第60話 【AIの支配者】ですが、推しが「キーボードの軸にグリスを塗る音」を2時間流し続け、流石に解析不能でフリーズした
「……全リソース、確保完了」
アメリカ、シリコンバレー。 Nebula CorpのCEOオフィスで、 アレン(admin)は最高級のワークチェアに深く腰掛け、ブラックコーヒーを啜った。
今夜は、小狐ルルの配信がある。 彼はこの時間のために、世界中のサーバー負荷を調整し、完璧な視聴環境を整えていた。 前回は世界規模のハッキング騒動があったが、今日は平和だ。 きっと、華麗なゲームプレイか、楽しい雑談が聞けるだろう。
『こんばんわー、ルルだよー!』
画面にルルのアバター……ではなく、「手元カメラ」が映し出された。 そこには、分解されたキーボードのパーツ(スイッチ)が、山のように積まれている。
『今日はね、この「キースイッチ」108個を全部開けて、中にグリス(潤滑油)を塗っていくよ! 最高の「コトコト音」を目指して……いざ、修行開始!』
「……?」
アレンの眉が動いた。 ゲームではない。雑談でもない。 ただひたすら、1センチ四方のプラスチック部品に、筆で油を塗る作業?
(……非効率だ。 静音性や打鍵感を求めるなら、既製品の高級モデルを買えば済む。 なぜわざわざ分解し、手作業で塗布する? 生産性が皆無だ)
アレンの脳内AIが「理解不能」の警告を出す。 しかし、ルルは楽しそうに作業を始めた。
◇
『よいしょ……カパッ(分解音)。 ぬりぬり……(筆が擦れる音)。 カチッ(戻す音)。 ……うん、いい音! 次!』
配信画面には、地味な映像と、微細な環境音だけが流れる。 BGMもない。 ただひたすら、「カパッ、ぬりぬり、カチッ」という音が繰り返されるだけだ。
コメント欄の怪物たちも、困惑を隠せない。
『ミケ: ……これは、工場のライン作業か? ワシの工場ならロボットにやらせるが』
『ドクター: 摩擦係数の調整か。だが、個体差が出すぎる。人間の手感覚に頼るのは科学的ではない』
『フクロウ: ルル様が楽しそうだから良いのですが……映像の変化がなさすぎて、少し眠気が……』
天才たちは「意味」や「効率」を求めてしまう。 だが、この配信にそんなものはない。 あるのは「こだわり」という名の狂気だけだ。
『あー、この軸のバネ、ちょっと擦れる音がするなぁ。 もう一回塗り直し! ……ふふっ、手間がかかる子ほど可愛いねぇ』
ルルは1個のスイッチに5分もかけている。 残り107個。計算上、9時間はかかるペースだ。
「……なぜだ?」
アレンはモニターを睨みつけた。 彼は無意識に、ルルの手元の動きを解析し始めていた。
(筆の角度、グリスの量、塗布のムラ……。 全てにおいて「ゆらぎ」がある。非効率の極みだ。 それなのに、なぜ彼はこんなに幸せそうなんだ? この単調な繰り返しのどこに、エンターテインメント性がある?)
彼はAIをフル稼働させ、この「作業」のゴールを予測しようとした。 だが、答えが出ない。 目的は「完成」ではない。「塗る行為そのもの」にあるのか? そんな非論理的な行動が、人間には可能なのか?
『カパッ。ぬりぬり。……カチッ。コトコト……』
(……音波解析。 300Hzから500Hzの低周波帯域。 ……なんだ、このリズムは。 不規則なようでいて、一定の……脳波をα波に誘導するような……)
アレンの思考速度が、徐々に鈍っていく。 普段なら数億の計算を並列処理する彼の脳が、 「カパッ」「ぬりぬり」「カチッ」 という3つの命令セットだけで埋め尽くされていく。
(解析……不能。 この行動に、論理的解は……ない。 あるのは……ただ……ここちよい……虚無……)
ガクッ。
アレンの手から、マグカップが滑り落ちそうになった。 彼は、生まれて初めて「思考停止」していた。
◇
2時間後。
『ふあぁ~、今日はここまで! 20個できたね!』
ルルの声で、アレンはハッと我に返った。
「……はっ!?」
時計を見る。2時間が経過している。 その間、彼は一歩も動かず、仕事もせず、ただひたすら他人がプラスチックに油を塗る映像を凝視していたのだ。 「AIの支配者」と呼ばれる男が、2時間の記憶を完全に飛ばしていた。
「……バカな。 この私が、時間を浪費しただと……?」
アレンは戦慄した。 どんな高度なサイバー攻撃でも、彼の思考を止めることはできなかった。 それを、たった一つの「地味な作業音」がやってのけたのだ。
モニターの中では、ルルが満足そうに笑っている。 『みんな、地味な作業に付き合ってくれてありがとう! よく眠れるといいな。おやすみー!』
アレンは、呆然としたまま、震える指でキーボードを叩いた。
『admin: (スパチャ)……見事だ。 私の論理回路には、「無意味の美学」というセキュリティホールがあったらしい』
『リョウタ: adminさん、それを世間では「癒やし」って言うんだよ。やっと人間らしい感情を知ったな……?』
アレンは、冷めたコーヒーを飲み干した。 頭の中は、かつてないほどクリアで、スッキリしていた。 これが「デフラグ」された感覚なのかもしれない。
「……悪くない。 来週の『残り88個』の配信も、全リソースを確保する」
最強のAI使いは、すっかり「ASMR」の沼に沈んでいた。
毎日0時に1更新を目指して頑張っています。
もしお気に召しましたら、作者のやる気アップのために
ブックマークや評価やスタンプで応援していただけると嬉しいです。




