第65話「ゲルニガルテ会戦」
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「なるほどな。それでまたイザナの遺産で戻ってきたという訳か」
「ええ。『ジュナの歪曲儀』は歴史的にも貴重な品だから、大切に保管してくださいね」
魔女の祖とされるジュナは、転移に関係する秘儀を幾つも使ったという。『ジュナの歪曲儀』は、その失われた技術を伝える貴重な逸品だ。
私の今世の父であるディグリフは、苦笑しながら私に別れを告げた。
「わかった、しっかり守っておこう。お前も気をつけて行きなさい。それと彼らをよろしく頼む」
私の背後には南テザリア同盟軍の兵一万がいる。新たに加入を申し出た領主たちから、大量の兵を借り受けたのだ。
「もう北テザリアで決戦が始まる頃なのにね。まあでも戦いはまだ続くでしょうし、予備兵力がこれだけいれば心強いわ」
「しかし決戦だというのに、お前が戦場にいないのは不安だな。殿下は勝てるかね?」
「あら、リュナンたちがいるもの。心配御無用ですわ」
私は笑い、さらに言った。
「それに戦というものは、両軍が向かい合ったときに勝負は決しているものですから。殿下の勝利を確信してますのよ?」
* * *
【ツバイネル軍視点】
ツバイネル領クアケル地方、ゲルニガルテ平原。険しい山々に囲まれ、中央に街道が通る荒涼とした平原で両軍は対峙している。
明朝には決戦というとき、ツバイネル軍の陣中では、こんな会話があちこちで聞かれていた。
「王女軍、結構多いな……三万ぐらいか?」
「グイム地方の郷士たちが集結してるな。ボルゴ殿の説得も効果がなかったか」
「そりゃ効果ないだろ。あいつらはネルヴィス殿下……いやネルヴィス大神官の家臣だ」
夜の闇にひそひそと声が漏れる。
「こっちは二万ぐらいだな。もっと集まるかと思ってたが、意外とどこの領主も兵を出し渋ってる」
「それだよ。数千単位で兵を出せる有力貴族が軒並み不参加なのはどうなんだ」
「そのへんはツバイネル公が交渉してたはずなんだがな」
誰の言葉でもない誰かの言葉は、総大将ボルゴの耳には届かずに陣中を流れていく。
「デカい貴族は情報網もデカい。我々の知らない情報を握ってるのでは?」
「そういや、ツバイネル公が死んだって噂だぞ」
「跡取りのボルゴ殿は何も言ってないが……」
「そりゃ本当だとしても認めないだろう。認めるとしたら、この会戦が終わってからだ」
ツバイネル家は当主が殺害された事実を公表していない。
「だんだん不安になってきたな。ツバイネル公の息子や婿たちも全然来てないみたいだし」
「次男のギョルドはルーディッシュ城を守ってたはずだろ? 王女軍がここにいるってことは、進軍途中にあったルーディッシュ城は陥落してるはずだ」
「じゃあギョルド殿は……」
「ああ、名誉の戦死ってとこだろう」
ギョルドは未だにルーディッシュ城で籠城を続けているが、その情報は北テザリアにはほとんど伝わっていない。
「次女の婿のジレとかいうのは捕虜になったらしい」
「どいつもこいつも頼りにならんな。三女の婿のピュレットはどうした?」
「旧街道のトルネ要塞を守備してるんじゃなかったか?」
「敵が目の前にいるのに旧街道なんか守ってどうするんだよ。ツバイネル家の一大事だってのに、一門衆が来ないんじゃ話にならんぞ」
ここに集まっている他家の将兵たちは、ツバイネル公に睨まれたくない一心で弱小領主たちが派遣した軍勢だ。いずれも『四つ名』以下だった。
「相手は先王から公式に認められた王女殿下だ。嫡子になる目前だったらしい」
「それに清従教団があっちについてる。あれ、ネルヴィス大神官の旗印だろ?」
「あれのおかげで、農民兵どもが『地獄行きは嫌だ』って怯えちまって……」
上は領主や代官から、下は農民兵や傭兵まで。ひそひそと会話は続く。
「どうする?」
「どうするって言われてもな……」
「勝ったところで領地がもらえる訳でもないし、負ければ賊軍として一族皆殺しだ」
「おまけに清従教に刃向かったら、背教者として地獄落ちだろ? やってられんな」
あくまでも表向きは威風堂々と陣を張っていたが、彼らの気持ちは急速に厭戦気分に傾いていた。
「ちょっと待て、ノヴェンポワート家の軍旗があっちにあるぞ」
「あのシカ野郎、王女軍に寝返ったのか!?」
「ツバイネル公にさんざん媚を売っておいて、敵が来たら速攻で寝返るのかよ!?」
他にも北テザリアの軍旗がちらほらと見えている。いずれも街道沿いの領主たちだった。
「さんざん甘い汁を吸ってきたあいつらが王女側なら、俺たちがツバイネル家に義理立てする必要あるのか?」
「そうだよ、だいたいツバイネル公はどこなんだよ。他家に援軍を求めたときは形式だけでも当主が総大将を務めるのが礼儀だろ」
「まあ嫡男でもダメじゃないけど、戦う相手が王女と清従教だからな……」
そんな会話がささやかれる中、ある領主は代官に命じた。
「今夜中にうちの軍旗を降ろさせろ。そっとな」
「よろしいのですか、御前?」
「損しかないのに義理だけで一族を危険に曝せるか。当家はこの会戦に参加していない。負けたらそういうことにしよう」
先祖伝来の甲冑に身を包んだ領主は、ちらちらと敵陣をうかがう。
「いいか、戦闘が始まったらなるべくゆっくり前進だ。機を見て停止し、そこから後退する」
「いえあの、本当によろしいのですか、御前!?」
「進軍の合図を後退と聞き違えたとでも言い訳すればいい。幸い、こっちは敵に包囲されないように陣を長く延ばしている。兵が少ないから後ろはスカスカだ、逃げるのに苦労はない」
「はあ……。では、そのように」
似たような会話は全軍で起きていた。
正しい情報を持つ者、誤った情報を持つ者。それを信じる者、信じない者。正しい判断をした者、誤った判断をした者。
あちこちで将兵がさまざまな決断をして、態度を決める。
* * *
【リン王女軍視点】
リン王女は将兵を前にして、力強く拳を握っていた。
「この会戦に勝利すればツバイネル家の打倒は目前だ! つまり! 手柄を立てるなら今回しかない!」
「おおっ!」
南テザリア同盟の将兵や清従騎士たちが拳を振り上げる。特に熱心なのは南テザリアの領主たちだ。
リン王女の隣では、ネルヴィス大神官がカシュオーン軍監を従えて苦笑している。
「意気軒昂ですね、みなさん」
「はい、ネルヴィス殿! ここに集ったのは、荒々しくも誇り高い勇者たちです!」
リン王女はネルヴィスににっこり笑ってから、諸将を見回す。
「ツバイネル家はクアケル地方、ラカル地方、ヨカシュペテ地方、イオフォ地方の広大な領地を占有している。ツバイネル家に従う諸侯の領地も含めれば、百に分けてもお釣りが来るぞ!」
南テザリア同盟に参加している諸侯は、全部で百ほどだ。
「広大な森からは良質な針葉樹が伐り放題だ。材木にするもよし、端材は薪にするもよし。金が生えてるようなものだと聞いたぞ! 伐った後は農地にしてしまえ! また儲かる! どうでもいいが、私は農作業が大好きだ!」
「おおっ!」
南テザリアは温暖で早期から開拓が容易だった為、近年は森林不足になりつつあった。北テザリアの木材や燃料は欲しい。
「それに冷涼な気候ゆえに、珍しい動物や農作物がいろいろあるそうだ! 南に持ち帰れば高く売れる! サーベニア人も欲しがるぞ!」
「おおっ!」
領主たちの目がギラギラしてきたところで、リン王女はフフッと笑う。
「みんな、北テザリアの領地は欲しいか!?」
「うおおおお!」
「よーし、じゃあ分捕りに行こう! 私も欲しい!」
リン王女が剣を抜いて振り上げると、みんな一斉に剣を抜いて天に掲げた。
「王女殿下万歳!」
「我らの殿下! 救国の姫!」
「未来の女王陛下に栄光あれ!」
「テザリア王室に忠誠を!」
鼻息を荒くした領主たちは、王女を讃える歓声をいつまでもあげ続けていた。
そして夜明けと共に、戦が始まる。
横一列に並んだ軍勢が、矢の届かない距離で睨み合う。突撃はまだだ。
古来からの戦の作法に則り、両軍の紋章官が総大将からの書簡を敵陣に届ける。自軍に正義があることを伝え、降伏を促す書状だ。
戻ってきた紋章官が降伏勧告を拒絶されたことを報告すると、両軍が太鼓とラッパで進軍を命じる。
本陣でがっちり警護されながら、甲冑姿のリン王女は側近のリュナンから報告を受けていた。
「伝令から報告! 敵左翼、隊列が歯抜けになっています! 兵の逃亡多数! ネルヴィス殿配下のグイム郷士隊が敵左翼に突撃を開始しました!」
「やっぱり清従教に逆らうのは怖かったのかな」
「そうみたいですね。さらに報告! 南テザリア同盟軍が敵右翼の半包囲に成功しました!」
「始まったばかりだぞ、早くないか?」
リン王女が首を傾げると、リュナンが苦笑する。
「開戦と同時に敵の最右翼が逃走して、それに釣られて他の部隊もいくつか逃げてしまったそうです」
「軍の端っこは総大将の目が届かないからな……。まあ逃がしてやろう。逃げない敵は殲滅してくれ」
夜明けと共に始まった会戦は、ツバイネル軍の総崩れによってあっけない幕切れとなった。
昼前には総大将のボルゴが正式に降伏し、ゲルニガルテの会戦はリン王女軍の圧倒的大勝利によって終わる。
会戦が予定よりだいぶ早く終わってしまったので、戦闘よりも降伏調印と昼食の準備が大変だったとリュナンは書き残している。




