第二十三話 翻弄される将
六月十五日。三成は堤の工事を中断する。
――ここまで努力の跡を見せれば、殿下への義理は果たせている。もう十分であろう。
「兼続、水攻めは中止だ」
「何?殿下の命令ではないのか?」
「万が一だが、小田原城が先に落ちたら冗談にもならぬからな。正攻法でいくぞ」
「もっともだ。乗ったぞ三成」
兼続も同意し続けていた堤の工事をほどほどに切り上げると、兵に休息を取らせた。我慢弱い……もといせっかちな兼続ならばこの策に乗って来ると、三成は信じていた。
総大将として、この忍城攻めだけはしくじれない。そのためには上杉の力が必要であった。
「忍城は構造上、一方向からしか攻められぬのが難点だが。波状攻撃ならば、上手くいくやもしれん。第一軍を石田隊が引き受ける」
「なれば、第二軍は上杉が務めよう。弁丸……いや、信繁殿は第三軍として動いてくれ」
「ぎょ……承知」
兼続の突然の敬意に驚いたのか、信繁は挙動不審な動きを晒してしまった。
「ふん、何を驚いておる」
「御家老が、いきなり『殿』などつけるからでござる」
「馬鹿が。今の貴様は煽ててでも使わねばならんからに決まっておろう」
「漫才をやっている場合ではないぞ!作戦は明日だ。時間は何より貴重な財産、急いで支度せよ!」
三成は二人に檄を飛ばすと、陣地へ馬を走らせた。それを見送った二人もそれぞれの軍を纏めるため、両陣営に戻って行く。
「期待を裏切るなよ、信繁」
「御家老こそ!」
――ほう。自発的に動けているではないか。
兼続は信繁の中の『信幸』が薄まっている事を感じ、ニタリと笑った。
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「す、周防様!急に豊臣軍が隊列を整えましたぞ!?」
忍城天守から見下ろす豊臣三隊の列は壮観であった。成田長親は安全な天守にいるにも関わらず後ずさった。
しかし、周防は動じていなかった。
「案ずるな長親殿。この忍城の敷地は他の支城の比にならぬ……やつらがどこまで全力で駆けてこれるかが見ものよ」
「と、申しますと?」
「鈍いのう。大軍が、我先にと功を競ってこの天守を目指すのだ。だが城下からここまでの距離は尋常では無い。体力がなくなったところに鉄砲を打ちかけるのよ」
「しかし、豊臣は隊を三つに分けてござるぞ!?」
「何じゃと?」
寝転がっていた周防は老体とは思えないバネで起き上がると、天守から顔を出す。『大一大万大吉』『亀甲三葉』そして『六文銭』。三つの軍旗の元に、それぞれ兵士が集っていた。
「ほう、豊臣の茶坊主め、やるではないか」
「ど、どうなるので?」
「隊を分けられたのだ、あのうちの一隊でも力を温存したままここまで来てみろ。我らに勝ち目はなかろうぞ」
「そんな殺生な!」
「ふ、案ずるな。手は他にも打ってあるのよ」
そうこうしている間に『大一大万大吉』の旗印、即ち石田三成隊二千が動き出した。
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「姉上ぇ、いい加減に帰らねば。父上に怒られるどころか、殺されまするぞ?」
「本望だ。私は嫁になぞ行きたくないからな」
「またその様な……某までとばっちりではないですか」
「それより二郎、あれが『女の守る城』らしいぞ。この戦だけは終始見ておかねば」
稲姫と二郎は忍城を一望できる高地に来ていた。当然お忍びである。もう三か月も行方を暗ましているこの二人に、本多忠勝がどのような裁定を下すかは想像に難くない。故に二郎は怯えきっていた。
「おお、本当に天守に女が立っているな」
「姉上、見えるわけがありますまい」
「私には見える。目が良いからな。見えなくても感じ取れる」
「また気持ちの悪い事を」
「む……?」
稲姫は幽かに、本当に幽かに見える甲斐姫の姿が、小刻みに揺れている様に見えた。
そこから怯えを感じ取った稲姫は、三将より一足先に城の真実にたどり着く。
「あの女、守り手ではないな」
「へ?」
「父上が言っていた。指揮官は堂々たる姿を見せて兵を安心させる者だと。あんなに怯えた姿では、姿を晒す意味など無い。逆に士気が下がるのが関の山だよ、二郎」
「で、では何故?」
「恐らく、『女の守る城』にする事に意味があるんじゃない?どうやらあの城、凄い軍師がいる様だ。おおっ、武者震いがするね、二郎!」
「姉上は武者ではござりませぬ。どちらかと言えば鬼にござります」
「うるさいッ」
ゴツン、と拳骨の衝突音が鳴ると、忽ち二郎は泣き出してしまった。
「さて豊臣は、その軍師の城をどうやって落とすのかね?フフッ、楽しみだな二郎!」
「ふぇぇん!」
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「うわっ、何だぁぁ!?」
進軍を開始した三成は、まだ三の丸にも侵入しない内に損害を受けていた。
陥穽、つまり落とし穴である。斥候の報告では何の異常もない地形の筈だったのに、落とし穴が存在した。ここで数百の兵士達が落下、負傷してしまった。
「新之丞!これはどうなっているのだ」
三成は重臣の渡辺新之丞に意見を求めた。
「恐らく、斥候に捲いた人数では作動重量に及ばなかったのでしょうな」
「味な真似を……」
「殿。某の見る限り、この城は」
「分かっている。この戦法、『女の守る城』などではない!皆の者、負傷者に手を貸してやれ」
だがこの策で骨折者が相次ぎ、二千の兵は千五百に減った。三成はこのまま行軍するつもりであったがその性格から部下を見捨てられず、負傷者を一旦後方に下げる判断に行き着いた。
その間に兼続の第二軍が追いつく。
「兼続!陥穽がある、気をつけろ」
「承知した、石田隊には手当も兼ねて攻城用具の準備を」
「承知。石田隊、全軍後退!負傷者の手当てを最優先だ」
まだ敵に出くわす前である。この後退は兵の士気を確実に挫いていた。
「射よ!」
三の丸の門に到達した兼続隊だが、ここで弓矢の集中砲火を浴びる。だが、兼続は決して浮足立たなかった。相手の数はたかだか数百であり、ここで多数の兵を失う事は有り得ないからである。
だが、飛んでくる矢はただの弓矢では無かった。
「くあぁぁ!?」
「如何した?丸太を城門にぶつけよ」
「や、鏃に毒が……射られた兵士が瀕死に陥っていきまする!」
「な、何ィ?」
弓矢が当たったところで、たかだか三途の川が『見える』程度の激痛である。戦国の兵士はそんな事で怯むほどヤワではない。
しかし毒矢が相手では、引き換えにする功も無く強制的に三途の川を『渡る』事になる。それほどの覚悟が出来ている者は、一兵卒にはほとんどいない。
「ど、毒矢だぁ!」
「無暗に近寄るな、喰らったら終わりだぞ!」
「貴様ら何をしている!城門を叩け!壊せ!」
兼続は、毒矢の数に限りがある事に気づいていた。毒矢の原料はトリカブトであり、採取が難しく同時に多量存在はしないはずなのだから、当然の判断であった。恐らく乱破の忍にでも少数、分けて貰ったのだろうと推測できる。
「怯えるな、いずれ毒矢は尽きる!」
兼続は必死に軍を鼓舞する。
だが大軍であればあるほど毒矢の引き起こす混乱は凄まじい。恐怖の伝染は波の伝搬に似た速度で進行した。
「御家老、もはやわが隊は機能しませぬ!」
「くっ、北条め。『女の守る城』だと?嘘八百ではないか!」
そう、どんなに野蛮な女性であっても、こんな戦法はとらない。十中八九、城には軍師が存在する。
第三軍、信繁隊がすぐそこまで迫っていたが、気づいた兼続が伝令を飛ばす。
「信繁に来るなと伝えよ!今日はここまでだ。撤退する!」
「な、何ですと御家老!?」
「真田にまで恐怖が伝搬したら終わりだぞ!一旦城下まで下がる!」
こうして六月十六日の戦闘は、周防の圧倒的勝利に終わったのである。
豊臣軍は真田隊を残し、大きな損害を被ることになった。士気の低下という損害を。
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「周防様!大勝利ではございませぬか!」
「長親殿」
「はっ!」
「そなた、勘違いしとりはせぬか?」
「はっ?」
「こちらが与えたのは飽く迄、約束された損害。確定事項なのだ。私が求めたのはそれを上回る幸運。それを積み重ねない限りこちらの勝利は無い」
「な、何を言っておられるので?」
周防は苦虫を潰したような顔を見せる。その顔は完全勝利した軍師の顔では決してなかった。
「連中は被害を最小限に食い止めて撤退しよった。こちらの毒矢ももう数が無い。不利なのはこちらに決まっておろうが」
「な、なるほど。では、如何致しましょう?」
「夜襲に備えよ。それ以外にない」
「それだけで?」
「夜襲が無ければ、奴らは十日は攻められぬ。それぐらい分からぬか?」
「は、はぁ……」
戦争経験の豊富な周防は、被害を受けた三成や兼続が、ここから慎重になる事を見抜いていた。
「後は真田信幸……『孫弾正』。奴が一番の難関だな」
唯一士気を温存した真田隊に、周防の焦点は定まっていた。




