母親はやはり叫び声を上げながら、両手で間一髪掴むことが出来た。だが問題は猪の標的が小松に変わってしまった事である。
「危ない!」
「うわっ」
間一髪のところで避け続ける小松。及び腰の観衆から、その都度悲鳴が飛び交っている。このままでは埒が明かないどころか、いずれ体当たりを喰らってしまうだろう。小松は覚悟を決めた。護身に仕える武器は、一振りの脇差のみである。
――チィッ、長い薙刀が欲しいが……仕方ない。一か八かだ!
小松は腰から刀剣を抜くと、猪の突進をじっと待った。
「姫様、逃げて下さいまし!」「こまつさま、にげてー!」
『逃げるな! 進みながら相手をいなせ!』
悲鳴飛び交う戦場で、小松の脳裏に父・忠勝の教えが反芻した。激突の寸前、小松は体ごと斜め前に踏み込み、猪をいなした。
『相手の力を利用せよ。出来た隙を見逃すな、必殺の一撃をかませ!』
側面を獲った小松は、反復練習で体が覚えている動きを自然に行っていた。加速度のついた猪の頭めがけて、刀身を思い切り斬りつける。
「せぇぇい!」
猪の筋肉は分厚く硬い。しかしその超合金に傷をつけられるほど、その一の太刀は力強く、鋭かった。
「ピギャア!?」
何度も突進を観察したためか、タイミングも角度も完璧な切り口であった。これには猪も堪らなかったのか、呻き声をあげて進路を変更、遥か遠くへ逃げて行ってしまった。
「ひ、姫様ぁ!お怪我はござりませぬか!?」
「ああ、お気に入りの着物が破れてしまった。だが……」
小松は助けた赤子と母親の元へ歩み寄る。『ヒッ』と言って母親が平服するので、小松は首を振って否定する。傍らに置かれた赤子を竹籠ごと持ち上げると、
「本多忠勝は常在戦場。娘の私も同じだ。着物など、人の命には代えられぬさ」
「ひ、姫様……」
凛と背筋を伸ばしたその姿には後光が射していた。母親から見えた小松の姿は、異様なほどの輝度を纏って見えたに違いない。
――ああ、まるで摩利支天様……。
涙を流しながら何度もお礼を言う。
「もう大丈夫だ。元気な子に育てろよ」
「はい、はいっ!姫様の様な子に育てて見せまする!」
「ははっ、こいつぅ。減らず口を」
笑いながら去って行く城主の姫君を、人々は感動の、あるいは畏怖の眼差しで見つめていた。猪を脇差一本で、しかも女性が追い払うという神技を見たのだ。当然の反応であった。
――あの姫が、輿入れを……!?一体、どこに釣り合う男がいるものか。
尊敬と畏怖が混在していた。あの姫の夫になれる男が、果たしてこの日本にいるのだろうか?とその場の多くがお門違いの心配をしていた。
******
その逸話も、今目の前にいる姫の圧力からすれば、信じられようと言うものである。若武者達は命を賭して首を取る事はできても、狂い猪を退けられるかと言われると疑問符が付くどころか、股間が縮上がるのである。
「こう見えて私は炊事も出来るのだぞ。だから父上の出陣の折、私は……おい、聞いているのか?」
「は、はっ!聞いておりまするぞ!」
「何故、相槌を打つだけでそなたは話さぬのだ?」
「た、忠勝様の武勇伝を聞ける事こそ、この世の誉!どうぞ、お続け下さいませ」
「…………」
小松は小松で、密かにこの日を楽しみにしていた。『品評会をしたい』そう父親に注文を付けたのは、抜き打ちで自分を見てどう思うか、率直な雑感を聞いてみたかったからである。それは男勝りな性格の一端に残る、ささやかな乙女心。
しかし所詮は、恐い物見たさであると本人も自覚していた。反応は想像通り、委縮、平伏、苦笑い……。意見らしい意見すら返ってこないという始末。
女性として見られていない事は、誰の目にも明らかだった。
――成る程。期待した私が馬鹿者だったということか。
小松は立ち上がると、何を思ったか話し相手をしていた男の髷を掴む。
「痛たた!な、何をなされる!?」
「痛いか、悔しいか。ならば男らしくやり返して見せよ」
「ぶ、武家の男に対し、何と言う事を!」
「やかましい!」
小松姫は髷を掴んだ手を振り下ろす。急激な負荷がかかり、堪らず男は地に伏した。
「方々、私の横暴に対して思う所があるだろう。ならば、遠慮せずハッキリと申せばよろしい!本多の家訓は常在戦場、逃げも隠れもせぬ!」
「さ、左様な事……」
「私をどう思うのか、ハッキリ述べて見せよ!男であろう!」
忠勝が、そして家康が見ているのだ。ここで小松を非難すれば自らの出世の道は閉ざされる危険がある。それを小賢しくも分かっている二世達は、家のためにも動けない。
「……ッ!」
さらに激高した小松は一人一人の髷を掴んで、転がしていく。家康と忠勝が目を覆うほどの無礼であった。
「述べよ、述べてみよ!」
「ご、ご容赦下さりませぇ!」
「くっ……」
二世達の対応は一事が万事であった。虚しくなり始めた小松の目には、徐々に涙が溜まっていく。
「この、お前もか、お前もか、おまっ……!?」
虱潰しに一人一人の髷を掴んでいた、その時である。纏っている空気が一変し、小松の神経からの命令が途端に鈍くなる。干渉しているのは、横に座している男の圧である。男は眼を閉じ、背筋を伸ばしたまま正座を保っている。ただそれだけにも関わらず……なんと重い気を放つのか。
威圧感とは、言い換えれば自信の差である。相手に対し、絶対に劣ることはないという強い自負。その大きさが対面時において、相手に圧されるかどうかを決める。
戦国武将における自信とは、言い換えれば踏んだ場数・勝ち取った手柄の数である。戦場で、あるいは畳の上で、どれだけ苛烈な戦いを繰り返してきたかの差……。小松は間違いなく、その若武者に圧されていた。
――この男、一体どれほどの修羅場を!?
小松が髷を掴もうとする動きを止めると、男はゆっくりと開眼し、開口一番。とんでもない言葉を発した。
「無礼者」
「なっ……何と!?」
「この無礼者が!さっさと手をどけぬか!」
男は平手で小松の手を、荒っぽく払いのけた。この事態に対し小松は、今までの男との落差に感動を覚えていた。が、すぐに急転直下を体験した。
「其方が、本多の女性であると?笑わせるな」
「なにぃっ!?」
「本多忠勝殿は東国無双、口は悪いが武家の礼儀だけは心得ている事、少なくとも俺は知っている。だが其方は何だ?自らは我らが主君の娘という立場を利用して、髷を掴むわ侮辱はするわ」
「むっ……」
「斯様な礼儀知らずが本多平八郎忠勝殿の娘とは、俺には信じられぬな」
「貴様っ!」
小松の拳は、男の掌で止められた。尚も押し込めようとする小松の力を、素振りで鍛えた握力で押し返す。
「ぐっ……」
男は徐に、小松の黒髪と頬を空いている左手で撫でる。虚を突かれた小松の拳は、一気に力を緩めた。
「えっ、ちょっ!?」
「忠勝殿から聞いている。弟思い、民思いの優しき娘であると。だが斯様に美しい顔立ちをしていても、今の其方の心はまるで猪ではないか」
「うっ……?」
「勿体無い事だ。家康様、忠勝殿、某は失敬致しまする」
男は二人の上司の返答も聞かぬまま、怒りの表情を見せて退席してしまう。小松も、周りの二世達も茫然と去りゆく姿を眺めるのみであった。
「ち、父上!今の男!あの男の名は!?」
小松は顔の火照りをそのままに、脱兎の如き速さで実父・忠勝に歩み寄る。
「あいつぁ、信幸……真田源三郎信幸。『表裏比興』真田昌幸の嫡男だ」
「さ、真田!?」
忘れもしない、あの碓氷峠の北条戦。二郎と共に戦見聞に行った際の、あの笑いながら戦場を駆けた男……。自分が男の中の男を見た、あの二人の武者のどちらかである事は直ぐに察しがついた。
「父上」
「気づいたか」
「はい、あの男。い、戦をしておりました…」
常在戦場。小松が自分で言ったその言葉は、信幸が既に実践していたのである。信幸にとっての戦場とは、他家が関わる物事全て。例え宴会であろうとも、である。
――圧されるわけだ。今日の私のどこが『常在戦場』なのだ。
小松は必死で心の震えを抑える術を探した。しかし動悸は抑えられない。
――私が、美しい……?
結局、その日の座談会はそのままお開きとなった。が、家康と忠勝はその結末に満足したのか、薄らと笑みを浮かべていた。




