【書籍化記念更新】ベナン村の代官
※書籍化を記念して書籍版の加筆内容を少し御紹介します(全3回)。
【書籍化記念更新 第1回】
リンは私の過去にずいぶん興味があるらしい。ときどき思い出したようにあれこれ聞かれるが、今日はこんな感じだった。
「初めて会ったとき、ノイエ殿はベナン村の代官だったんだよな」
「ええ、そうよ」
「ああいう見回りみたいなの、普段からよくやってたの?」
「そうね、村の状況を把握しておくのは代官の務めだから……。あなたと出会う直前まで忙しくてね」
なんだか遠い昔のように思い出す。
私はリンの顔をちらりと見る。話の続きを聞きたがっている様子だ。
「聞きたいの?」
「聞きたい!」
リンが目をキラキラさせてうなずいた。
* * *
古めかしい木と石の神殿に、神殿長の怒鳴り声が響き渡った。
「な……な……」
擦り切れて色あせた法衣をまとった老人が、顔を真っ赤にしている。
「何を仰るのか、代官殿! 造ったばかりの水路を壊せとは!」
「あら、何か問題でも?」
私は椅子に腰掛けたまま、わざとらしく笑ってみせた。
「当家は農地を清従教団に寄進したけど、川は寄進してないわよ? あの川はカルファード家の所有物。何の権利があって勝手に農業用の水路なんか造ってるの?」
「荘園は神の畑ですぞ。その神の畑を枯らさぬためです。代官殿は神が恐ろしくないのですかな?」
「何が?」
国教である清従教は民衆にも影響力があって大変恐ろしい。だから大抵の領主は農地の一部を教団に寄進している。
カルファード家の場合は、ここベナン村の半分を寄進しており、村を流れる川が境界線になっていた。
農地を寄進した見返りとして、教団はカルファード家のやることが戒律に多少違反してても大目に見てくれる。
というか、寄進してないと重箱の隅を執拗につつかれるので大変やりづらい。フェアなやり方とは思えないが、これが国教を司る清従教団の本質だ。
「それよりも荘園の小作人たち、何とかしてちょうだい。あんまり舐めた真似されると、こっちも代官として動かざるを得ないのよ?」
清従教団の荘園で雇用されている小作人たちはベナン村の村人ではない。彼らはみんな別の領地の出身で、教団に保護を求めてきた訳ありの農民たちだ。
彼らは村の決まり事を守る必要がないので、しょっちゅうトラブルを起こす。
用水路になっている小川が一応の境界線なのだが、この小川の取水をめぐっても争いが起きていて、そのたびに私と神官たちの間で揉めていた。
今回もベナン村の村長に泣きつかれ、こうして直談判に乗り込んでいる。
私は頬杖をつきながら、仇敵の神殿長を見上げた。
「ベナン村の畑が水不足になったら、カルファード家も困るのよ」
「それは貴家の事情です。私たちとしても、神の畑を涸らす訳には参りません」
「なるほど、それもそうね」
この論争に見切りをつけて私は立ち上がった。
「神様と水争いするほど私も不信心じゃないわ。村人にも水路には手を出すなと厳命しましょう」
「え? ええ?」
神殿長と副神殿長が顔を見合わせている。拍子抜けした?
「代官殿はそれでよろしいのか?」
「よろしいも何も、神殿長殿がそう仰ったんですもの。神の畑を干からびさせるなんて、あってはならないことでしょう?」
私は立ち上がると、ベナン村の村長や郷士たちに目配せした。
「帰るわよ」
「いや、ちょっと、ノイエ様!?」
「そんなにあっさり引き下がって、お館様に叱られますぞ!?」
私以外全員があっけにとられていたが、私は構わずに神殿を出る。
それから私は村長にそっと告げた。
「神殿長に掛け合っても無駄だから、もっと話の通じる相手に言うわ」
「誰です? 神殿長より上の神官ですか? 教区の大神官とか」
「私みたいな田舎の『二つ名』が会ってもらえるとは思えないわね。もちろんそうじゃないわよ。交渉相手がいるのは村はずれの森よ」
私は笑いながら麦畑の間を歩いていく。村長たちも不安そうについてくる。
フェアではない相手には、こちらもフェアプレー精神を捨てる必要があった。
荘園の外れは深い森になっており、昼でも薄暗い。
その森の中には、廃材で組み立てたボロボロの小屋が一軒建っていた。領主や神殿の許可を得ていない不法建築だ。
「ちょっと待っててね」
私は村長たちを置いて小屋に近づく。
ボロ布をくぐって中に入ると、みすぼらしい格好の老人がビクッと振り返った。
「誰だ!?」
彼はベナン村の村人ではなく、神殿に仕える小作人の顔役だ。何かの事情で故郷を捨てて、清従教団に保護された元農民だろう。今は荘園を耕す代わりに衣食住を保証されている。
だが人間というのは、衣食住だけで生きていける訳ではない。
「私よ。邪魔するわね」
「こ、これはお代官様……先日はどうも」
小作人の老人は頭を下げ、それから額を何度も拭った。
「その、お代官様から麦をたくさん頂戴しましたので、お礼の品を献上しようかと」
「あらやだいいのよ、そんなに気を遣わないでね。それにあげた麦をどう使おうが、それはあんたたちの自由よ」
以前、「収穫を全部神殿に持って行かれてしまうので食っていけない」と話していた老人だが、それがかなり誇張した表現なのは私も承知している。小作人を飢えさせるほど神官たちも馬鹿ではない。
しかし私は小作人たちに余剰の穀物を与えれば、それで何をするかはわかっていた。
小屋の中には大きな素焼きの壺が置かれている。小屋中に甘ったるい発酵臭がふわりと漂っていた。
「麦酒、好きねえ」
「へへへ……こいつがなけりゃ人生とは呼べませんから」
醸造中の酒壺をぺしぺし叩きながら、老人が嬉しそうに顔をしわくちゃにする。
娯楽に乏しい農村だから、酒が無上の楽しみなのだろう。ビールの先祖のようなこの濁り酒は、パンと水さえあればできるという。
「でもそれ、神官たちに見つかるとまずいわよね?」
私が指摘すると、老人は急に嫌そうな顔をした。
「そそ、それだけはご勘弁を、お代官様! 没収されちまいます! こんなに手間をかけて育ててきたのに! もう少しなんです!」
「心配しなくても密告なんかしないわよ。ただちょっと、気になる事があってね」
私はにんまり笑う。
「神殿の命令であんたたちが造った水路、あれって何かの弾みで崩れたりしないのかしら?」
「え? いえありゃ元石工のヤツにしっかり造らせてますから……」
そう言いかけた老人が不意に黙り込む。この老人、苦労人だけあって察しは良かった。伊達に経験は積んでいない。
「ああ、なるほど。そういうことですか」
「ええ。『崩れたら大変』だから、しっかり管理してね。うまくいったら岩塩を分けてあげるわ」
その瞬間、老人がクワッと目を見開く。
「岩塩ですって!?」
「そうよ。酒の肴に舐めるもよし、買い物に使うもよし。どう、悪い話じゃないでしょ?」
こんな内陸の田舎では塩は現金同然だ。食べられる分、現金より喜ばれることが多い。
「あの、どれぐらい頂戴できますんで……?」
「働きぶり次第よ。仲介料として一粒あげるわ」
ピンク色をした大粒の岩塩を取り出し、老人に手渡す。
老人は目を細めて、淡く透き通る結晶をしげしげと見つめた。
「へえ……こりゃあ何ともキレイな色で……」
「国境の山岳地帯で採れた交易品よ。都の貴族も惚れ込む上質な味わい。王都まで運べば、それ一粒で銅貨五枚になるんですって」
「そ、そんなに!?」
「運べばね?」
実際は運ぶ手間賃が銅貨四枚分なので、この辺りでの価格は銅貨一枚だ。別に言う必要もないので黙っておく。
老人は私に背を向けると、独り言のようにつぶやいた。
「今夜、皆でやります」
「あら、ありがとう」
これでベナン村に流れ込む農業用水が増えるだろう。
にこやかに別れを告げた後、私は密造酒の醸造小屋を出る。
「疲れるわね……」
前世だったら警察や裁判所が何とかしてくれる案件だが、こんな中世だか近世だかわからない国にはそんなものはない。むしろ私がこの村の警察官兼裁判官だ。
この世界は何もかもがフェアではない。この世界で暮らす私自身もフェアでは生きられない。それがどうにも後ろめたい。
村長たちが私に歩み寄ってくる。
「ノイエ様、どうでしたか?」
「問題は解決したから、明日の朝まで待っててね」
私が笑うと、郷士と村長が顔を見合わせて安堵する。
「どうだ村長、カルファードの若様は頼りになるだろう?」
「はは、もちろんですよ。初めてお見かけしたときは、珍妙な言葉遣いと身なりに驚きましたが」
「失礼ねえ。言葉遣いは母親譲りだからしょうがないじゃない」
私は開き直って笑ってみせる。
「見た目が珍妙でも、仕事ぶりは確かでしょ?」
「ええ。ノイエ様がこの村の代官でいてくださる限り、村の者たちは安心して暮らせます」
村長が深々と頭を下げる。
前世では真面目に働いても感謝されることが少なかったので、何だかとても良い気分だ。今後もこの村の代官として頑張ろうと思う。
私はまだ、自分に訪れる運命をまだ知らずにいた。




