第二十五話 超えられぬ壁 ―周防と信繁―
「凄い、凄いぞあの兵器!」
「姉上、苦しゅうございまするぅ」
稲姫は興奮冷めやらぬと言った様子で二郎を抱きしめていた。
「なるほど、事前に考察しておけばあの様な策も生み出せるのか。奥が深いなァ、真田は」
「姉上は真田に興味がおありなのですか?」
「私じゃない、興味があるのは父上だろ。でも、真田と本多が戦になった時のための参考になるだろう?」
「戦、戦と。姉上は輿入れが先にござりまする」
「輿入れは嫌だ!だから帰りたくないのだ」
二郎の髪を揉みくちゃにしながら、稲姫は戦場に目を移す。
「ん?」
一人の将に目が留まる。指示を出している老獪な指揮官に対し、あまりに若い。それが稲姫の雑感であった。
なぜなら、歴戦の将に比べて、その体があまりにも力んでいる様に見えたからである。
「あの武者……危ういかもな」
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「くそっ、弓矢も銃弾も当たらないではないか!」
二の丸の守備陣を前にしても、昌幸の破城槌は猛威を振るい続けた。援護に三成と佐竹義宣も到着し、敵兵の数を削りながら城門を破壊する。
「竹束にあんな使い方があるとは……くそっ、真田め!やつらさえいなければこの戦も無かったのに!」
「長親様、如何致します?」
「くっ、撤退!軍師様の指示通り、本丸へ上れ!」
長親の憤りも虚しく、二の丸の門は破られた。その寸前に長親の隊は撤退を開始し、追撃を免れた。
「逃がすな、本丸を攻める前に少しでも数を減らすのだ!」
昌幸が猛り全軍が我先にと飛び出した、その時である。心臓を刺すような甲高いうめき声が、一帯に鳴り響いた。
「きっあああぁぁぁ!?」
「ぎぃぃ、痛いぃぃぃ!」
「何だ、如何した?」
「や、槍にございます!」
昌幸は傷を負った兵士の一人に近づき、確認をとる。何か、視認できない何かが兵士たちの足の裏を貫いている。
昌幸は不明を悟った。三の丸から続くこの酷く不明瞭な地面。この必要以上にぬかるんだ地面は、機動力・体力を奪う為だと思っていた。だが、そうではなかった。
このぬかるみを作った目的は、本当の地面の隠蔽。継ぎ目の消却。つまり、この下に埋め込まれている……鋭い竹槍を隠すためだったのだ。
罠である。
「全軍、止まれ!地面には槍が」
叫んでももう遅い。北条兵のこれ見よがしの敗走につられ、後詰の三成や佐竹の軍までも次々と罠へ飛び込んで行く。程なくして、阿鼻叫喚の地獄絵図の完成である。
昌幸は息を吸い込んだ。彼らを切り捨てて、更なる追撃を決意する。
「信繁ぇ!やつらの足跡を辿れ」
「足跡?……あ!」
「理解したな?ここからは貴様が指揮官、そして先鋒だ。行け!」
北条兵の退却した道が、唯一安全に通り抜けられる道なのだ。信繁は迷わずその一本道をかけた。一歩踏み間違えば、周囲にビッシリと張り巡らせてある竹槍の餌食となる一本道である。
「す、凄い!信繁様だけ、全然竹槍に引っかからねぇぞ……」
罠にかかる兵士達からしてみれば、まるで信繁が空中を歩いているかの様だった。
「皆の者、手柄が欲しくば信繁に続けぇ!」
「なにくそぉ!」
昌幸の号令に呼応して、再び軍が起動する。信繁の本丸一番乗りを許すまいと、無傷の兵士達はその後に続いて行く。
――お膳立てはここまで。源次郎、信幸の壁を超えて来い!
昌幸は気づいていた。軍師・多目周防守の存在に。危険な相手と知っていながら、信繁を向かわせた。
もし信繁が彼を打ち破れるなら、信幸と自分の能力が遜色ない事の証明になる。昌幸は信繁にとっての試金石として、周防を利用したのである。
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『弁丸よ。政も学ばねば、何の役にも立てぬのだぞ』
『某はずっと、戦場を駆ける矛であれば良いのです』
『武名か?』
『はい。大きな戦場で、後世に残る様な大手柄、兄上に捧げて見せまする!』
子供の頃の口癖だった。何度信幸に諭されても、決して信繁は政に興味を示さなかった。
父の方針でもあった。戦における謀略の類は、頭に叩き込まれた。だが政に関しては一切を教えられなかった。信繁は、そして信幸も気づいていた。父は、息子が小賢しくなる事を嫌ったのだと。
それでも兄は、自発的に学び、父を真似、賢くなっていった。自分にはそういった事ができない。ならば自分は、兄を守る盾となろう。兄に使われる矛となろう。
その代わり、武名は自分が貰う。それならば、二人はお互いを卑下せず兄と弟、長幼の序のみが残る。
だから兄は政。弟は戦を本分とするのだと、ずっと信繁は疑っていなかった。碓氷峠で笑いながら二人で走ったあの初陣は、その序章になるはずだった。
それだけに、父の言葉が彼を焦らせた。『これが最後の戦である』。その言葉を聞いた時、どれだけの量の水分が分泌されただろう。
武名を上げられなかった自分など、誰が敬ってくれよう。散々悪態をついた果てに兄は言うだろう、『お前はよくやった』と。家臣や領民に陰口を叩かれながら、兄に慰められて生きていく……。
――その様な屈辱、死んでも御免だ!
信繁は、死ぬ気で武功を上げる事を決めていた。この戦が武名をあげる最後の機会。小田原城落城までに、絶対に功を取る!
奇跡的に、信繁配下の真田兵は半分以上の戦力を温存したまま本丸に到達した。
だが、ここまで到達できた人数は全軍の半数にも満たなかったのである。更に目の前には……退却したと思われた北条の鉄砲隊が隊列を整えて待っていた。信繁は万事休すを悟る。だが。
――最後の戦、止まるわけには……。
「いかぬのだァァァァ!」
功を焦り、欲望丸出しの信繁の必死さは、逆境を裏返そうとしていた。片手には通常よりも軽い竹束を、片手に十字槍を。信繁は鉄砲隊に真正面から突っ込んでいく。佐助が悲鳴の様に叫んで止めるのも、耳に入っていなかった。敵将が鉄砲隊の背後に見えたためである。
――あれが、大将首。手柄、手柄、手柄ぁ!
「撃てぇ!」
綺麗な横一線の隊列から銃弾が放たれる。一つは肩を掠めた。一つは兜の角を掠めた。更に一つは、竹束で弾く。……生きている!
「セイアァッ!」
信繁は竹束を敵兵目がけて放り捨てると薙ぎ払い一閃、次弾の転送を急ぐ銃兵達の腸を裂いた。
「ぎゃひっ」
グロテスクな姿に変えられた敵兵の悲鳴を頭の中から掻き消して、着火済みの火縄銃を拾い上げると、北条兵に銃口を向ける。
この時、信繁の天性の感覚は発射の際の反動を制御し、当時では神業とも言える片手射ちを可能とした。
――チュンッ、パァン。
一人に命中、致命傷を与えた事を確認すると、信繁は用済みになった火縄銃を敵将へ投げつけ、その首に十字槍の突き付ける。
が、間一髪、鉄製の軍配で弾かれた。
「逃がすかぁッ!」
体重の掛け合いを制し、長親を城壁に押し込める信繁。信繁の神業に気圧された北条兵も、その北条兵の銃撃に気圧された豊臣軍もその場を動けなかった。
「手柄、最後の手柄ぁ!」
「真田ぁ、貴様らさえいなければ!」
「往生際だぞ、潔く我が槍の錆になれ!」
「粋がるな小童めが。貴様は既に片足、地獄に突っ込んでいるのだぞ」
「何を言っ……て!?」
その言葉と城門の開く音を聴いた時、自分が指揮官として如何に愚かな事をしでかしたかを悟った。
振り向けば、どこに温存していたのか虎の子の騎兵百人が出現していた。失態であった。自分の突出のせいで、ついて来た後続の兵は騎兵と鉄砲に挟まれてしまったのだ。
慶次郎の言葉を思い出す。
『昨日今日初陣を果たしたガキが、いきなり指揮を執れると思うか?』
真理を突かれていた事を、自らの行いが証明する。如何に武勇に秀でていようが、指揮能力とは別の事。悔しくて、口惜しくて、まだ死地にいるのに涙が出てしまう。
信繁は、未だ精神が若すぎた。
「真田ぁ!!今こそ積年の恨みを晴らす時!」
出現した騎兵は鉄砲隊との挟み撃ちを狙った、最後の戦力である。指揮を執るのは、軍師・周防守元忠その人であった。
目の前に、六文銭の旗。蹂躙を確信した周防は心の昂りから、戦場では有り得ない勃起すら出来てしまいそうであった。
「周防様、後はお頼み申す」
「応よ。騎兵、突撃じゃあ!」
周防?多目周防守元忠?
挟み撃ちに遭い敗北を悟った信繁は、その名前に過敏に反応した。忘れもしない、手子生城で兄が打ち破った記念すべき敗軍の将。聞く限り自分も勝つ自信のあったはずの相手だった。だが結果はどうだ。
――某は、兄上に政も戦でも到底敵わない。某の存在価値は……。
「くああぁぁぁぁ!」
「信繁様ぁ!」
槍を振り回して突っ込んで行く乱心の信繁。決死の思いで佐助が体当たりをかまして止める。
「兵に退却の下知を!」
「ぐっ……」
「信繁様!」
「放せ、戦わせろぉ!」
「馬鹿者、それでも私の娘婿か!」
泣き叫ぶ信繁を殴りつけたのは、大谷吉継であった。同時に彼は臨時総大将として、全軍退却の合図を下す。
「従五位下刑部少輔、大谷吉継の命である。全軍、二の丸まで退却せよ!」
大谷吉継の名を聴き、退却の大義名分を得た豊臣軍は退却を開始した。だが、信繁はそれでも駄々を捏ね続けた。
「佐助、放せ!戦が、最後の戦が終わってしまう!」
「いい加減にして下され、命あっての物種でござる!」
「嫌だ、某には戦しか、戦でしか!」
「信繁様……」
「うわああぁぁぁ!!兄上ぇぇ!!」
信繁の慟哭は昌幸の耳にも届き、彼の士気までもガックリと挫いた。
「方々、深追いは無用。今日の戦は……これまでだ」
周防の騎兵に追い立てられるように、本丸から兵は撤退した。そして士気が壊滅的に下落した七月七日、遂に『時間切れ』となった。
難攻不落、北条氏最大の拠点……小田原城の開城と実質的な当主・北条氏政の切腹。即ちこれ以降、豊臣軍が北条氏を攻める大義名分が消失したのである。
忍城には使者が送られ、同様に開城を行った。これによって二百万石の大大名・北条氏は滅亡したが、忍城だけは最後まで落城を免れた。
全ては周防の計算通りの結果に終わった。
天下統一は完了、この日本では『惣無事令』のおかげで戦争は事実上無くなった。『女の守る城』を落とせなかった事実は、三成の人生の汚点として残る事となった。
信繁はこの戦で、一人の兵としての戦功は確かにあげた。だが一軍の将としては、何一つ実績を残す事無く……赤子の様に泣き叫びながら初陣を終えたのだった。




