第35話「兄と弟」
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【第二王子ネルヴィス視点】
ネルヴィスは兄である王太子ベルカールと、久しぶりに会っていた。
兄ベルカールは応接間のイスの背もたれを持ち、立ったまま応対する。
「ネルヴィス。俺はこれから北テザリアに行き、爺様と懇意の貴族連中と三日ほど狩りをせねばならん」
貴族にとって、管理された狩猟場での狩りは政治的な密談の場だ。時間や周囲の目を気にせず、込み入った話ができる。
「わかりました、兄上。では手短に」
ネルヴィスはうなずき、迷いながらも切り出した。
「お祖父様のことなのですが、兄上はノイエ・ファリナ・カルファード卿失踪の件をご存じですか?」
「ああ、一応はな」
無造作にうなずく兄。
ネルヴィスは緊張しながら、さらに言う。
「お祖父様がノイエ殿を暗殺したという噂についてもご存じですか?」
「噂はな。そんな世間話なら、帰った後でもいいだろう」
侍女にコートを運ばせて兄が退出しようとするので、ネルヴィスは慌てて食い下がる。
「事実なのですか?」
「さあな」
兄のその言葉で、ネルヴィスはツバイネル公が暗殺の黒幕であることを確信した。
兄ベルカールは平素から感情の起伏が少なく、嘘をついても気づかれにくい。しかし演技が上手な訳ではないので、ネルヴィスのように身近な者には微妙な口調で嘘がわかる。
王太子ベルカールは、母方の祖父であるツバイネル公の暗殺計画を知っている。その上で、弟である自分には秘密にしようとしているのだ。
なぜだ。
もどかしい思いで、ネルヴィスは兄に懇願した。
「兄上、何かご存じなら僕にも教えてください。僕も王室の一員、そしてツバイネルの血を引く男ですよ。秘密は守れます」
するとベルカール王太子は真顔で、じっと弟を見つめた。
「お前の金髪は、いつ見ても母上より美しいな」
その言葉を聞いた瞬間、ネルヴィスは心臓を氷水に浸けられたような思いをする。
――不義の子。
――王の血を引かぬ王子。
――争乱の火種。
忌まわしい言葉が脳裏をぐるぐると巡り、ネルヴィスは立ち尽くす。
兄は「王の血を引いていない末席者が、余計なことに首を突っ込むな」と言っているのだ。
思わず口走る。
「兄上! 僕は兄上の役に立ちたいのです!」
しかし父違いの兄は冷たかった。
「ならおとなしく聖句でも暗唱していろ。お前の役目は清従教団の監視だ。連中が父上の申し立てを通さぬよう、しっかり見張っておけ」
清従教団は国王と王妃の婚姻関係を立証する組織だ。同時に婚姻解消の裁定を下す組織でもある。
王太子の廃嫡を企てている国王は、第二王子ネルヴィスが不義の子である証拠を集めているだろう。そしていずれ、婚姻の無効を教団に訴える。
しかし第二王子ネルヴィスは清従教団の幹部として、教団の意志決定に深く関与している。父王の婚姻無効の訴えを退けるように圧力をかけるのは簡単なことだ。
また教団にとっても、王室とのパイプであるネルヴィス名誉教区神官が「不義の子」「王の血を引かぬ王子」となることは痛手だ。
だからこそ、ツバイネル公は清従教団に幼いネルヴィス王子を送り込んだ。
もちろん、ネルヴィスはそのことに苦しみ続けている。
母が他の男との間に子をなし、父だと思っていたグレトーとは血が繋がっていない。
その事実を知ったとき、ネルヴィスはまだ子供だった。
身を裂かれるような苦悩と絶望、家族に対する不信感に苦しんだ。
その苦しみからネルヴィスを救ってくれたのは、政治工作に向かった先の清従教団の人々だった。師である教皇ヨハンスト三世や同門の神官たちは、不義の子ネルヴィスを温かく迎えてくれた。
思春期を通じた数年間の思索の末に、ようやくネルヴィスは王室の一員として生きていく覚悟ができた。
だが今、その覚悟がぐらついているのをネルヴィスは感じている。
「兄上……」
「しつこいぞ。帰ったら狩りの獲物をくれてやる。一緒に肉でも食いながら、改めてゆっくり話そう」
そっけない口調でそう言うと、王太子ベルカールはコートを羽織って足早に応接間から出ていった。
残されたネルヴィスはしばらく、その場所から動くことができなかった。
* * *
「噂話もこれだけ集まると壮観ねえ」
私はテオドール郡の城館でごろごろと休養を満喫しながら、集まってくる報告書を読む。
都に近く、街道筋にあるこの土地は、新鮮な情報がいろいろ入ってくる。
情報源となっているのは、宿屋の主人や街道の警備をしている傭兵たちだ。彼らは旅人たちの噂話を聞きつけては、根ほり葉ほり聞きだして報告書にまとめてくれる。
報告書を分類しながら、異母弟のリュナンが言う。
「でもこの情報、どれぐらい役に立つんですか?」
「ひとつひとつの報告書は、ほとんど何の役にも立たないわ」
私は次の報告書に目を通す。
「ただし、いつ、どこで、誰が、誰に、言っていたかを踏まえた上で、情報を蓄積すると役に立つのよ。そうね、例えばこれ」
報告書を綴じたファイルのうち、「清従教関係」と題されたものを開く。
「巡礼者や旅の神官たちの発言をまとめると、都からの帰路ではネルヴィス王子の話題が頻繁に出ているわ」
「都で王子の話を聞いたんでしょうか」
「そうね。そしていずれも、とても好意的よ。あの王子のことだから、たぶん巡礼者や地方の神官たちに手厚い配慮をしているんでしょう」
ネルヴィス王子は清従教の儀式や祝祭には頻繁に顔を出すらしい。祭礼の場で声をかけられたという話もよく聞く。
同室で軍学の戦術教本を読んでいたリン王女が、ふと顔を上げた。
「ネルヴィス殿は、王室の一員というよりは聖職者の印象が強いな」
「そうねえ。ちょっと不自然だわ」
前にネルヴィス王子本人が認めていたが、第二王子にしては宗教界寄りだ。高位神官としての職務に熱心なのはいいが、これでは世俗の政治に関わる時間はないだろう。
リュナンが難しい顔をして腕組みする。
「ネルヴィス殿下は王太子殿下の補佐、そして予備になるのが本来の役割のはず。それなのにまるで『宗教界は自分に任せろ』と言わんばかりの働きぶりです」
「いい読みね、リュナン。頼もしくなってきたわ」
私が微笑むと、リュナンはやけに嬉しそうに笑う。
「僕もせめて兄上の補佐は立派に務めたいですから、日々精進しています」
するとリンが妙に大きな溜息をついた。
「それはいいとして、ネルヴィス殿の執務傾向は、やはり『金髪』の件と関係あるのか?」
リンには「ネルヴィス王子が国王グレトーの血を引いていない」ことは伝えてある。リンとも赤の他人だ。彼女は事実を知ったとき、かなり寂しそうにしていた。
ただし調べた方法が方法だけに、リュナンたちには内緒だ。
「そうね。だから政治の主要な部分は、王太子ベルカールが全て仕切ってるわ」
その王太子ベルカールだが、街道を行き交う人々の口にはほとんど上らない。
「ベルカールは貴族たちをうまくまとめているけど、庶民には不人気ね。何を考えてるのかさっぱりわからないし」
そういうところは父王グレトーそっくりだ。グレトーMk-Ⅱと呼びたい。
ただしベルカールは父親とは違い、醜聞の類は一切ない。そこは偉いと思う。
もっとも、女性に対する扱いの酷さは父親と似たようなものらしい。
「うちの宿場町から顔役の娘が一人、こないだから王宮で侍女見習いをやってるでしょ? 侍女たちの宮中心得は『国王陛下や王太子殿下と二人きりのときには気をつけなさい。陛下は下着を取られる。殿下は首を取られる』だそうよ」
リンが露骨に嫌そうな顔をしている。父の悪口だから当然だろう。
私は苦笑してみせた。
「ベルカール王太子は女性に対して全く慈悲がないらしいわね。少しの手落ちでも容赦なく懲罰を与えるそうよ」
聞いた感じ、女性嫌悪に近いものがある。やはり第二王子の件で母親に対して不信感があるのか。
するとユイがリンにお茶を淹れつつ、不安そうに言う。
「リン殿下に対して面会どころか書簡のひとつもないというのは、そこらへんが理由でしょうか」
「どうかしらね。これだけじゃ判断はできないけど、そうかもしれないわ」
私は報告書の表紙を指で撫でながら、じっと考える。
王太子派も一枚岩ではない。ツバイネル公、ベルカール王太子、ネルヴィス第二王子。いずれも立ち位置が異なり、向いている方向も違う。
だとすれば、強大な王太子派に亀裂を生み出すこともできるだろう。
「そろそろ、表舞台に復帰する頃合いかしらね」
もう少し引きこもり生活を楽しみたかったのだが、それは全てが決着してからにしよう。
私は立ち上がった。
「噂をばらまくわ。みんな、手伝って」




