第十話 敵に回したくない相手
「これは……」
信幸は上田城の設計図を見て息を飲んだ。尼ヶ淵に沿った天然の防衛線。ハの字型に入り組んだ千鳥掛けの柵。そして東の門に誘い込むように綺麗な線になった神川と千曲川……。
昌幸の描いた罠への誘い・戦模様が、ありありと見えている。既に父の恐ろしさは知っていたつもりであった。しかし信幸は改めて、昌幸の戦人ぶりに驚嘆した。
ただ徳川と戦う為だけに作った城である。もし杞憂に終われば、まるで日常の機能性を欠いた城となるだろう。そこまで特化しているがために、効果は絶大。何も知らない徳川軍が攻めて来た場合を想定しても、信幸は城を落される気がが全くしなかった。
信幸は築城の指揮を執る昌幸を見やる。川を塞き止めて堀に水を張っているのだが、工夫に工夫を重ねて進行速度が上がっていく。これだけでも本来短期間ではとても出来ない作業である。それをやってのける昌幸の技術は凄まじいものがあった。
戦の準備となると、早い。恐らくはこの戦国の誰よりも早い。信幸は背筋が凍る思いであった。もし敵に回ったならば……。
「源三郎。上田築城は貴様の岩櫃からも助力願う」
「かしこまってござる」
上田城。後の昌幸の居城となる城であるが、経度、立地条件ともに対徳川、さらには上杉までも想定した、難攻の平城である。
徳川との盟を破棄する前に、この城を完成させなくては話にならない。兵の数では真田は所詮徳川の十分の一に過ぎないのだ。羽柴、上杉が動くまで、この上田城で籠城して耐えなければならない。そのために昌幸は本丸以外の造りを異常なほど複雑に設計したのだった。
信幸はここでも、築城の際には目的によって造りを変える必要があることと、父の築城技術を学んだのであった。
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徳川家康の怒りは凄まじいものであったのだろう。同盟破棄を伝えるとすぐさま万に迫る数の軍勢を信濃に寄越してきた。
「信幸を砥石城主に命ずる。陽動は任せるが、その後は兵を損なわないように砥石に籠城するべし」
「父上の軍勢は僅かに千百ほど。籠城戦とはいえ、万の敵を相手にするおつもりで?」
「そうだ」
「俺が玉砕覚悟で野戦を挑む必要は?」
「無用」
「承知」
昌幸の言葉一つ一つに、言い知れぬ自信があった。
戦になると、何と頼もしい父であろうか。上杉からは南方から数千の軍と共に睨みをきかせてもらうのみで、参戦をするつもりはないらしい。頼康が軍勢を数百ほど与えられて援軍に来る予定はあるが、それでも圧倒的不利は変わらない。
にも関わらず、父は不敵に笑う。この上田はそれほどの城なのだ。
だが、果たしてそれだけで勝てるのであろうか。
「才蔵。おるか」
「ここに」
「すまんが、草の忍が必要になるやもしれん。束ねておいてくれるか」
「御意に」
才蔵は信幸の家臣・唐沢玄蕃、出浦盛清と同じ『草』と称される忍である。信幸は幼少の頃から、年の近い才蔵から忍の重要性を学んでいた。それもまた、父の言いつけである。
情報の伝達は他の何にも勝る宝刀である。優秀な大名家ほど、優秀な忍びを抱えていると言ってもいい。
そして真田家の召し抱える忍達は、全国の大大名に引けを取らない猛者たちであった。
「野戦では勝てぬ、だろうな」
信幸は砥石城で籠城の支度をするため、愛馬の尻を叩いた。
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徳川軍動く。この報せが上田に集った真田親子の耳に入ったのはひと月後のことであった。
「率いるは鳥居元忠との事」
「黒駒合戦で大功をあげた猛将ですね」
「配下は大久保忠世、岡部長盛らが組み込まれた由にござる」
羽柴軍とも一触即発の状態にある徳川家は、家康自身が指揮を執ることはまず、有り得ない。
ここまでは昌幸、信幸ともに想定内であった。
「ふむ。して数は」
「約八千との報にございます」
「よし。源三郎」
「承知しておりまする」
「何?」
肩すかしを喰らった。昌幸はまだ何も喋っていない。
「籠城しか勝機はござりませぬ。ならば敵には神川を渡って貰わねばなりますまい」
「……それで?」
「まずは川の水位が上がっておりますれば、まずはこれを塞き止めたく」
「ふっ、任せる」
「はっ」
信幸は昌幸が喋らない内に、完全に腹の内を理解していた。上田城におびき寄せなければ敵の戦力を削れない。その為には神川の水位を下げて徳川兵を渡らせなければ話が始まらないのだ。
まさに昌幸はそう指示しようとしたのである。言わなくても伝わる事ほど便利な物はない。
「ふん。賢しい事よ」
その時である。昌幸は、背筋に鼠が通ったような感覚に襲われた。
「何奴!」
しかし背中を摩っても、鼠どころか虫一匹潜んではいなかった。
「……」
その感覚に、昌幸は覚えがあった。
父、幸隆と対面した時、全く同じ経験をしているのだ。
――馬鹿な!
全てを見透かされているような、気持ちの悪い感覚。尊敬する父だからこそ、何とか許容できていたものだった。しかし今、この圧力を与える男は……。
「盛清!おるか」
「ここに」
嫌な感覚を振り払って、昌幸は次の手を打つ。出浦盛清を呼び出すと、
「上杉の出兵を確認したい。矢沢頼康に文を送りし後、そなたも行け」
「御意」
万全の態勢を整える。昌幸はいつも、そうやって勝利を収めてきたのだ。
昌幸は、戦の炎に燃えていた。周りには、憑き物を振り払うかの様な必死さが見て取れた。




