【書籍化記念更新】銀杯の忠誠
【書籍化記念更新 第2回】
私の話を聞いたリンは呆れ顔だ。
「……ノイエ殿は私と会う前もそんな感じだったんだな」
「綺麗事でやっていけたら苦労しないわよ。まあ、それに慣れかけてたのは自分でも危うかったと思うわね」
慣れるしかないのだが、慣れてしまうとまずい。そういう類の仕事だ。
「でも父上に比べたら、私のやり口なんか綺麗なものよ?」
「ディグリフ殿が?」
リンは首を傾げた。
「温厚そうで紳士的だし、ディグリフ殿が悪辣なことをしているのは想像しづらいなあ」
「そりゃそうよ。悪辣そうに見えたらダメだもの」
ついでなので、私はもう少し話してあげることにした。
「あなたをサノー神殿から救出した後、カルファード城館に都の紋章官が来たでしょ?」
「ああ、来た来た。……あ、そういえばあのときは!」
「思い出した?」
* * *
【銀杯の忠誠】
都からの紋章官をディグリフは慎重に接待していた。
「田舎風の粗野な酒で恐縮ですが、精一杯良いものを御用意いたしました。これは当たり年だった一昨年の貯蔵酒です」
ディグリフは自家製ワインを銀杯に注ぎ、紋章官に勧める。
「ほう……これはこれは」
香りを嗅いだ紋章官の顔がほころぶ。
「香草入りですな。しかも初めて嗅ぐ香りです」
「ええ、都で香草入りの葡萄酒が流行っていると聞きましたので、当家でもレシピを考案してみました」
「ではさっそく一口」
紋章官は味わうように飲み、感嘆したように銀杯をしげしげと見つめる。
「美味い。これは美味いですぞ、ディグリフ殿」
「お褒め頂き光栄の至りです。『王室紋章官激賞』という触れ込みで売りましょう」
「ははは、さすがは商売上手で名高いディグリフ殿ですな」
嫡男のリュナンも交えてなごやかに歓談し、ほんのり酔いが回る。それを見計らったように、紋章官がやや遠慮がちに切り出してきた。
「ところで貴家のノイエ殿ですが、その……どういう御仁なのでしょうか?」
だがディグリフは即答しない。リュナンは何か言いたそうだったが、軽く制して黙らせる。
「と仰いますと?」
ディグリフの慎重な問いかけに、紋章官も慎重に言葉を選びながら答える。
「リン殿下と出会ってまだ日が浅いのに、殿下の信頼を得ておいでのようですので。臣下の身で王族を評するのは不遜ではありますが、私はリン殿下を聡明な方とお見受けしております」
「畏れながら私も同感です」
ディグリフが穏やかにうなずいたので、紋章官も少し安堵したようだ。
「でしたら、子供だましの懐柔策などではございますまい」
「あの子は人の心をつかむのが上手いのです。相手の立場を思いやり、誰もが損をしないように知恵を尽くす。外見や言葉遣いで誤解されやすいのですが、ノイエは温厚で善良な子です」
「それは……なるほど」
紋章官は何度もうなずき、納得したように言う。
「ではリン殿下のことはノイエ殿に一任しておられるのですかな?」
「そうですな。私はもう隠居前ですし、リュナンには嫡男としての義務があります」
「父上……」
リュナンが何か言いたげに口を開くが、ディグリフは微笑みながら首を横に振った。
「お前ではまだ殿下のお力にはなれまい。ノイエに任せなさい」
「……はい」
うつむき加減にリュナンが答えたとき、侍女に案内されてリン王女が入室してきた。
「夜分申し訳ないが、ちょっと失礼するぞ」
「おお、殿下……!」
酔いが吹き飛んだような顔をして紋章官が立ち上がり、恭しく一礼する。
「これはお見苦しいところを」
「いや、押しかけた私が悪いのだ。許してくれ」
リン王女は片手で応え、それから紋章官に歩み寄る。
「今回、私はノイエ殿にずいぶん助けられた。彼の王室への忠誠と功労は見事なものだ。しかし私には彼に報いてやる方法がない。紋章官殿、良い知恵はないか?」
「そうですな」
紋章官は少し考え込む様子を見せつつ、こう続けた。
「この近隣には王室の直轄地はございませんので、残念ながらカルファード家に領地を加増することはできません。かといって感状や恩賜の品では足りますまい。王室より名を賜るのが最適かと存じます」
リン王女はその答えを予想していたようで、あっさりうなずいた。
「やはり『三つ名』への昇格が妥当か。わかった、では父上に手紙を書く」
「承知いたしました。私にできるのはお手紙をお届けすることぐらいですが、陛下に口添えいたしましょう」
「ありがとう」
にこっと笑うリン王女。
そこにノイエがやってくる。
「殿下、大人の酒席に乱入しちゃダメよ」
「別にいいだろ、子供扱いしないでくれ」
「子供でしょう?」
ノイエは一国の王女を子供扱いしたが、リン王女は迷惑そうにしながらも嫌がってはいない。親密な関係を築いていることは一目瞭然だった。
苦笑したノイエはテーブルの銀杯をちらりと見て、それからディグリフを見る。
「父上、お注ぎしましょうか?」
「いや結構。紋章官殿に寝室をお見せしてくれ」
「ええ」
ノイエはうなずき、紋章官に笑顔を向ける。
「紋章官殿、いったん寝室に御案内しますわ。寝間着も用意してますから、楽な格好にお着替えになってからお酒を召されては?」
「そうですな。酔っ払う前に報告書も書いておかねばなりませんし」
紋章官が立ち上がり、ディグリフとリン王女に一礼する。
「リン殿下、失礼いたします。ディグリフ殿、続きはまた後ほど」
「ええ、お待ちしております」
ノイエと共に紋章官が退出した後、リュナンが堰を切ったようにまくし立てた。
「父上、さっきのお話は本音ですか?」
「え? 本音?」
自分の話題だとは知らないリン王女が不思議そうな顔をしている。
「まさか」
ディグリフは思わず苦笑し、首を横に振った。
「お前は人望もあるし聡明だが、領主を務めるにはまだまだ落ち着きが足りんな。今日会ったばかりの紋章官殿に本音など言わんよ」
だがリュナンは納得できないようだ。
「ですが父上、紋章官殿は王室を愛する忠臣のように見えました。それに頼りになりそうな雰囲気でしたし」
「雰囲気はな」
ディグリフはテーブルの上の銀杯を手に取った。空になった杯の底をリュナンたちに見せる。
「これがわかるか?」
「蛇の彫刻ですね。蛇が剣で真っ二つにされている……」
リュナンは首を傾げたが、リン王女が声を上げた。
「それ、もしかしてツバイネル公爵家の紋章では?」
「御慧眼です、殿下。『剣に絡みつく蛇』はツバイネル家の紋章。その蛇が真っ二つになっているということは、この杯はツバイネル家への敵意を示しております」
銀杯をテーブルに戻すディグリフ。
「これは何年も前に交易法が『改悪』されたときに、近隣の領主たちと一緒に腹立ち紛れに作ったものです。この彫刻の意味、紋章官ならば気づかぬはずがありません」
「そりゃそうだろうな。紋章官なんだから」
リン王女がうなずき、ディグリフもうなずき返す。
「しかし彼はこの彫刻に気づかないふりをしました。先ほどの歓談でも政治的に繊細な話題は全て避けていましたよ」
首を傾げるリン王女。
「どうして?」
「王室とツバイネル家のごたごたに関わりたくなかったのでしょう。彼は忠臣を装ってはいますが、忠義よりも保身を優先する人物のようです。過信してはいけません」
ディグリフとノイエは最初から紋章官を警戒していた。
もともと国王には王室内に味方がいない。いないから一度は捨てた庶子まで抱き込もうとしているのだ。そんな王に忠義を尽くす家臣が多いとは思わない。
リン王女は慌ててドアに手をかける。
「じゃあノイエ殿にも教えてあげないと」
リン王女は慌てて廊下に飛びだそうとしたが、ディグリフはそれを制した。
「御心配には及びません、殿下。先ほどの私とのやり取りでノイエは気づいております」
「さすが兄上……。僕は全然わかりませんでした」
リュナンは悲しそうにうなだれるが、ディグリフは笑った。
「良い勉強になっただろう。これが社交の世界だ。世の中は忠義者の顔をした日和見主義者や、有能のふりをした無能で溢れかえっている。味方を選ぶときは慎重にな」
「肝に銘じます」
リュナンがそう答えたので、ディグリフは今度はリン王女に向き直る。
「殿下もお気をつけください。このディグリフとて忠義者の顔をした日和見主義者です。風向きが変われば、一門を守るために殿下を見捨てるでしょう」
「私も肝に銘じておこう」
リン王女は真剣な表情でこっくりとうなずく。
それから微笑みつつ問う。
「でも自分から日和見主義者だなんて言う人は初めて見たぞ?」
ディグリフも微笑む。
「息子が命がけで殿下をお守りする覚悟だというのに、父親があまり恥知らずなことはできますまい。風向きが変わらぬよう、私なりに最善を尽くすまでです」
「かたじけない」
リン王女は頭を下げた。
それからふとディグリフに問いかける。
「でもノイエ殿は、どうして私なんかを守ろうと必死なんだろうな?」
「理由をお聞きになられなかったのですか?」
「いや、聞いたんだけど……さっぱり意味がわからなかった。『私が生きて笑っていればそれでいい』とだけ」
ディグリフは少し沈黙し、どう答えるべきか迷う。だが結局、正直に話すことにした。
「あの子は昔から変わっていました。初めて会ったときから、どこか大人びて……いや、大人びているという言葉は正しくありませんな。まるで……」
再び迷うディグリフ。しかしリン王女の「なになに?」という興味深げな表情を見ていると、言わずにはいられない。
「まるで、別人として一度人生を歩んできたような印象を受けます。早熟や聡明といった言葉では説明がつかないのです」
そこまで言ったところで、ディグリフはリュナンとリンの食い入るような視線に気づいた。
(この子たちには少し難しい話かもしれん)
首を振り、ディグリフは苦笑する。
「いずれにせよ、ノイエがそう申したのならそれは本音でしょう。ごまかすつもりなら他にいくらでも美辞麗句を並べられる子です」
「ああ、それはそうだな」
リン王女はうんうんとうなずき、それから照れ笑いを浮かべる。
「本音を聞けたのは嬉しいけど、どう受け止めたらいいのかわからないな」
「ははは、喜ぶべきことでしょう。私と違い、ノイエが殿下を見捨てるようなことは決してありますまい」
ディグリフはそうつぶやき、件の銀杯で喉を潤す。
(この王女殿下と向き合うと妙に饒舌になってしまう。不思議な御仁だ。あるいはこれこそが王者の資質か。だとすればノイエが語ったのは、やはり本音なのだろうな)
空になった銀杯を置き、彼はリン王女に微かな羨望の視線を向ける。
「私も一度ぐらい、あの子の本音を聞いてみたいものです」
「うん?」
不思議そうにリン王女が首を傾げた。




