第37話「黄金の叛旗」
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別室で監禁……というよりは療養させられているエリザを、ネルヴィス王子は信じられない表情で凝視していた。
「なんてことだ……」
「びっくりした? 私とやりあったせいで満身創痍だけど、命に別状はないわ」
私はクスクス笑う。
ネルヴィス王子はエリザに歩み寄る。
「エリザ」
その声にエリザはビクッとした。まだ視力が回復しておらず、脚も動かないのだ。最近ようやく全身の筋肉痛は治まってきたらしい。
「そのお声は、ネルヴィス殿下!? なぜこんなところに!?」
「それは僕の台詞だ、エリザ。君は暗殺者なのか?」
エリザは唇を噛み、ぼんやりとしか見えない目を毛布に向ける。
「お答え……できません」
「でも私を殺そうとしたわよね? あなたの独断じゃないでしょ」
私がそう言うと、エリザは黙ってしまう。否定すればいいのに、それができない。彼女は本当に心身が弱っていた。
私はネルヴィスに「褒めてあげると自白するわ」と書いたメモを渡す。
するとネルヴィスはうなずき、なぜか厳しい声を出した。
「エリザ、君はお祖父様の使用人だ。もし独断でこんなことをしたのであれば、僕はツバイネル家の名誉の為に君の首を斬らねばならない」
ビクッと震えるエリザ。一度安息を知ってしまった彼女の心は、すっかり脆くなっていた。死や苦痛に対する耐性は、もはや一般人と変わらない。
「お……お許しを……」
するとネルヴィスはすかさず優しい声に転じる。
「だが君は思慮深く、忠実な薬師だ。独断でこんな馬鹿なことをするはずがない。お祖父様の差し金だね? 決して怒らないから、正直に言いなさい。神に誓おう」
うわ、やっぱりこの王子様は悪党だ。いったん怯えさせた後に優しくして、その落差で攻め落とすつもりのようだ。
(DV男の手口じゃない……)
声には出さずに呆れていると、エリザは慌てたようにしゃべり始める。
「わ、私は御前の命に背いたことは一度もありません」
微妙にはぐらかしている気もするが、事実上の肯定だ。
ネルヴィスは深い溜息をついたが、エリザの髪をそっと撫でた。
「清従の神よ、ここに清らかなる従者がおります。高潔にして善良なるしもべに、どうか御加護を」
「うぅ……申し訳ございません……」
エリザは視線をさまよわせながら、ぽろりと涙を流した。
ネルヴィスはもう一度、深く深く溜息をつく。
「何という残酷なことを。ノイエ殿、無理は承知ですがエリザの助命をお願い致します。主従の秩序を重んじる清従の教えを説く身として、主命に従っただけの者は助けたいのです」
この王子様はやはり、まっとうな聖職者としての側面が強すぎる。信仰と教団によって心のバランスを保っているせいだろう。
私は笑いながら冗談っぽく応じた。
「ご心配なく、殿下。リン王女はこの者を大変気にかけておいでよ。正式な捕虜として身柄を預かってるわ。殺されかけた私としては、少々妬けるわね」
エリザを生かしたまま捕らえてきたのは、結果的に大成功だった。
彼女が主君を呼ぶ「御前」という呼称から貴人の側近であることは想像できたが、その立場以上に周囲の情を動かしている。
やはり心身ともにボロボロになった若い女性というのは、理屈抜きに人の心を揺さぶるのだろう。
などと、情の薄いことをぼんやり考える。悪いが私は薄情者だ。
口も悪いし育ちも悪い。性格も悪い。
だから人はついてこない。
……まあ、変わり者たちが多少ついてきてくれている。
本当に世界を変えるのは私ではない。リン王女や……あとネルヴィス王子にも、最近ちょっと期待しつつある。
するとそのネルヴィス王子が、スッとこちらを向いた。
「ノイエ殿」
「何かしら?」
「僕はこれから、教団本部に赴いて師ヨハンスト三世と面談する。リン王女殿下の一派に敵対する意図は一切ないので、その間に政情が動いても僕や教団を攻撃しないでくれないか?」
虫のいい話だ。受け入れる義理はない。
「いいわよ」
なぜか快諾してしまっていた。どうやら私もリン王女と関わるうちに、すっかり間抜けになってしまったようだ。
「殿下とは対立しているけれども、人として嫌いになれないのよ。変な言い方だけれど、あなたの進む道が拓けていることを祈るわ。そしてできれば、私たちの道とぶつかり合わないこともね」
私の言葉にネルヴィス王子は無言で微笑んだ。
それが私が見た「ネルヴィス王子」の最後の姿になった。
* * *
【教皇ヨハンスト三世視点】
教皇ヨハンスト三世は、自分の名を持つ若き王子をじっと見つめた。
「殿下が今仰ったことは、全て本当に御自身の内なる心から湧き出た言葉ですか?」
「はい、先生」
ネルヴィス王子は教区大神官の法衣をまとい、椅子にきちんと腰掛けている。その表情には苦しみが感じられたが、迷いは見あたらなかった。
教皇は教え子の性格を思い出し、軽く息を整える。
「教皇として、私は三つの懸念を殿下にお伝えせねばなりません。ひとつめは教団の立場です」
無言でうなずくネルヴィスに教皇は言う。
「教団の世俗への影響力は強大ですが、財力や軍事力、権力はやはり王室には劣ります。王室が教団の力を削ぎに来れば、我々はじわじわと勢力を失うでしょう」
教皇は指を折り曲げる。
「そしてふたつめ。殿下の血脈を明らかにすれば、教団に対する畏敬の念が薄れる者たちもいるでしょう。人の血脈など神の創りたもうた世界のほんの一片に過ぎませんが、そうは言っても人は人以上にはなれません。動揺を招きます」
「そうでしょうね……」
ネルヴィスがぽつりとつぶやいたので、ヨハンストは教え子の肩に掌を当てて軽く叩き、微笑んでみせた。
「気をしっかりお持ちになるのです、殿下。そしてみっつめの懸念が、ネルヴィス殿下……いえ、ネルヴィス君。君自身のことですよ」
教皇は真っ白いあごひげを撫でながら、苦笑してみせる。
「世間の者の大半は気づいてすらいないだろうが、君はようやく立ち直ったばかりだ。今また激流の中に飛び込む力はありますか?」
「むしろ激流の中に逃げ込みたいぐらいです。あ、これは良くない考え方ですね」
ネルヴィスが赤面し、教皇はうなずく。
「そうですね。今よりマシだからという理由では、少々心許ないでしょう。私も教え子可愛さでそれを認める訳には参りません。それにツバイネル家と対立するような真似は、教団といえどもかなりの勇気が必要です。ですが……」
教皇はにっこりと笑った。
「ここで傍観者に徹していては、どちらが勝っても恩恵は得られません。たまにはみんなで派手に戦争しましょう。君の悩みは教団が暴力……いえいえ、神の恩寵によって解決します」
「いいんですか、そんなに簡単に決めてしまって」
「教え子がこんなに思い詰めた表情で相談に来たときに、教団運営や信徒の統率のことばかり考えている人間はつまらんでしょう? 大丈夫、教皇として帳尻は合わせます」
教皇ヨハンスト三世は立ち上がると、大きく背伸びをした。
「私も君も愚かな普通の人間です。利口ぶってみたところで『正解の選択』などわかりません。しかし『後悔しない選択』ぐらいはわかります。君に後悔しない自信があるのなら、たまには歴史に残るぐらい馬鹿なことをやってみましょう」
「相談しておいて何ですが、先生はいつも無茶苦茶です」
呆れた顔のネルヴィス。しかし彼は目を潤ませて微笑んだ。
「でも……僕は先生の弟子で良かった」
「はっはっは、どうやら教皇としては失格でも、教師としてはかろうじて及第点だったようですな」
二人は笑い、そしてゆっくり立ち上がった。
翌日、第二王子ネルヴィスは自身が国王の血を引いていないことを公表し、王室からの離脱を宣言。テザリア姓を失い、「ネルヴィス王子」の呼称は消滅した。
さらに教皇ヨハンスト三世から祝福を受けて正式に出家すると、首都バルザールのゼッツ教区大神官に就任した。
そしてネルヴィス大神官は、自らが治めていたテザリア北部のグイム地方全域を教団に寄進。そのままグイム教団領統治官を兼任する。
こうしてテザリアの勢力図が激変した。
大波乱の幕開けだった。




