第50話 【支配する令嬢】ですが、出向中(嘘)に推しとLINEを重ね、その純粋な活動理念に心が浄化された
「……ロンドンは、霧の都とはよく言ったものですわね」
イギリス・ロンドン。テムズ川を望む最高級ホテルのスイートルーム。 影山 栞は、バスローブ姿で窓の外に広がる灰色の空を見上げていた。
彼女は今、本当に日本を離れている。 表向きは「海外支社への長期出向」。 しかし、その実態は、小暮の「監視は怖い」という言葉にショックを受け、衝動的に日本から逃げ出した「傷心旅行」だ。 影山財閥の令嬢である彼女にとって、国境を越えることなど、コンビニへ行くのと大差ない。
『ピロン♪』
サイドテーブルのスマホが鳴った。 栞の表情が、憂いを帯びた令嬢から、恋する乙女へと一瞬で華やぐ。
『小暮さん: おはようございます。そちらは深夜ですよね? 通知で起こしてしまったらすみません』
「……ああ、なんてお優しい」
栞はうっとりと画面を撫でた。 日本との時差は9時間。 この物理的な距離と、「時差を超えて連絡を取り合っている」という事実が、今の彼女には心地よかった。
彼女は、計算された「異国の地で働く健気な女性」の文面で返信を打った。
『栞: お気遣いありがとうございます。……ふふ、小暮さんからのメッセージ通知が、私にとって一番の目覚まし時計なのです』
◇
『小暮さん: それは良かったです。……実は僕も、影山さんとこうしてLINEをしている時が、一番ホッとするんです』
『小暮さん: 最近、仕事以外の活動……趣味のほうが忙しくて。でも、すごく充実してるんです』
栞の目が細められた。 「趣味」――すなわち、小狐ルルとしての配信活動のことだ。 ミケやadminなどの他の怪物たちは、ここぞとばかりに日本国内でリアル接触を繰り返し、物理的な距離を縮めることに躍起になっているらしい。
かつての彼女なら、地団駄を踏んでプライベートジェットで帰国し、彼らを排除していただろう。 だが、今の彼女は不思議と穏やかだった。
彼女は、あえて核心には触れず、問いかけた。
『栞: 趣味が充実しているのは素敵ですね。……でも、お顔も見えない相手との交流で、疲れてしまったりしませんか?』
以前、彼が言ったトラウマが、まだ彼女の心には棘として残っている。 しかし、彼からの返信は、ロンドンの霧を晴らすようなものだった。
『小暮さん: 以前は怖かったんです。でも、今は違います』
『小暮さん: 顔が見えないからこそ、届けられる言葉があると思うんです。 僕の拙いお喋りでも、どこかの誰かが「明日も頑張ろう」って笑ってくれるなら……それが僕にとって、一番の幸せなんです』
「……ッ」
栞は、熱い紅茶を一口含み、ほうっと息を吐いた。 画面越しの文字から、彼の体温が、数千キロの距離を超えて伝わってくる。
名声のためでも、金のためでもない。 ただ、孤独な誰かの夜を照らすために、彼はルルとして笑っている。 その「誰か」の中には、かつて鳥籠の中で凍えていた自分も、今こうして異国で独り過ごす自分も、含まれているのだ。
『小暮さん: だから、影山さんも。 遠い異国の地で寂しい時は、いつでも連絡してください。 僕でよければ、いつでも話し相手になりますから』
その言葉を見た瞬間。 栞の心の中で、どす黒く渦巻いていた独占欲や、焦燥感が、嘘のように浄化されていった。
「……ああ。私は、なんて愚かだったのでしょう」
彼を鳥籠に閉じ込めようとしていた。 自分だけのものにして、その輝きを独占しようとしていた。 けれど、彼は「みんな」を照らす太陽なのだ。 太陽を手元に囲い込めば、世界は闇に包まれ、彼自身の輝きも失われてしまう。
「貴方は、そのままでいいのですわ。 誰にでも優しくて、お人好しで……そんな貴方だからこそ、私はこんなにも救われているのですから」
彼女はスマホを胸に抱きしめた。 物理的な距離は離れている。 けれど、心は、近くで監視していた時よりもずっと深く繋がっている気がした。
◇
日本、その夜の配信。
「みんなー! 今日も来てくれてありがとう!」
小狐ルルの声が響く。 栞はロンドンのホテルで、優雅なアフタヌーンティーを楽しみながら、タブレットで配信を開いた。
他の怪物たちは、リアル接触の成果を誇るようにコメントしている。
『ミケ: 先日仕事で会った若者の目は良かったからまた呼び出すつもりなんじゃ』
『admin: データを解析中。わたしも次回のプランを策定している』
皆、ギラギラと「物理的接触」に固執している。 そんな中、カゲだけは穏やかなコメントを残した。
『カゲ: ルル様。今夜も貴方の素敵な声を聴いておりますわ。……どうか、無理なさらず、貴方のままでいてくださいね』
そのコメントには、以前のような「重圧」や「狂気」は微塵も感じられなかった。 あるのは、純粋な感謝と敬意、そして余裕のみ。
『リョウタ: (……お? カゲさん、なんか雰囲気変わった? 本物のセレブの余裕ってやつか?)』 『フクロウ: (……海外の空気が合ったのかしら。憑き物が落ちたようですわね)』
栞は、窓ガラスに映る自分の顔を見て微笑んだ。 そこには、愛に飢えた亡霊のような姿はなく、恋を楽しむ一人の女性がいた。
「ふふっ。皆様、せいぜい日本で駆けずり回ることですわ。 私は、ここ(LINE)で彼と**『二人だけの秘密の通信』**を楽しみますから」
物理的距離というハンデすら、彼女にとっては「ロマンチックなスパイス」に変わっていた。 「支配する令嬢」は、この夜、真の意味で「一番の理解者」へと進化したのだった。
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