【書籍化記念更新】忠誠の価格
【書籍化記念更新 第3回】
リンは紋章官のことを思い出し、小さくため息をつく。
「結局、ディグリフ殿の言う通りだったな。あの紋章官、あれっきり一度も助力してくれなかったし」
「そりゃそうよ。領地も持ってない宮仕えの下級貴族が、王位継承問題に首を突っ込むはずないでしょう。紋章官の仕事で一族を養ってるんだし」
彼を責めるのは酷だ。
「それにね、あの人は裏切者ではなかったわ。買収されてたのは他の紋章官よ」
「他の紋章官?」
「ええ。まあそっちもよくわからずに買収されてたみたいだから、軽い処罰にしといたけど……」
* * *
【紋章官たち】
「報告は以上でございます」
「左様か」
国王グレトーは沈思黙考し、それから紋章官に命じる。
「よかろう、準備は整った。リナには至急王都に参るよう伝えよ」
「はっ」
紋章官は「リナではなくリン殿下でございます」とは言わなかった。どうせ他の誰も指摘などしないのだし、聞き違えたふりをしておけばいい。
(実の子の名前すら覚えるおつもりがないとは……)
もっとマシな王に仕えたかった。そう思いながら紋章官は国王の執務室から退出する。
王宮の紋章官詰所に戻ると、書類仕事中の同僚が声をかけてきた。まだ若い紋章官だ。
「お疲れ様です。もしかしてまたアルツ郡までとんぼ返りですか?」
「そうなりそうです。この歳になると楽ではありませんな」
グレトーは紋章官と同年代だが、労りというものが全くないのが嘆かわしかった。自身も体力の衰えは実感しているはずなのに、平気で家臣に無茶を命じる。
もっともそんなことは言えないので、紋章官は苦笑してみせた。
「すみませんが、紋章の登記はお任せしますよ」
「お任せください。それにしてもこんなに何度も出張をお命じになるとは、陛下からどんな勅命を?」
同僚の面白がるような問いかけに、紋章官は慌てて首を横に振った。
「いやさすがにそれは言えませんよ。席が隣でも機密は守りませんと」
「おっと、そうでした。すみません」
若い同僚が苦笑したので紋章官も笑顔で返す。
「ではこれは別の機密情報ですが……カルファード家は大変手厚いもてなしをしてくれますので、それはかなり楽しみです」
「ははは! それは重要な機密ですね!」
同僚は楽しそうに笑い、分厚い紋章図鑑からカルファード家の項を開く。そこには当主と嫡男の紋章だけが登記されていた。
「やり手と名高い当主のディグリフ殿に、聡明で素直な嫡男リュナン殿。他にも誰かいましたっけ?」
同僚の問いに紋章官はうなずいた。
「ああまあ……庶子のノイエ殿がいますな。平民の女言葉を使うので驚きましたが」
「ほう、特筆すべき人物でしたか?」
「いやあ、温和で落ち着いた普通の青年ですよ。家督への執着もないようで、一門の家令的な役割を果たしていますな」
紋章官の人物眼ではノイエも気になる存在として映ったが、ディグリフは何も教えてくれなかったので情報がない。話題に出しようがないので彼のことは流す。
「さて、屋敷に帰ったらまた出発しますよ。旅支度がそのままなので都合がいい」
「不幸中の幸いですね。どうかお気をつけて」
紋章官が再び出ていった後、残った同僚は書類整理の続きを再開する。彼は懐から取り出したインク壺にペン先を浸すと、羊皮紙にサラサラと記した。
『王室より紋章官が再びアルツ郡に向かう模様。アルツ郡を治めるカルファード家は、当主ディグリフが幅広い人脈と辣腕で有名』
ノイエについては記述しなかった。
インクが乾くと共に文字は薄れ、やがて完全に消える。
若い紋章官は羊皮紙をクルクル巻き、指定の青いリボンで結ぶ。誰もいないのを見計らって、巻物を窓の外にそっと投げ捨てた。
しばらくして窓の外を見ると、巻物はどこにも見当たらなかった。代わりに青いリボンで結んだ銀貨袋が芝生の上に転がっている。いつも通りだ。
銀貨袋の重みを確かめつつ、買収された紋章官はつぶやく。
「いったい誰に届けられるのやら」
* * *
「……そいつ、どうなったんだ?」
「ツバイネル公と内通してた認識はなかったようだけど、紋章官の職務で知りえた情報を漏らしたことは罪よ。だから免職になったわ」
私はリンにもっと大事なことを伝える。
「結局、民衆も家臣も大半は味方じゃないの。かといって敵でもない。そんな人たちをまとめ上げるのがあなたの仕事よ」
「大変すぎる……」
ぐったりと机に突っ伏したリンの頭を、私はそっと撫でた。
「少なくとも私はあなたの味方よ。これから先、あなたが何をしてどうなろうともね」
「……ありがと、ノイエ殿」
リンは照れくさそうに笑い、こう言った。
「私は果報者だな。ノイエ殿の心は銀貨や宝石じゃ絶対に買えないから」




