第二十九章 懐古の章 4
芳音の気持ちを置き去りにしたまま、映像が流れ、切り替わる。芳音はただぼんやりと、映し出された見知らぬ部屋の映像を眺め続けた。
「克美君をどうする気だ? 気付いているだろう、彼女の気持ちに。この計画が本庁に露見しない限り、私の手駒だけでも問題なく遂行できる。辰巳、おまえは手を引け。――加乃君の願いのためにも、それ以降のことにおまえは関わるな」
知らない男の声だけが流れる。自分とよく似た風貌の男がモニターに映し出され、眉をひそめた表情を浮かべていた。手には無言のまま携帯電話を握っている。このディスクはその携帯電話が拾う音声と映像とを同時保存したものらしい。そのお陰で芳音にも通話内容が聞き取れた。
『高木さん、加乃の願いだからこそ、俺がやらなきゃ駄目でしょう?』
重たげな口が開かれた。黄金の長い髪に、グリーンアイズの鋭い目鼻立ち。ゆがんだ左右非対称な皮肉る微笑。これまで見たどの音声とも異なる、消えそうなほどに力なく呟かれた低い声。パソコンに内蔵されたカメラで映されたものと思われるそれが、初めて芳音に辰巳の素顔を見せた。
『俺が克美の傍にいる限り、あいつに普通の暮らしをさせてやれなくなる。親父がしつこいことくらい、あなたも知っているでしょうに』
加乃の願い、という言葉が芳音に克美の言葉を再現させた。
――加乃姉さんが、ボクに普通の暮らしをって辰巳に頼んでくれたから。
彼にとって加乃とはどういう存在だったのだろう。彼がその名を口にしたその刹那、どうしても苦痛としか受け取れないゆがみを眉間に浮き上がらせた。少なくても芳音には、そんなふうにしか見えなかった。
居心地の悪い沈黙が続く。辰巳のグリーンアイズが静かに閉じられていく。彼の頬の筋肉が、奥歯を噛みしめる様をかたどった。次第に面までもが伏せられていく。キチ、と耳障りな音が零れ、携帯電話を握る彼の手が小刻みに震えていた。
再びゆっくりと彼の目が開かれ、ひそめた眉間がゆるんでいった。再びカメラが捉えた彼の瞳からは、まるでガラス玉のように感情が抜け落ちていた。
『ばれなければ、なんてリスクは要らない。不確定要素があったら意味がない。俺がやらなきゃ、この十六年が無駄になる。それじゃあこれまで犠牲になった仏さんたちが浮かばれない』
――ぬるいぞ、高木。
「!」
初めて辰巳と視線が合った。芳音は反射的に椅子ごと身を退いていた。
「ち……がう……」
画面の向こうで自分を見据える彼から逃れるとばかりに立ち上がる。芳音は脚がもつれて危うく転びそうになった。足を踏ん張ると同時に、モニターに向かって叫んでいた。
「この……石頭っ」
ぬるい、と諌めるその言葉。本当は高木とかいう通話相手に向けた言葉などではない。あれは間違いなく。
「くっそ。どこにあるんだよっ」
日付を選ばずとにかく漁る。ディスクを片っ端から取り出し、入れ替えては再生を繰り返す。幾つもの映像から探し続けた。本当の辰巳。克美と一緒に映る映像。克美に話し掛けるときの声。仕草。表情。瞳の色。それに応える克美のことも。
零す克美の笑顔。受け止める辰巳の柔らかな微笑。泣きそうな顔に戸惑う表情。お客に二人の関係を茶化されて逆ギレする克美の真っ赤な顔と怒声。なだめながらも一瞬はにかんだ表情を浮かべる辰巳――そこにあるのは、義妹を守る義務感でもなく、婚約者との約束を果たそうという気負いでもなく。
――辰巳、だいすき。
――うん、俺も……おまえが大好きだよ。
「あった……。やっぱり馬鹿だ……クソ親父……」
辰巳のそれは、使命でも約束なんかのためでもなくて。
「なんにも解ってなかったのかよ……」
芳音が見つけ出したかったもの。ようやく見つけ出せたのに、肝心の本人が克美を守ることに精一杯で、彼女の望みを全然解っていなかった。罪深い顔で抱き寄せた理由はきっと。
「鈍過ぎる……。自分の気持ちも解ってなかった、なんて……」
散らかした物を片づけながら呟いた。言葉と一緒に雫が一つ。それがすすけた段ボールに吸い込まれていった。
いつの間にか、デスクに突っ伏して寝ていたらしい。腫れた目をこすって扉を見ると、その前に克美がトレイを手にして立っていた。
「おはよ、もう朝だよ」
扉の開く音とコーヒーの香りで目を覚ましたのだと気がついた。
コーヒーとサンドイッチの載せられたトレイが、ことんとデスクに置かれた。克美が作った食事に手をつけなくなって久しい。ばつが悪くてサンドイッチに手を伸ばせなかった。
コーヒーカップだけを手に取り、なんとなく席を立つ。
「いいもの見せてあげる」
克美はそんな芳音の泳ぐ視線に頓着もせず、ショールの袂から一枚のディスクを取り出した。
「これが、芳音の次に大事なボクの宝物」
そう言って椅子に腰掛け、立ち尽くす芳音を促した。芳音が彼女の脇へ近づくと、再生ボタンをクリックした。
今と何一つ変わらない倉庫の映像。ついさっきまで見ていた顔がほどなくして映し出された。ばっさり切り落とされた金髪とグリーンアイズの明るさが、妙に芳音の脳裏に焼きついた。
若作りの派手な中年男が、少年のようにはにかんだ笑みを惜しみなく零す。
『克美、泣いてるんじゃないか? もし寂しくなったら、これでも見て、笑って店に出るんだぞ。一つ、大事なことを言い忘れちゃったんだ。もし、俺の子が宿ったら』
――かのん、と名づけてくれると嬉しい。
大嫌いなはずの奴が、柔らかな声で愛しげに自分の名を音にした。
「かのん、って、母さんじゃなくて、辰巳が……?」
問い掛ける芳音の声が、意思に反して震えた。
「ん。きっと絶対、あいつもおんなじ字面を思ってた」
克美が画面を見つめたまま呟いた。『Canon』に広がる芳香と、扉に飾られたベルの音。ここはボクらの楽園だから、きっと「芳音」と名付けたかったはずなんだ、と。
『俺達の楽園の象徴を名付けてやって欲しい』
母の声を補うように、辰巳が同じ言葉を繰り返した。
『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』
「……うん」
自分の傍らから、そんな小さな返事が届く。視線だけで見下ろせば、そこには昨夜と同じ表情をして頬を濡らしている克美が微笑んでいた。
知らなかった。辰巳がいなくなってからの十六年間、克美が自分に見えない場所でこんな日常を繰り返しながら日々を過ごして来ていたこと。克美の笑う理由が、辰巳から送られたこのメッセージと、息子の自分に対する親としての配慮にあったこと。言えない事実を告げる代わりに、そんな形で家族を繋げようとしていた奥底に秘めていたその想い。
「母さん」
繰り返しその映像を眺める克美の頭上から呼び掛けた。
「ん?」
見上げる気配を感じるが、そちらへは敢えて目を向けず、画面に映る馬鹿親父に向かって問い掛けた。
「辰巳は、時間さえ過ぎれば、いつか母さんが忘れるとでも思ったのかな」
だとしたら、相当な馬鹿だと思う。
「……どうだろうね。あいつ、ホントに変なトコが馬鹿だったからなあ」
くすりと笑う声と、ずず、と鼻をすする音が、芳音にも同じものをいざなった。
「ホント、馬鹿だよな。こんな甘ったるい顔されてそんなことを言い残されて、昔話になんかできるかっつうの」
芳音の毒づく声に、克美がまた小さく笑った。
『よろしくっ。じゃ、今度こそ……行って来るよ』
「……うそつき。行って“来る”気なんてなかった癖に」
克美が、初めて違う言葉を辰巳に返した。
克美が小さなほうの引き出しの鍵を開けた。彼女は少しだけ開いたそこに取り出したディスクを滑り込ませた。芳音の目には、その仕草がまるで何かを隠すように映った。零れる涙を拭きもせず、小さな引き出しに手を掛けたまま俯いている。その姿を見て、ふとある映像が脳裏を過ぎった。
昨夜克美が話していた、「豆ごとコーヒー」の記憶。この机に座る克美が、今の彼女と重なった。手に、何かを持っていた。自分の姿を認めた途端、泣き崩れて自分を抱きしめた。その瞬間に頬へ伝わる克美の涙の湿った温もり。何かを語り続ける耳をくすぐったその吐息。一つだけ、解った単語。
――芳音、だいすき。
切ないくらいの震える声。そのとき強く感じた、「笑って」と願う切実な想い。母の手から何かを取り上げることができなかったときの、自分の小ささに感じた言い知れぬ恐怖。どうしてあんなにも「笑って」と切に願ったのか。
「なあ、そのデスクの引き出しって、ほかに何が入ってるんだ?」
不意に問い掛けた言葉が、異様に克美の肩を上がらせた。見上げた瞳が怯えている。だが彼女はすぐにそれを消し、悪戯な瞳で微笑むと
「トカちゃんと、コルちゃん」
と訳の解らない言葉を返して来た。
「なんだそりゃ」
「辰巳がくれた、ボクの切り札。必要だったかもしれないモノ」
でも、きっともう要らない。そう言った最後の言葉は、芳音に向けた答えというより別の誰かに伝えているように見えた。克美は遠いどこかを見つめて笑っていた。
大袈裟につかれた派手な溜息が、倉庫の中に小さく響く。
「訊いた俺が馬鹿でした。秘密なら秘密で、素直に最初からそう言えよ」
相変わらずの憎まれ口しか叩けない。だがその声音は反抗期の自覚に満ちていて、どこか柔らかな声に変わっていた。一朝一夕には、素直になどなれやしない。
(ま、少しずつでいいや)
芳音は心の中で、そっとそんな言い訳をした。少しずつの第一歩。ようやく克美の作ったサンドイッチにも手を伸ばすと、視界の隅が気恥ずかしいものを捉えた。見上げる克美の大きな瞳がゆっくりと弧を描いて潤んでいくのを、まともになんて見れなかった。
「なあ、今度モーニングもやろうと思うんだけど、これ、どう?」
「却下」
「やっぱあんま美味くない、か」
「あんたの身がもたないだろっつー話。いつ寝る気なんだよ」
「……芳音が優しい……」
「看病するのがウザいだけだっつの」
「可愛くないね、おまえって」
普通の会話。平和なやり取り。要らない存在であれば許されないであろう、そんな他愛ない当たり前のこと。当たり前だと思っていたことが、本当は当たり前なんかじゃない、と初めて芳音の心が受け容れた。
解らないことはまだまだたくさんあるけれど、一つだけ、理屈ではなく心にすとんと収まったこと。
――自分は存在してていい。
初めて、赦された気がした。
「なあ、母さん」
食後のコーヒーをひとすすりしてから、芳音がぽつりと呟いた。
「ん?」
「……俺さ」
そこで一旦言葉がつかえる。もう一人の自分が、かなり抵抗していると自分でも解った。
「まあ、一応認めてやるよ。辰巳が俺の……親父だってこと」
克美の目が一気に涙の洪水を起こす。次に取るであろう彼女の行動を察知すると軽い眩暈を覚えてしまう。
(今日だけはしゃあないな)
軽く溜息をついて空を仰ぐ。キィ、と椅子を引く音が耳に入ると、芳音はコーヒーで服が汚れるのを回避すべく、手にしたそれを自分の身から遠い位置へと避難させた。
「親父……って、初めて呼んだ」
案の定、視界が濡れ羽色一色になり、一瞬視覚を塞がれた。
「ずっと黙っててごめんな、芳音。辰巳のこと、認めてくれてありがとう」
視界が開けたかと思うと、軽く後ろへのけぞった。
「ったく、少しは子離れしろよ」
しがみついて芳音の髪を濡らす幼い母の背に腕を回し、そう毒づきながら踏ん張った。
それ以来、芳音の考え方が少しだけ変わった。
まず、学校をさぼらず行くことから自分改革というものを試みた。
「母さんが行けなかった分、代わりに行っておいてやるよ」
と、憎まれ口は相変わらずだが。
惰性でただなんとなく過ごすのではなく、何か目標を見つけると自分に誓った。どんな些細なきっかけでもいい。見つけるためには、やはり基礎知識が必要だという結論に至ったからだ。
学校の勉強だけではなく、自分に向いているものを見つける“自分探し”の一環と称し、休日は店の手伝いもすることにした。
開店直後の閑古鳥の店で、ある日克美が呟いた。
「一つだけ、今でも悔しいことがあるんだ」
レアチーズを攪拌する手を止めて首を傾げた芳音に、克美がその内訳を申し訳なさそうに語る。
「辰巳に芳音のことを知らせられなくて、ごめん。もし知ったら、きっと辰巳がおまえにも何か遺してくれたはずなのに」
同じものを作る克美の手が止まり、徐々に俯き瞳が潤む。
「おまえには、辰巳からもらえるはずのものが一つもないな、って。今ごろになって気づいてさ……悔しい」
零れそうな瞳から、今にも涙がケーキの種に落ちそうだ。克美は芳音に辰巳のことを話して以来、急に涙もろくなってしまった。つい深い溜息が漏れ出てしまう。
(泣いたらケーキの種に入るだろうが。涙もろいなんて、どんだけ脳内ばばあだよ)
そうは思うが、反面教師の父がいる。親父レベルの鈍感にはなりたくはない。学校へまともに通うようになってから、いろんな意味で人脈ができた。人との関わり方を解って来てからは、本音を口に出す前に考えるようになっていた。今は思ったままを言わないに限ると、脳内ばばあのしおれた横顔を見て苦笑した。
「きっと辰巳は、俺が生まれるって解ってたよ。だから芳音って名前を遺したんじゃねえの?」
最も欲しかろう言葉で答える。
「俺は二人の楽園の象徴、なんだろ?」
一瞬克美の目が遠くなった。
「なんだよ」
「少し首を傾げる癖、辰巳とおんなじだ」
「げっ。勘違いして襲うなよ!」
「誰がっ。おまえなんかちっせぇちっせぇ」
「な、何が」
「器ぁ。なんだと思ったの?」
「……うっさい」
「お年頃だねぇ、芳音クン。そろそろ好きな子が誰かくらい、ホントのところを教えなよ」
克美はそう言ってがさつな声で、いつものように「ぎゃはは」と笑った。
生きている。
脈々と受け継がれていく。
辰巳が遺した、人を愛おしむ心の波紋。彼が愛した優しい時間。思慮深く、先を見て、少しでも多くの人が平和で平凡に幸せな毎日を送れる、そんな場所を作りたい、という気持ち。
芳音と過ごす、数少ない貴重な時間。日を追うごとに、このごろの克美はそれを実感することが多くなった。
「克美。俺やっぱさ、高校を卒業したら、東京へ行って勉強したい」
辰巳がチーズケーキ、克美が林檎パイなら、俺はシフォンケーキの名人にでもなって、『Canon』の主導権を握ってやると、どこまで本気なのか分からない口調で芳音が言う。
「克美がその間、独りで大丈夫なら、だけど」
そんなふうに、辰巳と同じような瞳で直視されると、自分の幼さに自己嫌悪してしまう。
来年には高校を卒業する。貴美子が、成長した芳音を見て言っていた。
『丁度こんな年のころに、辰巳と初めて逢ったのよ。見事に似て来たわね。……外面だけ』
何もかもが、過ぎたこと。貴美子も懐かしむ目で芳音を見るようになっている。芳音の中から辰巳を見い出して苦しむ様子もなくなった。穂高たちも、もう大丈夫かもしれない。芳音には、自由に自分の道を選んで欲しい。もう時間が解決してくれた、と思ってもいいのかもしれない。
本当はまだ少しだけ迷う部分があるけれど。それは望を育てている彼女の養母にフォローを頼もうと考え直した。
「だ~いじょーびっ。だって、お客が毎日来てくれるもん。うっかりしたらおまえのことを忘れっちゃうかも」
芳音と離れることも本当は寂しいけれど。克美はわざとらしいくらいの笑顔で憎まれ口を返してやった。
「忘れるのかよ、脳内ばばあ」
「何っ!? おまえ、それが親に言う台詞かよっ」
「忘れるんですか、脳内おばば」
「意味一緒じゃんかっ!」
「あ、いらっしゃいませー」
「あ、いらっしゃ」
「騙されてやんの」
「むかーっ!」
駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、隠れるように営まれているレトロな雰囲気の喫茶店。木目調の看板に、フラクトゥーアの白文字で『Canon』と書かれたこの店について、最近新しい噂が持ち上がっている。
口の悪さは母譲り、涼しげな目許と客には優しい語り口調は昔懐かしい父譲り。そんな若手のイケメンウェイターが、最近休日だけ『Canon』に立つらしい、と。親から昔話を聞いた、やはり今度も女子高生の口からその噂は広まっていった。
誰もがふと立ち寄りたくなる場所。一度入ったらなかなか腰を上げられないほど温かい場所。
スピード社会の中にぽっかり浮かぶ、レトロでアンティークなそれは、まるで現代の――楽園。




