第52話「反攻の序曲」
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* * *
【王都攻略軍指揮官ボルゴ視点】
ツバイネル公の嫡男ボルゴは目を疑っていた。
「なんだあの軍勢は!?」
王都周辺に無数の軍旗が翻っている。
ボルゴの紋章官が青い顔をして報告した。
「確認できる限り、どれも南テザリアの貴族の紋章ばかりです。いずれも当主の紋章を掲げています」
各家の紋章には個人を識別する意匠が入っており、当主の意匠が入っていれば当主の軍だ。トップの判断で参加していることになる。
「軍旗の数は百余り。王都の城壁に隠れて全てを確認することは難しいですが、見える範囲だけでも一万は下らないかと。数万の可能性もあります」
「数万……確かに、各家が三百人ずつ率いていても三万の軍勢だ。千人ずつなら十万か」
各領主が連れてきた兵は数十から数百といったところで、おおむね百前後だ。だがそんな事情はツバイネル軍にはわからない。
そしてボルゴのような大貴族の御曹司にとっては、兵というのは千人規模を盤上演習で動かすものだった。
「いかん、いかんぞ。三万だろうが十万だろうが、我が軍に勝機はない。防御側がこちらの数倍の兵力では、攻め落とすどころの話ではない。時間稼ぎすら不可能だ」
攻撃側が数倍の兵力で攻め掛かれば、やっと城を落とせる。兵法の常識だ。
そして実戦は知らないが兵法は熟知しているボルゴにとって、この戦力差は戦う気力すら奪い去るものだった。
ボルゴはスッと真顔になると、副官や紋章官たちに告げる。
「撤退だ」
「ボルゴ様、よろしいのですか!?」
「御前から授かった軍命は、聖モンテール騎士団の足止めですぞ!?」
しかしボルゴはなおも言い張る。
「聖モンテール騎士団以外の兵と戦う任は負っておらん。兵力が一万五千なのもその為だ。勝てない戦をして無駄に兵を失えば、父上の怒りを買うことになるぞ」
ツバイネル公の怒り。
それは諸将や側近たちにとって、何よりも恐ろしいものに違いない。実の孫であるベゼーさえ容赦なく処刑した一件以来、ツバイネル公は家中の者たちから恐れられていた。
一同は顔を見合わせ、それから小さく咳払いする。
「ま、まあボルゴ様がそう仰るのでしたら……」
「総大将の御下命ですし」
嫡男のボルゴはツバイネル公の代理人のようなものだし、この軍の総大将だ。何かあれば全責任は彼が背負うだろう。
部下たちがそう考えていることは、ボルゴの目にも明らかだった。
「責任は私が持つ。父上への説明もな。とにかく撤退だ」
すると副官が問いかける。
「ジレ殿にはどのようにお伝えになりますか?」
「包囲を解いて撤退して頂こう。……いや、待て」
ボルゴは少し考え、こう命じ直した。
「ジレ殿への連絡は必要ない。このままディアージュ城の攻略を続行させる」
「なんと!?」
側近たちが驚いたが、ボルゴは半ば居直り気味に笑う。
「ジレ殿がさっさとディアージュ城を攻め落とし、リン王女を捕らえるなり討つなりしていれば、こんなことにはならなかったのだ。最後まで責任を取っていただく」
「しかしそれでは、御味方を見捨てることになりますぞ!?」
ジレはツバイネル公の娘婿で、一門衆の重要な地位にある。ボルゴにとっても義理の弟だ。
しかしボルゴは首を横に振った。
「今からでも遅くない。ジレ殿がリン王女を討ち取れば戦は終わりだ。逆に包囲を解いて撤退してしまえば、王都を埋め尽くすあの大軍が王女と合流するぞ。後はわかるだろう?」
「あれが全部、当家への討伐軍になりますな……」
「北テザリアが火の海にされてしまいます」
「そうだろう?」
ボルゴはうなずき、自分の思いつきに満足する。
「ジレ殿には敢えて何も伝えずに撤退する。なに、送った伝令がジレ殿の陣までたどり着けなかったということにしておけば、咎めもあるまい」
戦争に勝てるかどうかよりも、ツバイネル公から罰を受けないかどうかの方が、皆にとって最重要課題になっていた。それはボルゴにとっても同様だ。
「兵をツバイネル領まで戻し、軍権をいったん父上にお返しする。その間、ジレ殿にはリン王女を攻撃し続けてもらう」
「ジレ殿にリン王女が討てましょうか?」
「討てずともよい。リン王女が山城に閉じ込められている間に、父上が兵を集めるのだ」
もうほとんど自分自身に言い聞かせるような気分で、ボルゴはしめくくる。
「聖モンテール騎士団よりもリン王女の動きを封じることの方が重要だ。それができれば、結果的に我々は任務を果たしたことになる」
「そ、そうですな……」
「ボルゴ様の仰せのままに」
一同が頭を下げ、全てはその通りに運んだ。
* * *
「あっさり逃げてったわねえ」
あまりにも予想通りの結末に、私は苦笑するしかなかった。
隣でリンが目を丸くしている。
「敵が逃げていくぞ、ノイエ殿?」
「そんなもんよ。総大将のボルゴはツバイネル家嫡男。彼にとって、この戦で危険を冒して戦う理由はないわ」
ボルゴにとって、この戦は「父親が始めた戦争」に過ぎない。ツバイネル家が滅びれば自身も破滅だが、彼の戦いぶりからは危機感が感じられなかった。当事者意識は薄いだろう。
「それとね、今回の戦にはツバイネル公が来てないでしょ? 親玉が北テザリアに居残ったままってことは、決戦の舞台を北テザリアにするつもりなんだと思うわ」
「なんで?」
私は当たり前のような顔をして答える。
「遠征する側は敵地で疲弊し、補給にも苦労するわ。私たちを北テザリアに誘い込んで倒すつもりなんでしょ。たぶん」
北テザリアは広大で、針葉樹の寒々とした森がどこまでも続く。南テザリア出身の兵にはつらい土地だろう。冬期の進軍になれば、野営するだけで毎晩凍死者が出るはずだ。
「だからあっさり退いて、損害を最小限に食い止めたのよ。追撃されないように陣を整えて、きっちり定石通りに退却してるわね」
最前線の部隊が殿軍となって敵を牽制している間に、他の部隊は撤収を開始する。後方に退いた部隊は殿軍を援護し、最終的には全軍が安全に離脱する。
現代戦にも受け継がれている、退却の定石だ。
リンがつぶやく。
「当事者意識はなくても、馬鹿じゃないんだよな」
「そりゃそうよ。ツバイネル家の嫡男ですもの、指揮官として必要なことは全部できるわ。敵を侮らないのは大事なことね。ただ、気になる点もあるわ」
どういう訳か、ディアージュ城攻略部隊に撤退の動きがない。連絡を忘れるはずはないから、何かの伝達トラブルか、それともこの撤退自体が大きな作戦の一部なのか。
いろいろ考えてみたが、私は一番ありえそうな結論を出す。
「気になる点ってなんだ、ノイエ殿?」
「ディアージュ城攻略隊は捨て駒にされたようね。何も知らずに攻撃を続けさせられてるみたいよ」
「だとしたら、結構ひどいな」
全くだ。
私は溜息をつき、ペンを手に取る。
「気の毒だから、ちょっとディアージュ城攻略隊に降伏勧告をしてくるわ。リュナンたちの顔も見たいし」
「大丈夫か?」
「心配しないで。いざとなったら指揮官のジレを斬り捨てるだけだから」
妖刀キシモジンと魔女の秘術を組み合わせれば、どさくさに紛れて指揮官を暗殺するぐらいはできるだろう。
ただ、指揮官を失った五千もの敵兵がテオドール郡に溢れ返るのは勘弁して欲しいので、それは最後の手段だ。
私はディアージュ城を包囲している敵軍に使者を送ると、とりあえず返事を待つことにした。




