第二十六話 測量対決
「一国ほどの戦功はあげられなんだか……」
「申し訳ございませぬ」
1590年七月。降伏した東北諸侯の処理に取り掛かる前。秀吉は、真田昌幸の謁見を許した。
当然、信繁による忍城攻めの結果報告である。既に三成から聞いてはいるが、信繁に身近である昌幸からも話を聞く必要があった。
「嫡子には……」
「無理じゃ。兄の信幸はしっかりと功を上げとるんじゃから、民や重臣の反発は抑えきれまい?」
「……」
「沼田は信幸に与える。だが信濃一国はやれん。廃嫡の話も無かったことにする他あるまい」
昌幸は伏せた顔をしかめていた。秀吉から見えない事を良い事に、思い切り顔を崩していた。
「昌幸よ。東北が残っているとはいえ、もう天下は治まったのじゃ。良いな」
「……ははっ」
昌幸は、秀吉の興味が信繁から遠ざかっている事を察した。
――信濃一国を信繁に。そんな気はさらさらなかったのか。秀吉にとって真田とは、その程度の存在だったという事なのか。
その予測は当たっていた。この時、秀吉の興味は、遥か海の先に向いていた。こうして昌幸の信濃支配計画は、『一旦』立ち消えとなったのである。
******
「信繁、はよう支度をせぬか」
「……嫌でござります」
「阿呆、石田殿が到着すると連絡があったのだぞ。迎えに行かねば失礼になろうが」
「兄上が、お一人で行かれるのがよろしいのでは」
八月上旬。所変わって、関白秀吉の命により正式に信幸に与えられた沼田領である。信繁は秀吉の人質から一時解放され信幸と共にいた。
天下統一が成った今、秀吉は財政基盤を固めるべく躍起になっていた。所謂※太閤検地である。ここ沼田でも秀吉の命により石田三成が派遣され、信幸と二人で検地を行う約束になっていた。
信幸は三成との交流がほとんどと言って良いほど無い。なので親交のある信繁がついて来ると助かるのだが……。
ずっとこの調子で寝転がっている始末。普段なら、どんなに信幸が忙しかろうが知らぬ気で素振りをする、あの信繁が、である。
信繁が忍城を落とせなった事により、信幸は秀吉・昌幸から家督を守り切ったと言える。だが信繁の精神的な傷は、思いの他深手だった。
「いつまで不貞腐れているつもりだ?」
「それがしには、与えられた領地がござりませぬゆえ」
「お前にも直ぐお鉢が回ると言っているだろう。後学のためについて来るのではなかったのか?」
「気が変わり申した」
「……もう良い。そのままそこにおれ」
信幸も暇では無い。いつまでも動かない信繁を相手にしている時間は無いのだ。乱暴に襖を閉めて部屋を出ると、馬を走らせ三成を迎えに行ってしまった。
信繁はムクリ、と起き上がると、額を何度も、何度も柱に叩きつけた。
******
「お、お初にお目にかかりまする治部少輔殿。真田源三郎信幸でございまする」
「石田……治部少輔、三成でござる。然らば……早速始めましょうぞ……」
待ち人信幸の前に現れたのは、頬がこけて蒼白い顔をしている文官であった。
――これは、一体……!?
先程捨て置いた信繁を見ている様だった。各国の領地替えや東北の仕置きに伴い、三成は多忙であるとは聞いていた。だが、このやつれ様はそれだけではないと信幸は感じた。
「如何なされたのですか?」
「如何とは……どの様な」
「長旅で疲れていらっしゃる様子。本日は我が屋敷にてお休みになられては」
「左様な気遣いは……無用でござる……」
信幸は想像した。諸侯の間で、三成が『女の守る城』を落とせなかったと、陰口を叩かれる様を。そして今の信繁と同様に、自信を失っているのだと。
そう考えた途端、信繁の兄たる信幸には、三成が他人に思えなくなってしまった。
――ええい、どいつもこいつも世話の焼ける……!
「では早速」
「石田殿、お待ち下され」
挨拶もほどほどに、連れて来た百名の人員と共に検地を始めようとするが、信幸はいきなり待ったをかけた。突然、懐の中から一冊の帳簿を三成に向かって差し出す。
「信幸殿……これは?」
「検地帳でござる」
「は?」
「は、と言われましても。先日、某が調査した検地の結果にござる」
「……はぁ!?」
三成は絶句した。信幸は何と沼田を与えられた七月中に、検地を終えていたのである。独自の手勢のみの力による調査。昌幸に見せたところ、中央の検地を受け直す様厳命されたため、見せるつもりは無かったのだが……。
勿論三成にしてみれば、ハイありがとう、と受け取る事はできない。自分は関白秀吉から遣わされた奉行である。田舎の小大名の自己申告をにわかに信じるわけにはいかなかった。
さらに三成自身は、人を救う、助ける事に至高の喜びを抱く変人。何よりも仕事を奪われる事を嫌うのである。すぐさま信幸に反発した。
「ほう、二万八千石でござりますか。この沼田の面積なら、もっと大封であっても不思議では無い」
「この真田源三郎の検地が信用ならぬと?」
「左様です。失礼ながら、我が手勢にて今一度調べ直させていただく」
「然らば、某にも手伝わせ」「無用にござる!」
信幸を怒鳴りつけると、三成は忙しく指示を出し始めた。仕事をする時の三成は誰もが認める鬼である。例え相手が大名であっても物怖じはしない。
一方の信幸は、用意しておいた人員百名に三成の指揮下に入るよう伝えると、黙って屋敷へ戻って行った。
――田舎大名が、中央の測量技術を舐めよって!誤魔化せると思うなよ!
そしていつの間にか、三成の顔には生気が戻っていた。屋敷に戻った信幸は、三成へ水と握り飯を持っていく様に待女に指示を出した。
******
十日後、信幸と信繁はやはり屋敷にいた。
「ここしばらく、連日で様子を見に行った。恐らく、今日にでも石田殿は検地を終えるであろう。流石に凄まじい手際の良さだ」
「左様でございますか」
「あの男、ほとんど屍の様な姿であったぞ。まるで今のお前の様にな」
「左様でございますか」
「……」
信幸は溜め息もつかず、じっと信繁を見つめている。その責める様な視線を嫌った信繁が口を開く。
「あ、兄上は、恥をかいた事が無いから、某や三成殿の気持ちが分からないのです!」
「恥?」
「『女の守る城』を落とせなかった。世間で、中央で三成殿が、某がどの様に思われているか。兄上には想像もつきますまい!」
「お前は初陣だった。むしろ首を三つもとったのだ、十分によくやった」
「聞きとうはござりませぬ!」
予想していた通りの事を信幸が言う。敵に対する弱みは叩き、家族に対する弱みは慰める。その信幸の思いやりが、より一層信繁の心を引き籠らせる。
信幸は眉間に皺を寄せ、悲しい顔をした。信繁は直視することなく話を進める。
「兄上はようござる、何でも一人で出来てしまう故!なれど、だからこそ、出来ない者の気持ちを汲むことが出来ぬのです!」
「……」
「図星にござりましょうや!?」
信繁の声は既に震えていた。顔を背けているのは、恐らく涙を隠す為だろう。
「某だけではない。三成殿だって、もう立ち直れぬに違いありませぬ」
「それは違うぞ、信繁。あの男はもう立ち直っている」
「え?」
その一瞬の空白を縫うように、才蔵が部屋を訪れた。
「信幸様。石田三成様がお越しです」
「検地が終わった様だな。俺は石田殿と客間で会って参る。で、お前は如何するのだ?」
「……」
「すまんが待っている暇はない。ではな」
信繁は、三成があの敗北から立ち直っているという情報が、どうしても信じられなかった。否、信じたくなかった。
――もしそうなら、自分が馬鹿の様ではないか。
信繁は忍び足で客間に向かうと、襖の隙間から、そうっと二人の会談を覗き見る。
「ご覧あれ、この台帳を!二万八千石と申告なされたが、二万七千石でございましたぞ!」
三成が鬼の首を取ったかのように該当部分を指さしている。『見たか!これが俺の測量だ!』と目が語っている。その差が信幸に利するという事には、気づいていない様であった。もはやその眼は完全に生き返っていた。
「これはしたり。一千石も誤差が出ようとは……あいや、某の測量もまだまだ甘い。この勝負、完敗でござるな」
二人は勝負などしていない。が、三成はこの言葉で増々気を良くしていく。信幸の人心掌握術だった。
「ハハハ!いや、信幸殿も、中々の正確さで……」
「如何なされた?」
三成は気づいた。疲れているので体は重い。が、それに反比例するかの様に精神が充実していた。仕事に没頭したからである。いつもの自分に戻ったからである。
つまり信幸のかけた術にまんまと嵌ったのだ。
「信幸殿。貴殿はまさか」
「信繁は」
突然信幸は、襖の外にいる弟の名を出した。
「信繁は、豊家の役に立てましょうや?」
「信繁か……兄である貴殿へ失礼を承知で申すなら。あ奴は、大局を見る目は持っておりませぬ」
「某もそう思いまする」
「だが」
信繁は震えていた。『この位置』からでは、掛け値なしの二人の本音を聞かざるを得ないからである。体がまるで鍾乳石の様に、冷たく硬直するのを感じる。
「誓って言えまする。殿下は必ず信繁に官位を与えて下さると」
「何ぞ根拠が?」
「あ奴の忠義は本物でござる。裏切りの心配がない」
「忠義、でございますか」
「殿下への忠義。そして俺が思うに……あっ」
「構いませぬ。忠義を払う相手が他にいるのでございますか?」
あまりの話しやすさに敬語を忘れた三成に対し、信幸は配慮した。
「きで……」
「続きは?」
「いや、これは止めておこう」
「……?」
信繁が忠義を尽くすもう一人の相手は、三成の目の前にいる。だが本人にそれを言ってしまえば、信繁は顔から火を噴くだろう。そもそも、信幸が気づいていない筈はないのだから、言う必要は無い、と三成は思った(実際には信幸は気づいていない)。
「とにかく、殿下への忠義は本物だ。そうでなければ、あんなに四六時中槍は振れはしない。忍城でだって、奴は片手で火縄を操り、十字槍で相手の腸を破ったのだぞ。吉継殿が見たところ、神技でしかない、軍神だとも言っていた」
「軍神、でござりまするか」
忍城での信繁の武者働きは、信幸が聞いても見事の一言である。信繁自身は認めようとしなかったが。
改めて第三者の意見を聞いて、信幸は弟を誇らしく思った。
「安心いたした。いつか弟は豊家の役に立つのですな」
「当然だ。フフッ」
「石田殿、何を笑われているのです」
「弟を思う姿、信頼に値する。其方と話すのは楽しい。仕事が捗る上に嫌な事を忘れさせてくれる」
「買いかぶりでは」
「俺に活を入れるために、測量の勝負を挑んだのであろう」
「む……」
参ったな、という表情で信幸は頭を掻く。図星である事を手っ取り早く表現したのだ。
「世間や、諸侯の風当たりが強くてな。酷く落ち込んでいたのだ」
「お察し致す」
「だが、この十日間だ。貴殿への対抗心が、俺にその全てを忘れさせてくれた。一度しか言わぬぞ。……有難かった」
三成は信幸の手を取り、頭を下げる。
「自分のやるべきことを思い出す事ができた。いくら誹りを受けようと、まだまだ豊家には俺が必要だ。そして」
「信繁も、でござりますか」
信幸の言葉で、信繁は体中に熱を感じた。涙腺を駆け巡る熱を。
「信幸殿。俺と、生涯の友になってくれるか」
「某は五歳も年下ですぞ?」
「俺と親友の契りを交した大谷吉継も、二歳離れておる。気にするな」
「ならば、『俺』の方からお願いする。三成殿」
二人は手を繋ぎ合う。信幸はこれに乗じて、一つ要求した。
「早速だが一つ、我が友に願いが。沼田は※貫高制を敷きたい」
「貫高?※石高制が殿下の意志だ。それに兵糧が安定せぬぞ?」
「亡き君主……勝頼公の政を、一つだけ残しておきたいのだ」
「同時に、真田の特別性も示せるしな?」
「……」
「分かった。そなたの頼みならば」
三成は快諾すると、客間を後にする。
「では、これにて」
「しかし、労いの準備をさせているぞ?」
「時間が惜しい。次は大坂で、俺が貴殿を持て成そう」
「楽しみにしておこう」
三成は深々と礼をすると、足早に去って行った。次の業務が待っているのだ、のんびりはしていられない。
信繁は信幸に気づかれない様に、その場を去った。眼を真っ赤に腫らしていた。
まだ気持ちの整理はつかない。だが、今の自分に出来る事、それはあるかどうかも分からない次の戦に備える事。次こそ、武名を得、大功を立てるために……。
信繁は、槍を振るのである。
「いつか、いつかッ……!」
信幸は縁側に出ると、満月を見上げながら、懸念を口にする。
「秀吉への忠義、か。……両刃の剣でなければ良いが」
真田信幸と石田三成。後にこの二人の友誼が天下を左右するとは、この時点では誰一人考えていなかった。
******
所変わって、上総かずさ国・大多喜おおたき城の本多忠勝の屋敷。忠勝の長男、本多忠政は、屋敷の廊下で姉・稲姫とすれ違う。
「如何でしたか、姉上」
「半刻ほど説教されたが、もう慣れた」
「はぁ……姉上ではなく、父上と二郎に同情いたしまする」
稲姫と次男坊・二郎は小田原合戦の際、三か月ほどの家出を敢行していた。当然、途中からは見張りを付けていたものの、やはり家族としては許せる行いでは無い。
「しかし反省は必要でございます!姉上にもしもの……」
「何だ?」
「いえ、『もしも』はございませんな。姉上には」
黙っていれば、行動しなければ弟の自分でも密かに想う程の美人なのに、と胸中で忠政は溜め息をついた。彼女は屈強過ぎるのである。
「だが、輿入れはいたす事にしたよ」
「えっ誠でございますか!?」
「だが、条件だけは付加させて頂いたがな」
「い、如何なる!?」
稲姫はニヤリ、と笑うと忠政の耳に吐息をぶつけながら告げた。
「品定めをさせろ、とな」
※太閤検地……秀吉が征服済みの国の石高を把握するために行った収穫量の調査。ただし現在(1590年)はまだ秀吉は太閤ではない。
※貫高制……納税の際に金銭を徴収する制度。ただし銭の質が安定しないため、地方によっては向かない土地もある。
※石高制……納税の際に米を徴収する制度。秀吉の統治ではこちらがほとんど。




