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第二十九章 懐古の章 1

 ――芳音かのん、お前に教えてあげる。辰巳とボクの、長くて短い十七年――。




 駅前通から少し外れた小路のビルの一角で、隠れるように営まれているレトロな雰囲気の喫茶店。木目調の看板に白いフラクトゥーアの文字で書かれた『Canon』という名のこの店を、芳音はいつからか嫌いになっていた。店だけではなく、浮世離れした変わり者の母のこともいろんな理由で苦手になった。

 生きているかどうかも解らない“辰巳”を待って十六年。芳音が生まれた時、既に辰巳はいなかった。自分の父親なのに、その姿を見たことがない。写真の一枚もない、克美や彼を知るごく一部の人からだけしか垣間見る事の出来ない、実体のない父。幼い頃はそれが普通だと思っていた。周囲の大人も、最初こそ

「芳音君のパパは、お仕事で海外出張ですって。早く帰って来るといいわよね」

 と当たりよく疑問に答えていたが、その内その問いをはぐらかすようになっていった。

 いつからだろう。単純に、自分と克美は、ただ単に辰巳から捨てられた存在なのだと思い至り、その問いや存在そのものを心の中で握り潰して見ないようになった。

 あれからよくない方に世の中は変わった。喫茶店だけでは生活出来ず、克美は、ショットバーに切り替える形で営業時間を延ばし、遅くまで働く毎日だった。水商売の店と自分の名前が同じというのも、芳音の嫌いなものの一つだった。そんな所に帰るのが嫌で、いつも必ず愛美の家に寄り、『Canon』がバーの時間になるまで時間を潰した。そうすれば、克美が話し掛けて来る暇などないから余計なことを聞かれずに済む。だから、まだ学校をサボリ気味にしていることも今のところはばれていない。

「マナママが母さんだったらよかったのに」

 芳音は今日も愛美に同じ愚痴を零していた。いつもは苦笑しながら聞き流す彼女が、今日は少し違っていた。

「芳音は何も知らないからそんな風に考えちゃうのよ。克美ちゃんもそろそろちゃんと話せばいいのにね。のろけ話しかしないから、芳音も呆れちゃうのよね」

 彼女はいつもの苦笑だけでなく、克美の肩を持つ言葉もつけ足した。

(まあ、しょうがないか。母さんとマナママは幼馴染なんだから)

 大人の愛美が、子供の自分よりも克美の肩を持つのは、当然と言えば当然だ。だが結局気持ちが理屈についていけず、否定の言葉が出てしまった。

「どうせ俺のことには無関心に決まってるって。男と店と金のことで頭がいっぱいなんだから」

 愛美が焼いた誕生祝いのケーキを摘まみつつ嫌味を放つ。直接克美に言えない文句を、八つ当たりとばかりに愛美へ零した。

「夏の進路相談の時も、東京の学校へ行きたいって言ったら高橋先生の前で『却下』、それで終わりだぜ? 勝手にその場から帰っちまうしさ。こっちの意見なんか全然聞きやしない」

「東京……芳音、ここから出ようと思ってるの?」

「だって、こんな田舎じゃなんにもしたいこととか見つけようがないじゃんか」

 そう答える時に、愛美と視線があった。

「……本当に、それだけが理由?」

 探る瞳に射抜かれ、言葉を呑んだ。とにかく情報やモノに溢れている都会へ出て自分のしたい何かを探したい、と思っているのは事実だ。だが少なからず「克美から少しでも離れたい」という理由も確かにあった。進学が理由ならば仕方がないと克美が自分を手離してくれるのではないか。そう考えていたことを愛美に見抜かれたような錯覚に陥った。

「最近、克美ちゃんの夜食を作らなくなったんですってね。一緒にご飯も食べなくなった、って。克美ちゃん、最近芳音が何も話してくれなくなったって、すごく心配してるわよ。進路のこと、ちゃんと克美ちゃんと話し合ってから先生にお話したの?」

 愛美の責める口調にカチンと来た。自分を理解してくれる人がどこにもいない。いつも燻るやり場のない苛立ち。母が嫌いな訳ではない、苦手なだけだ。その理由を母親でさえ――いや、母親というより“辰巳の妻”だからこそ、理解が出来ないでいるのだろう。そんな苛立ちがそういう形でしか出せない自分のことさえ嫌いだった。ずっと克美や自分を傍で見ていた愛美なら解ってくれると思ったのに。

「大体さ、そんなに俺がうざいなら最初から生まなきゃよかったのに」

 理解されない腹立たしさが、憎まれ口となってついて出た。

「こっちだって好きで生まれて来た訳じゃ」

 ない、と最後まで言い切る前に、刺すような激痛が頬に走った。一瞬耳まで聞こえなくなった。愛美の平手が芳音の頬から耳を掛けて打ったと認識するまで、少し時間が掛かってしまった。彼女が芳音に手を挙げたのは、十五年生きて来て初めてだ。信じられない気持ちが認識を遅らせ、芳音の目を見開かせた。

「言っていいことと悪いことがあるわよ」

 呟く声が、震えていた。

「克美ちゃんがどれだけあなたを望んで生んだのかも、過去のことも……何も知らない癖に、そんな生意気を言うんじゃないの」

 いつも穏やかでマシュマロみたいな笑みを湛えている愛美が、眉間に深い皺を刻んでいた。口をへの字に固く結び、目には涙さえ浮かべている。そんな彼女を見るのも初めてだった。同時に、愛美が「何も知らない」という言葉を繰り返したことが、妙に引っ掛かった。

「……言い過ぎた。ごめん」

 言われてみれば、本当に辰巳や克美の昔を自分は何一つ知らされていない。

「……マナママは、知ってるんだ。本当のこと」

 芳音は謝罪とともに、素直な気持ちを口にした。

「本当は母さん、辰巳に捨てられたんだろう? 俺、調べて知ってるんだ。母さんが言ってた会社なんてなかったじゃん。あいつ、調べもしないでいつまで馬鹿みたいに信じて待ってるつもりなんだよ。何か知ってるなら教えてよ。笑って信じてる母さんを見るの……結構、キツいんだ」

 克美にそんなことを言えるはずがなく。やり切れない鬱憤だけが、日に日に芳音の中で積もっていた。いつも豪快な笑い声で明るく振舞う癖に、不意に遠くを見つめて呆ける瞬間がある。それがいつも芳音を不安にさせた。自分がいるせいで無理をして生きているのではないか。これまでいい話もあったのに、結局四十路を越えた今でも独身なのは、不義理な男の息子がいるからだ。そう思い至って以来、自分を落としていった辰巳を心の中でなじっていた。だがその実体が芳音の中に一つもない。気づけばいつの頃からか、克美に冷たく接する自分が出来上がっていた。

 愛美は、涙を拭っていつものように微笑んだ。

「よかった。芳音が芳音のままで」

 彼女は昔からするように、芳音の頭を一撫でした。

「それは、私から話していいことじゃないと思う。ちゃんと克美ちゃん自身から、辰巳さんのことを聞きなさい」

 それに克美自身のこともとつけ加え、彼女は電話を手に取った。克美としばらく話して電話を終えると、彼女は芳音に向き直って克美からの伝言を口にした。

「一階上の倉庫にいらっしゃい、ですって」

 上の階が倉庫だとは知っていた。だが、そこを借りていたことは初耳だった。

「上も借りていたのか? だから金が足りなくなるんじゃん」

 思わずついた溜息が、愛美の苦笑を誘っていた。




 芳音は克美が倉庫へ呼んだ理由を、さほど重く受け留めていたわけではなかった。どうせ店が忙しい。恐らく倉庫に一通りの指示がメモにでもして置いてあって、自分で勝手に動けとでも言うのだろう。その程度に捉えていた。

(荷物が邪魔だし、着替えてから行くか)

 芳音は頭の中で段取りを終えると、店の奥にある居室へ向かうつもりで『Canon』の重い扉を開けた。

「あれ?」

 店から通路へ漏れていた光は店内の照明ではなかった。向かいのビルに設置されたネオンが無人の店内に派手な光を撒き散らしていた。今夜は店を閉めたらしい。御用納めの日でもあるし、この時期は忘年会などで大きな店の方が客の入りが多い。家みたいな小さな店の場合、年末は休業する方が経費の掛からない分赤字が減るくらいだ。

「って、何で俺がンなこと考えてるんだよ」

 まるで自分が店主のようだ。そんな自分に気づいて鼻で笑った。『Canon』なんて、大嫌いなはずなのに。

「ばっかみてぇ」

 自嘲の声が、小さく漏れた。


 着替えを済ませてから、いつもの習慣で洗面台に向かって手を洗う。顔を上げると鏡に映った自分と目が合った。

「見事なまでに、似てないな」

 一見年より大人びて見える面長の顔。醒めた瞳が「人を見下している」と先輩や大人に理不尽な因縁をつけられてしまう不遜な顔。この面差しは恐らく父親似なのだろう。しかし、それを認識出来る物が一切ない環境で暮らして来た芳音には、実感のしようがなかった。仮に実感出来たとしても、それは好ましい感覚ではない。母を捨てた男に似ていて、何が嬉しいものかと思う。

「くそっ」

 鏡に向かって、両手に貯めた水をぶちまけた。

「うわ、つべてっ」

 容赦なく跳ね返って来た冷たい水飛沫をまともにくらい、余計に苛立ちが増した。ゆがんだ鏡に映る、ゆがんだ自分。腹立たしさがピークに達し、握り拳で鏡を殴る。

「いでっ! ……どちくしょうめっ!」

 何をしてもコミカルになる自分が、悔しくてどうしようもなかった。見た目と中身が違い過ぎることも、非力な子供であることも、いろんな意味で悔しかった。


 だるい気分で階段を上る。初めて上階に足を踏み入れた。そこは、鉄の扉が殺風景に並ぶ倉庫のフロアになっていて、その内の一つが少しだけ開いていた。微かに漏れる光の筋が、芳音を誘うように伸びている。その灯りに導かれて扉の隙間からそっと中を覗いてみた。

(いるし)

 克美がモニターに映る何かを懐かしげに眺め、画面に語り掛けていた。

「辰巳、芳音が今日で十五歳になったよ」

 呟くと同時に寂しげに微笑む。母の白い頬に一筋の雫が伝い落ちた。

(……母さん?)

 いつでも高らかでがさつな笑い方をする母しか芳音は知らない。お客からは「克美ちゃんはいつも元気でいいよねえ」と言われてばかりいる。サラリーマンの愚痴を聞いては、笑い飛ばして激励する姿しか見たことがない。のろけ話をする時は平気で辰巳の名前を口にして、彼の不在を気に病む素振りなど見せたこともない。

『逃げられたんじゃないの?』

『生きてるのかな、裏稼業もやってたし』

 古参の常連客から零れる口説き文句を断る度に、そんな辛辣なことを言われていた。それでも克美は、へらへらと笑ってやり過ごしていた。

『芳音がいるんだから、絶対帰って来るってば』

『辰巳がそんな簡単に死ぬ訳ないじゃん』

 自信満々にそう答え、平気な顔をして笑っていた。

 それが芳音の知る克美だった。何も知らず、知ろうともせず、ずっと辰巳の帰りを信じて待ち続けている、馬鹿なお人好しだと思っていた。

(何で今更泣くんだよ……)

 初めて克美の涙を見た。ドアノブを握る拳に余計な力が入る。乱暴に開けた扉が壁に当たってバタンと派手な音を立てた。

「馬鹿じゃねえの。泣くくらいなら、もっと早くに高橋先生でも北木さんでも、プロポーズしてくれた人と結婚してたらよかったじゃんかっ」

 何度も言って来た言葉を、腹立たしげに叫んでいた。まるで自分が泣かせたような感覚に支配される。自分のせいで逃した幸せだと、その涙に責められたようで腹立たしかった。そんな我慢を望んだことなど一度もないと母に解って欲しい。それが巧く言えなくて、乱暴な言葉で克美を責めた。

「母さんを泣かしてばっくれた奴なんて、俺は親父だなんて認めないからな。いい加減に忘れろよっ」

 克美の瞳が大きく見開く。そのわずかな動きが、新たな一筋を彼女の頬に伝わせた。

「俺は辰巳に似ているんだろう! このツラのせいで嫌でも思い出すっていうなら、東京への進学を反対しなきゃよかったじゃんかっ。奨学金でどうにかなるんだから、俺にとっても母さんにとってもその方が都合がよかったはずなのに、何を今さらご立派な母親ぶってんだよっ」

 その言葉に嘘はない。言ったことが間違いだとも思っていない。けれど。

「……ごめんな、芳音。母親失格だ、ボクは」

 見開いていた克美の瞳が、悲しいくらいに遠くを見た。彼女のあまりにも儚げな微笑が、芳音の憤りを別のものとすり替えた。

「な……に、俺なんかに謝ってんだよ」

 変わって滑り込んで来たのは、罪悪感。芳音は、自分の言葉が母を口説いた常連客達と同じ、心ない発言だったと気がついた。浮かべていた辰巳に対する恨み言は、強張った唇から出すことが叶わなかった。

「ボクが何もお前に話さなかったから……結局ボクも、辰巳と同じことをお前にしちゃってたんだな」

 いつもなら負けじと食って掛かって来そうな口汚い暴言を吐いたのに。逆に頭を下げて謝られてしまった。

「辰巳のことは、お前が小さな内は話せなかったんだ。お前にまで危険が及ぶから。……もう、子供じゃないよな。黙ってて、ごめん」

 克美は意味ありげな理由を口にし、下げた頭をゆっくりと上げた。その顔がまっすぐ芳音に向く。

(え……?)

 咄嗟に数回目を瞬かせる。克美が一瞬、自分とそう年の変わらない少女に見えた。

「何から話そうか。……そうだな、辰巳がボクのなんなのか、から話そうか」

 克美は涙を拭ってそう言うと、芳音の手を取り椅子へと促した。

「教えてあげる。辰巳とボクの、長くて短い十七年」

 彼女はそう言って一枚の黄ばんだ書類をファイルから取り出した。

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