弁丸と源三郎
カツン、カツン。
吾妻川の麓。木剣の打ち合う音が聞こえてくる。
「精が出ますなぁ」
通行人に声を掛けられると、いつも源三郎が返事を返す。
「真田の兵であります故」
そう答えると、通行人は笑顔で会釈して、去ってゆく。自分が声を掛けた少年が真田の嫡男だとは、知る由もないままに。
「兄上、何故一兵卒の様に振る舞われるのですか」
どこの馬の骨とも知らない通行人は、武田家重臣の嫡子を敬うべきである。そうなる事を良しとしない兄の心算がわからない弁丸が疑問を投げかける。
「沈黙は最大の妙手。父上が仰っていたであろう」
源三郎は通行人に自分の情報を出したところで、何の見返りもないことを知っていた。それなら黙っていた方が、間者にわが身を狙われる危険も薄くなるというものだ。
「例え話だが、考えてみろ。俺が源三郎で、お前が弁丸。どちらかだと言われれば、普通はどちらが嫡子だと考える?」
「……某の方かと」
「そういうことだ。相手から隠すことで、真に重要な情報を守る。それが『妙手』という事だ」
弁丸は兄が度々この例えを挙げる事が気になっていた。
「そもそも真田の嫡子だと言うたところで果実の一つでも置いて行くと思うか?」
「む…」
その通りであった。信濃の民は皆等しく貧民である。如何に武田の家臣といえど、貴重な食料をタダで渡すほどの義理は無い。
「某は岩櫃に真田源三郎あり!と大声で知らしめとうございますよ。兄上はそれほどのお方でございます」
「真田は目立ってはならぬのだ。所詮は外様である事を忘れてはならぬ」
「ぐむぅ……」
「さて、もう一本ゆくぞ」
「オオッ!」
二人はこの吾妻川での稽古を日課としていた。へとへとになるまで木剣や槍を打ち込み、流した汗を水練で洗う。そして城までの帰路で散々と兵法を語り合う。弁丸はこの毎日が大好きであった。
武田家臣、岩櫃城主。真田昌幸には二人の男児あり。
兄、源三郎。後の真田信幸。
弟、弁丸。後の真田信繁。
「兄上が天下を獲れば、日ノ本は太平になりまするな」
目を輝かせて喋る弁丸の頭を慌てて源三郎が叩く。
「馬鹿かお前は!」
「痛ッ!?何も殴らずとも……」
どこで武田の間者に聞かれているか分からないのにこれである。弁丸の口はあまりに軽い。
沈黙は妙手。だが弁丸には一生体現できないかもしれないと、源三郎はため息をつく。
「弁丸。お前は、天下を欲するのか?」
「某は要りませぬ。兄上にこそ相応しい」
「ならばお前は何者になるのだ」
「武名を所望」
武骨者の弁丸らしい返答が返って来た。
「ならば上泉伊勢守にでも弟子入りしろ」
「いえ、某は兄上の家臣としての武名を欲しているので」
「なるほど。俺が北条氏康で、お前が北条綱成か?」
「然り」
笑んだ後、源三郎の鉄拳が再び飛ぶ。
「痛ッ!……ご不満が?」
「大有りだ、阿呆」
「あっ、分かり申した。兄上が信玄公で、某が信繁公でございます」
「名誉なことだが、左様な問題ではないわ!」
源三郎は顔を覆いながら思う。弁丸から目を離す事。それ即ち真田の家を滅ぼすかもしれないと。
「分かっておるだろうな。お前個人の武名など、主家の存続のためにはとるに足らないものであると」
「存じております。もし違えた時は、潔く腹を斬りまする」
「ハッ、その際は俺が介錯をしてやろう」
「はは。兄上の太刀筋ならば、スパリとあの世に逝けますな」
この返しの言葉に、源三郎はえげつないため息をつきながら思う。
――大物だ。
「……お前は常に六文を持っておけ」
「既に肌身に」
三途の川への渡航料、六文銭。いつ死んでも良いという覚悟。
呆れた準備の良さである。優れた武将となる事だけは、疑いが無かった。
だが。
「阿呆。十二文もあるではないか」
弁丸はニタリと笑うと、
「残りの六文は兄上の分にござる」
「捨て置け、たわけ!縁起でもない!」
払おうとする源三郎の手をヒョイと避けると、満足そうな顔を浮かべながら弁丸は言った。
「生きるも死ぬも、御一緒いたします故」
そう言うと、弁丸は脱兎の如く屋敷へ逃げ出した。源三郎も当然、逃がすまいと追いかける。
幼年期は、ただそれだけで良かった。あの日、あの時を迎えるまでは……。




