第二十九章 懐古の章 2
一枚の黄ばんだ書類。それは随分古い発行日が記された克美の戸籍謄本だった。父の欄に、養父として辰巳の名が、母の欄に養母と注釈が添えられた上で書かれていたのは、“加乃”という見知らぬ名前だった。
「これ……意味わかんないんだけど」
手にした書類が小刻みに揺れる。少なくても、克美と辰巳がこれまで芳音の知らされて来た家族の形ではない、ということだけは解った。
「加乃って、誰」
一応そう問い、デスクへ書類を放り投げる。手持ち無沙汰になった手もデスクへ投げ出し、授業中の居眠りよろしく頭もまたそこへ突っ伏した。
「ボクの姉さんで、辰巳の婚約者だった人」
「……」
最低、という言葉を呑み込むので精一杯だった。
「加乃姉さんは身体を売って稼いでいてね。ボクに同じ思いをさせないために、売春宿のみんなをお金や仕事の肩代わりをするとかの形で説得して、店主に内緒でボクを男として育ててくれたんだ」
悪びれもなく懐かしげな声でそう語る克美の神経を疑った。自分とは無縁の世界に聞こえるその話にも、まるで現実感が湧かなかった。つまらない作り話を聞かされているとしか思えず、芳音はうつ伏せたまま退屈で不快な時間が過ぎるのをひたすら待った。
「姉さんは親の借金のかたに売られたらしいんだ。親は赤ん坊のボクのことも邪魔だったんだろうな。届けも出されないまま加乃姉さんにくっつけられちゃったみたい。ボクは、この世に存在しない人間だったんだ」
加乃と辰巳が出会ったことで、辰巳がこの戸籍の形を取って社会に自分を存在させてくれたという。
「そんなふざけた話があるかよ。ドラマや漫画じゃあるまいし」
ガキだと思って馬鹿にして、ほら話をしているのだとばかり思った。舐められたとしか感じられない屈辱感が、芳音の頭をもたげさせた。
「ふざけた、か。……ねえ、芳音。そう思えるのは、辰巳がボクらに“普通が当たり前”っていう生活を残していってくれたから、なんだよ」
克美は説き伏せるというよりも、懐古の瞳を廻らせると、芳音の目を見て巡る視線をぴたりと止めた。
「芳音はきっとそう感じると思った。でもね、普通って、実は全然普通じゃないんだよ。辰巳やボクたち姉妹みたいな裏社会で生きて来た人間にとってはね」
「裏、社会? って?」
「辰巳は当時二大組織の片翼と言われていた暴力団組織の二代目候補だったんだ」
「……は?」
思わず上がった声が、場にそぐわない間抜けな音に裏返った。
「そこの広い引き出しを開けてみな」
言われるままに引き出しを開ける。中には古新聞が数日分。日付は芳音が生まれた年の夏から秋に掛けてのものが多かった。
『日本帝都ホテル銃乱射事件 続報!! 容疑者は内部構成員と判明』
紙面を大きく取った見出しにはそう書かれており、見覚えのある顔写真が載っていた。
(……ホタ? いや、似てるけど、雰囲気が全然ホタとは違う)
芳音がその記事を読む間にも、克美は淡々と昔話を語り続けた。
「辰巳は元々母さんと二人暮しだったんだって。自分の母親が海藤組組長の愛人だったことも知らなかったんだってさ。ところが運悪く組長と対面しちゃって、辰巳の奴、まだ九歳のガキだった癖に、母さんを守ろうとして、実の父親とも知らず組長に包丁を突き立てたらしい。失敗に終わっちゃったらしいんだけどね」
くすりと哀れむような声が漏れる。笑う声には聞こえなかった。
「変なところで頑張っちゃうから、海藤にそのクソ度胸を見初められちゃって。いきなり実の父親だとカムアウトされた上に、母息子一緒に拉致同然で囲われちゃって、愛人同士の権力争いに巻き込まれて――辰巳の母さんは、辰巳を庇って殺されちゃったんだって」
克美が辰巳に拾われた年は、辰巳が海藤に拉致された年とほぼ同じらしい。
「ボクに自分を重ねたのかな。加乃姉さんと一緒にボクまで売春宿から買い取ってくれた。辰巳の部屋に盗聴器が仕掛けられていたなんて、当時のボクらには考えつかないくらい普通じゃないことでさ」
頭上から、声だけではなく雫が一粒二粒降って来た。
「“目が覚めてからも、しばらく寝ぼけていられる世界”」
恐る恐る視線を上げて、語る克美の顔を盗み見る。
「“普通の仕事と少ない金で、ちっちゃい幸せを得られる世界”」
薄暗い照明の中、目を凝らす。
「“生きるとか死ぬとかいうことを、爺婆になるまで考えなくて済む世界”」
見たくない顔が、そこにはあった。遠い昔によく見せた、今にも壊れそうなゆがんだ微笑。口許だけが笑うのに、目がここではない遠くをぼんやりと見つめる。消えてしまいそうな生気のない目をした母を、久し振りに見させられた。
「“三人一緒にそういう世界で生きてみないか”、なんて。加乃姉さんとボクを連れて海藤から逃げるようなことを口にしちゃったもんだから、それを海藤の親父に知られて、加乃姉さん……殺されちゃった」
克美の視線がこちらへ向かう気配を感じた。なんと言えばいいのか解らない。嘘を言っているとは思えない癖に、やはり実感がない。それが罪に思え、芳音は反射的に俯いて克美の目から逃れた。
「それでボクたち、ここで海藤から隠れて暮らして来たんだ。小さな楽園でずっと一緒に過ごすために。って、ボクはずっとそう思ってた」
――だけど、そう思っていたのはボクだけだった。
そう呟いた克美の語尾が震え出す。新聞の記事。克美の話。辰巳が消えた理由を、もうなんとなく推測できた。
「辰巳がボクの安全を確保してからまた独りで行っちゃうなんて、思ってもみなかったんだ。ボクに普通の暮らしをって、加乃姉さんが辰巳に頼んでくれたから。ボクはそれをずっと、辰巳が傍にいてくれることだとばかり思ってた」
辰巳は、克美が独りでも『Canon』の切り盛りができるようになったと――自分がいなくなっても生きていけると判断すると、克美に「最後の依頼を引き受けて、裏稼業はしまいにする」と嘘をついて出て行った。そのまま彼が帰って来ることはなかった。
「だったら辰巳は、なんで俺なんか残していったんだよ」
綺麗ごとを言っても、結局捨てられたことに変わりはない。残される側の気持ちも考えず、結局その場の情にほだされて自分なんかを残して……やっぱり勝手な親父だ、としか思えなかった。それがそのまま暴言となって言葉にされる。克美が言い返せないであろう、最も辛辣な正論で。
「って、今更訊いても意味ないか。俺は生まれて来ちゃってる訳だし。母さんも今更なかったことになんかできないんだろうし。要は自分勝手な辰巳の自己満足の結果がこれ、って話じゃん。母さんがそうやって泣いてるのも知らずに、あいつは今ものうのうと生きている」
しまいとばかりに席を立つ。戸籍謄本の『死亡』の文字などあてにならない。医師免許もないのに、もぐりの病院を営む藪、就学許可証もないのに学校へ通えるようにと便宜を図った元刑事の小磯。法なんてあってないようなもの、と彼らの存在が芳音へ植えつけて来た。あとで知ったことだが、書類の偽造は克美自身が役所のコンピュータをハッキングして芳音の存在を潜り込ませたらしい。この変わり者の母なら、戸籍の偽造など造作もないと、古びた書類を信じなかった。
倉庫の扉を芳音が開ける音と、克美が腰掛けたのであろう椅子の軋む音が重なった。
「芳音。翠のこと、覚えてる?」
その名を聞いて、芳音の脳裏に二人の天使の姿が鮮やかに浮かび上がった。
一人は、どうにかしてやりたくなるような泣き顔をした小さな天使。親の都合でもう八年も会っていない、同じ日に生まれた自分とそっくりな幼馴染の少女、望。
もう一人の天使を、芳音は幼い頃「翠ママ」と呼んでいた。克美とそっくりな顔をしている癖に儚げな面差しが印象的だった。栗色の長い髪が黒天使の翼に見えた、望の生みの親。翠のほうは、もうおぼろげにしか覚えていない。それらのほかには、常にまとっていた純白のネグリジェが彼女を天使と思わせたことと、いつも鼻を甘くくすぐった薔薇の香りくらいしか覚えていないのだが。
「病死したほうの、俺の母親」
そんな揶揄した言い方で答えた。克美と同じ頃に身篭った翠は心友の克美を頼って信州で出産し、そのまま藪の許で残りの人生を闘病して過ごしたことまでは知っていた。翠は芳音に、望という双子の姉に近い存在を与え、そのまま信州で最期を迎えた。
遺された穂高と克美が、望と自分をばらばらにした。翠や望の話が出るたびに、そんな恨みが言葉の端々に出てしまう。いつからか、望や翠の話も二人の間ではなくなっていた。
今になって翠のことまで話し出したのは、隠して来たことの告白という共通項からだろうと結論づけた。辰巳が消えた理由も解った。翠の件は、恐らく自分と望を引き剥がした理由という名の言い訳だろう。
「翠ママのことも、別にもういい」
芳音は知っていた。本当の理由は穂高とのいざこざにある、と幼い頃の記憶が残っている。当人たちは目撃されていたなどとは露ほども思っていないだろうけれど。
「今更全部話されたところで、なんにも変わりやしないし」
「翠の遺した形見で、初めて辰巳が死んでいたことを知ったんだ」
芳音の言葉と克美の言葉が重なった。閉め掛けた鉄の扉が、その動きをぴたりと止めた。克美のほうへ振り返る自分の首が、油の切れたブリキのようにぎこちない。
「今……なんつった?」
克美が知らないことを、なぜ翠が知っていたのかということよりも。どうして翠がそんな形見を敢えて克美に遺したのかという疑問よりも。
「いないんだよ、もう。辰巳は本当に死んだんだ」
克美が、なぜ知っているのに生きていると言い続けて笑って過ごしていたのかが解らなかった。
「あの時が一番キツかったなあ」
振り向いた先で、棚を所狭しと陣取る段ボール箱たちに向かって克美が懐かしげに呟いた。
「翠が“計画”のスイッチだったんだ、って知って」
彷徨っていた見上げる視線が、一つの箱の前に固定された。
「翠が遺したノートパソコンに、辰巳が死んだ、って日記の形で遺されていて」
鉄の扉が音を立てて閉まる。克美の視線が一度その箱から逸れ、扉のほうへ向けられた。少し嬉しげな彼女の微笑が、芳音に負けを認めさせた。
「どれだよ。取ってやる」
荒っぽく克美の腕を引いて棚の前から退かせたとき、初めて気が付いた。いつの間にか克美と頭一つ分も背丈に差がついていたこと。
「落書き帳って書いてある箱」
「計画って、なんだよ。それに、なんで生きてるなんて嘘なんかついてたんだよ」
箱を取る間だけでも視線を合わせなくて済む。その間に答えてくれることを願って素直に尋ねた。
「自分をそう騙してないと、生きていけそうになかったから」
だから、生きていると言葉にし続けたと克美は言った。
手を伸ばしてずらした段ボール箱は、予想以上に重かった。それを屈んで床に下ろしたが、伏せた顔を上げられない。
「さっきのあの新聞の記事、ガチってこと?」
確認する芳音の問いが震えた。大人の癖に子供みたいな克美がそれを知った瞬間どうなったかを、手に取るように想像ができる。脆いこの人が今も存在している奇跡を初めて実感した。
「うん。だからさ、翠もいなくなって、辰巳もいないって知って、ボクが消えても悲しむ人はもういないなあ、とか思ってさ」
向こうで迎えてくれる人のほうが多くなっちゃった。克美はそんなつまらないジョークを言って、嗤った。
「そのとき死んでおけばよかったじゃん」
綺麗ごとの理想論など吐く気にはなれなかった。望と引き離されたときに感じた虚脱感が、克美のそれと重なった。
「でも、生きたかったんだ」
頭上から声が降る。この倉庫へ入ってから、初めて生気を感じる力強い声だった。
「だってそのとき初めて、おまえがボクのために、小さな手でコーヒーを淹れてくれたんだもの」
生きる理由の意外さに驚き、芳音は思わず顔を上げた。
「……俺?」
返す言葉を紡げたのは、克美が自分ではなく鉄の扉を見つめていたお陰だ。懐かしげな瞳で、克美だけに見えているかのように、扉の随分低い位置へ視線を注いでいた。それが少しずつ上がっていって、腰より低い位置でぴたりと止まった。
「コーヒー豆をそのままカップに入れてさ。そこにお湯を注いで、インスタントコーヒーみたいな感じで」
克美がくすりと小さく笑う。同時に大きな吊り目の端から、また新たな一筋が零れた。
「“ママ、これ、飲んで? 笑って?”」
克美が扉を見つめたまま、口真似とばかりに声を裏返す。克美をママと呼んでいた自分が想像できず、頬が妙に熱くなった。
「芳音ってば、すげえ必死なの。必死な顔して……笑ったんだ。ぼとぼとのおむつで重かっただろうに。春先の寒い時期だったのにさ、すんごい汗だくになって、おでこに髪が張りついててさ。そのとき初めてここへの階段を上ったんだよ、おまえ。たった独りで。泣きもせずに。そのときのボクは、おまえから泣く余裕さえ奪うような、バカな母親だったんだ」
克美の視線が再びゆるりとこちらへ戻って来る。気取られるのがはばかられ、芳音は克美の動きに合わせる格好で俯いた。
「生きたいと思ったんだ。……芳音、おまえと一緒に。おまえがいるから、笑って来れた」
言葉とともに、温もりが被さる。屈んでいたせいで逃げ損ねたと思いたい自分がいる。
「芳音、大好き」
甘えた声は昔と少しも変わらない。芳音の耳許をくすぐり、むず痒くさせる。
「おまえがいるから、ボクは辰巳の死を受け容れられた。あの瞬間、辰巳の子だからとか、そういうんじゃなくて、おまえそのものっていう存在が、すごく……嬉しくて」
切々と訴えるその声が、芳音の引き剥がそうとする手の動きを封じた。
「芳音に本当の辰巳を知って欲しい。本当は、ずっとそう思っていたんだ」
克美の涙が、髪をとおして芳音の頭皮まで湿らせる。泣かせたのが辰巳なのか自分なのか解らないまま、奇妙な罪悪感に囚われた。
「……この箱ン中を見ればいいんだろう」
溜息混じりで降参を口にすると、ようやく克美から解放された。
「うん。でも、ここにあるすべてが、十六年掛けて辰巳がして来たこと」
克美は一人立ち上がると、ぐるりと周囲を見渡した。
「裏稼業は生活のため、サ店はボクに社会と関わり続けて普通の暮らしをさせるため。そして……芳音、おまえのため、だと思うんだ」
仰ぐ恰好で彼女の言葉を聞いていた芳音も、釣られたように立ち上がった。
「裏稼業とか計画とか、辰巳って結局、何者?」
膨大な資料を見るより、訊いたほうが早いと思ったのだけれど。
「ゆっくり、辰巳のして来たことを見たらいい。そしたら、この中からきっと辰巳がどんな人だったか解るから。計画のことも、なぜ今まで芳音に話せなかったかも、芳音ならきっと解るから」
克美は「やっぱりボクには巧く話せないから」と言い残し、先に部屋へ戻っていった。




