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「全く、面倒だな」
カークはきちんと締められたタイの慣れぬ感触に苛立ちながら、1人馬車の中でボヤいた。
今夜はダストン侯爵家の会食に招かれている。それはカークがリーファの婚約者になった10歳の頃から、定期的に催されていた。
面倒だと感じてはいるが、それは堅苦しい会食に出なければならない億劫さと、侯爵夫妻の前ではさすがにいつものようにリーファを扱うことが出来ないので気疲れするだけであって、ダストン侯爵家に出向くことはカークは嫌ではなかった。
サルニーナ王国のダストン侯爵家といえば、5侯爵家の中でも筆頭といえる家柄であり、王族の信頼も厚く、その領地は肥沃な穀倉地帯と豊かな資源に恵まれており、王国の中でも裕福な貴族といえる。
代々婿養子を迎える女系の家系だが、ダストン侯爵家は男子の立場が強く、婿養子とはいえ侯爵家当主は絶対権力者である。
現当主の妻、ティファ・ダストンは家付娘にありがちな傲慢さは欠片もなく、夫のアランの言に逆らったことは一度もないと噂されている。社交界でも夫を陰日向なく支える良妻賢母として有名であった。
そんな母親に育てられたリーファも、未来の夫であるカークに逆らったことは一度もない。
定期的にダストン侯爵から課せられる領地運営の課題を押し付けても、文句も言わずに黙々とこなしている。
地味な装いばかり好む陰気な女だが、顔はまぁまぁ可愛らしいし、身体つきもラナほどではないが悪くはない。
身持ちが固く、未だに唇さえ許してはくれないが、カークは案外、この大人しい婚約者を気に入っていた。あの取りすました顔が結婚初夜にどう変わるのか、今から楽しみである。
豪奢な屋敷、富をもたらす領地。数多の使用人、地味だが従順な正妻と美しく奔放な愛人。
そんなダストン侯爵家の絶対権力者としての未来が待っている。そのためなら、多少の窮屈さは我慢出来る。どうせ自分が爵位を継ぐまでの数年の辛抱なのだ。
端麗な顔に、ニヤリニヤリと気持ち悪い笑みを浮かべたカークを乗せた馬車は、ダストン侯爵家の大きな門をくぐり抜けた。
侯爵家での会食も終わり、カークはダストン侯爵よりサロンへ誘われた。これもいつもの流れで、年代物の赤ワインを飲みながら暫し歓談するのだ。
侯爵は、義理の息子になる予定のカークにかなり甘い。領地運営の課題は容赦なく課してくるが、それ以外の、例えば女遊びや多少の浪費などは、ハメを外さなければ大目に見てくれる。
婿養子ならではの気苦労や負い目などを、誰よりも理解しているからであろう。
侯爵自身は正妻のみで第二夫人さえいないようだが、カークが愛人を持つことさえも禁じられなかった。
だからカークはリーファの前でも堂々と、ラナとイチャつくのだ。
ほんのりと酔いの回り始めたのを心地良く思いながら、カークは侯爵の座る重厚なソファに目を向ける。
意匠を凝らしたダストン侯爵家に代々受け継がれてきたその椅子は、当主だけが座ることができるものだ。
実家である貧乏伯爵家では、どう頑張っても手の届かない逸品。
いつも実家で大きな顔をしている親父や嫡男の兄貴には到底手に入らない、約束された薔薇色の地位の象徴。
「ところで、カークよ」
いずれはあれも俺のものだ…と心の中でほの暗く思いながら、侯爵に呼びかけられたカークは穏やかな笑顔を向ける。
「はい、なんでしょう、ダストン侯」
「そなたと娘リーファの婚約は、両家の取り決めで解消することとなった」
一瞬、カークの思考が止まった。
「…は?」
「今この時をもって、当家とそなたは一切の係わりがなくなると心得てくれ」
いつもと変わらぬ侯爵の穏やかな声は、淡々とカークの理解の及ばぬ言葉を紡ぐ。
「は、え、あ、あの…?」
「ラガット伯爵の了承は得ている。婚約の解消なので、慰謝料の類もなし、そなたが長年浪費した分については、返還の必要はない」
「ちょ、ちょっと待ってください!い、一体なぜ、なぜそんな解消などと!」
混乱するカークは立ち上がり、頭を抱えた。赤ワインの入ったグラスが床に転がり、絨毯に染みを作る。
「そ、そりゃあ、多少の女遊びや、浪費があったことは認めます!でも今までは、それほどお咎めはなかったではありませんか!」
「無論その程度で、婚約の解消などはせんよ」
「じゃあどうして?あ、リーファが何か申し上げたのでしょうか?申し訳ありません、最近少し、意見の合わないことがあったものですから、喧嘩のようなものをしてしまいまして。
しかしいくら一人娘の言うこととはいえ、ワガママで貴族同士の婚約の解消などと、侯爵家の当主ともあろう方が仰るとは思いませんでした」
非難めいたカークの口調に、侯爵はフッと冷たい笑みを浮かべた。
「娘がそなたの家に嫁ぐのであれば、儂もこの程度のことで、婚約の解消などとは考えはせんよ。
娘も貴族の一員。儂の決めた縁談に、反論などする筈がない」
「でしたら婚約解消などと、撤回してください!」
カークの必死の言葉に、侯爵の表情が一変する。
怒気を孕んだその顔に、カークは思わず息を呑んだ。
「黙れ!この儂が決めたことを、お前ごときに覆せるとでも思っているのか!」
びりびりと鼓膜を打つ怒声に、カークは一瞬で蒼白になる。
いつもの、気安く、鷹揚な侯爵はどこにもいなかった。
「婿としての心得を違えた貴様など、このダストン侯爵家を担うことは出来ん!金輪際、その顔を見せるな!」




