第二十一章 最後の依頼 1
――隠すことが必ずしも信じていないということではないよ。傷つけたくないからこそ、隠してしまうこともある。出逢ったことを悔やんで欲しくないというエゴが理由の時もある。それでも本当に知りたいの?
――当然。今の俺には、傷ついてる暇も、後悔している暇もありませんよ。
嘘の上塗りを繰り返した夜。ようやく克美が安心し切った寝顔を見せたのは、身も心も疲れ切った深夜になってからだった。
彼女の小指と絡めた右手の小指が、痛い。
「じゃあ、約束して。もう東京の依頼は請けない、って」
克美の目の前で高木に電話をさせられた。
「依頼拒否の理由、ですか? んー、ぶっちゃけ、アレです。克美とデキちゃいましたー。もう東京に行くなって泣きつかれまして」
『……口振りからして、克美くんがその場にいる、ということだな? おまえの真意がどちらにあるにせよ、こちらは元々手を引けと言っておいたはずだ。クラッキングさせたデータは早急にこちらへ運べ。人づては厳禁だ』
「えー、イヤでーす」
『きさま……ふざけているのか。何を考えている?』
辰巳は訝る高木に真意が解る言葉を添えつつ、克美の意向をそのまま伝えた。
「だから、そうやって曖昧な返事で引き延ばそうとするのは勘弁してください、ってことです。もう“賽を投げちゃったことだし、今更変える気はありません”よ。データの提供も、だからナシ。克美に危ない仕事は引き受けるなって言われたから、もそっと別の妥協線を提示してくれると助かるんですけど、ダメ?」
賽――それを克美には、辰巳と高木が投げたものとは違う解釈をさせた。
『……理解した。克美くんに替われ』
「え、なんで?」
『あっさり引き下がれば怪しむだろう。こちらから克美くんの説得を試みる』
その後電話を替わった彼女は、何度も彼に謝罪していた。
『高木さん、ごめんね。本当はボクが翠に償わなくちゃいけないことだったんだ。もう辰巳が依頼を引き請ける必要なんかないよね?』
下手な変化は、却って勘の鋭い克美に何かを覚らせると考えたのだろう。高木は克美に「今は仕送りのという小さな次元で依頼をしている訳ではない」と克美の訴えを退けたようだ。
「ねえ、東京では主にどんな依頼をやってるの?」
克美は高木との電話を切ったあと、不安げな声で、だが決して追及の手を緩めない口調で問い質して来た。
「主に盗聴器やカメラの設置と、その操作レクチャー。警察がそれを直接やったら、世論が黙っていないでしょ?」
「だからって、なんで辰巳がやらなくちゃいけないんだよ」
「万が一パクられても、それなら銃刀や殺しで捕まるよりは務めが少なくて済むじゃん?」
信じない克美に嘘の笑みを零す。
「でも、それでも、やだ。……もう東京には行かないでよ」
疑う彼女に、形ばかりの肯定でしかないのに、自信ありげに首を縦に振る。
「そうだな。気長に高木を説得してみるよ。だから克美は心配するな」
嘘で塗り固めた穢れた口で穢れのない克美のそれを封じ、辰巳は彼女をも嘘で穢した。克美は尚も何か言いたげに大きな吊り目をまっすぐ辰巳へ向けて来たが、ついと俯いたきり黙り込んだ。そのあと、今日のところは高木の名を一切口にしなかった。
辰巳は絡めた指を克美の手からそっと抜き取り、音を立てずに自分の部屋へ戻った。
癖で携帯電話を確認すると、不在着信とメールが数件。送信者名を見て腹の底が冷える。記された件名を見て、自分でも血の気が引いていくのが判った。
『送信者名 貴美子嬢/件名 翠の足取りを確認、要連絡』
(しまった……)
翠を駅ではなく来栖の墓がある寺院へ送った。まだ彼女が父親の死を知らないということを、その時は別のこと――計画の始動に意識が向いていたので失念していた。
同じ内容のメールが数件続いている。そのタイムスタンプの間隔が貴美子にしてはかなり短い。何か芳しくない事態が起きていると察せられた。とにかくほかのメールや留守録音を確認するのが先決だった。
『高木さんから例の計画の件を聞いたわ。動くの早過ぎ。雑用を頼んで悪かったわね。穂高からあんたがくぅを駅まで送ってくれるらしいって連絡をもらったわ。あの子達の背中を押してくれてありがとう。駅まで送ってくれたなら、そっちを発ったあとで足取りが消えたんでしょうし、くぅはこっちでなんとか探してみる』
貴美子からのメッセージが、疑いを確信に変えた。続く数十分前に録音されたメッセージが辰巳にとどめを刺した。
『このバカっ! 何考えてんのよ! くぅに父親の死を知らせるなって前から言ってあったでしょう』
嫌な予感が拭えない。もう動き出した計画を止めることは出来ないのに。
辰巳は再び携帯電話のアドレス帳を開き、最も苦手な人物とコンタクトを取った。
『誰だ、こんな夜中に、ああ?』
相変わらずの暴言が辰巳の鼓膜をつんざいた。
「藪ちゃん、夜中にごめんね。ちょっと急ぎで訊きたいことがあるんだけど」
専門分野は精神科だよね――藪にそう確認すると、彼の声音が覚醒したそれに変わった。
『克美か、翠か、どっちだ』
「翠の方です。克美には伏せておきたいんで、明日、時間をもらえますか」
藪からの快諾を確認して通話を切ると、また背筋に寒気が走った。
翌日、克美には藪から雑用を頼まれたと言って出掛け、足早に彼の診療所へ向かった。状況の説明をして幾つかの可能性を示唆されたところで、結局翠の足取りを追えそうなネタを見出すことは出来なかった。
その夜、貴美子からメールが届いた。
『無事帰宅。穂高があんたとコンタクトを取りたいとのこと。拒否は認めない。自分で落とし前をつけなさい』
安西穂高。渡部薬品という、一流企業の癖に未だ血族会社として古い体質で、経済界では傾き掛けていると噂されている企業がある。彼はそこの唯一の後継者らしいが、かつて後継に付随したお家騒動の末に傷害事件を重した若造だ。辰巳はそんな穂高に未だあまりいい印象を抱けない。翠が心の支えにしているという彼が、なんの用事で自分を訪ねようとしているのかは明らかだった。
「……資料のプリントアウトをしとかないとな」
前のは翠にすべて破られてしまった。藪の見地から考えるに、中途半端な開示では後々自分が気に病む事態を招くことになりそうだ。
「彼はどこまで本気で翠ちゃんを守れるつもりでいるのかな」
やるなら徹底的に。相手は男だ、弱者じゃない。恋などという一過性の熱病如きで、克美とリンクしている翠を潰させるわけにはいかなかった。
辰巳は事務所の最奥に隠した盗聴盗撮関係の資料が入った箱を取り出した。
そう間を空けずに穂高から接触があるだろうとは思っていたが、まさか元旦早々とは思わなかった。あれから一週間しか経っていない。
辰巳が部屋で店の現況図面を探していると、携帯電話が着信を告げた。すぐに取れなかったことが災いし、気づいた克美が取ってしまった。
「はいはーい、海藤でっす。どちらさま?」
「あ、こらっ」
慌てて克美の隣へ駆け寄り、電話を取ろうとしたが、彼女が手許にあったメモ帳へ殴り書きをした。
『高木さんかと思ったら違った』
まだ信用し切っていないとその文面が語っていた。怒った素振りで本音を隠す。辰巳は無言で電話を寄越せと右手を差し出して眉をひそめた。
「安西、さん? ……所長って、辰巳のこと?」
克美のその一言が部屋の空気を不穏に変える。辰巳は急いでメモに内訳を書き、それを彼女に指し示した。
『店のリフォームを頼んだ業者。代わって』
「は? リフォーム? 改装するの? なんで?」
マイクを押さえて詰め寄る克美に、端的でありながら彼女が納得しそうな答えを探して説明した。
「二重家賃じゃもったいないでしょう。向こうの事務所を居室にするの」
「え、でもなんでも屋の方はどうすんのさ」
「あとでちゃんと話すから。無理言って今日来てもらったんだ。まずはアチラ優先」
克美の表情が、プレゼントや手土産を焦らした時に見せていた幼い頃を思い出させる、期待に満ちた表情に変わった。そんな彼女の頭をくしゃりと撫でて、そのまま回れ右をさせる。彼女は手を翳して御意の合図を送ると、辰巳の部屋から出て行った。
リビングから掃除機の音が聞こえるのを確認すると、辰巳はようやく電話に出た。
「お電話代わりました。穂高クンだね? 貴美子嬢から話は聞いてるよ」
後手を取った口惜しさを抑えようと、過剰なまでに愛想のいい営業トークが口から出た。
『新年早々すみま――。今しか翠に知られ――とが出来なかったんで』
途切れがちの電波で、巧く話を聞き取れない。彼の人柄を探ろうにも、これでは巧く掴めなかった。
『――いしたいんですけど、今からお時間を――出来ますか』
「……今、キミどこにいるの? 電波がぶっつぶつなんだけど」
半ば失望をあからさまにした声でそう問い掛ける。貴美子の下についている割に、配慮を欠いた愚鈍な人物という印象が辰巳の中に出来始めていた。普通であれば営業ならば、確実な場所を確保した上で連絡をするものだろう。
『あずさに――移動中――』
剣呑な口調が返って来た。そしてその内容に軽く驚かされた。
「あずさ? もしかして、もうこっちへ向かっているってこと?」
『はい。時間が――事後になってすみませんが』
(行動が早いというか、イノシシっつうか……一秒さえも惜しいといったところ、かな)
その青臭さに苦笑が漏れる。妙に懐かしい気分にさせられた。
『彼女が出るとは思いませんでした』
続けざまに咎める声が、辰巳の眉をひそめさせた。彼の言葉一つ一つが、敬語でありながら、どこか怖い物知らずな態度の大きさを感じさせる。
「あ~、ごめんねぇ。あの子が傍にいる時は迂闊に出られないから、そういう形で今は喋れないってアピってんの。貴美子嬢や翠ちゃんの名前を出さないでくれて助かったよ。こっちに都合の選択肢がないってのは、それで相殺にしてあげる」
電波越しでも伝わって来る臨戦態勢に、小馬鹿にした苦笑を混じえてそう返す。そこですぐ感情的になるなら、その程度の男だと次の対応をすればいい。
『助かります。あと半時間ほどで松本駅に着く予定ですが、どうさせてもらったらいいでしょう』
ぼんぼんの割にはへりくだることも知っている。そこに少しばかりの期待が湧いた。
「んじゃ、克美を迎えに行かせるから、タクシー乗り場付近で待っていて。多分、初対面のキミでもすぐ判ると思うよ」
彼はそれだけで納得して電話を切った。それが翠を介して克美のことも認識していると告げていた。あのあからさまな敵愾心から推測するに、恐らく自分の正体や、克美と翠との関わりも聞いているのだろう。
「やっぱり穂高クンの訊きたいことは」
まだツキリと胸が痛む。最悪のケースに至った場合に自分が採ろうとしているその選択に、罪の意識がまったくないとは言い切れなかった。
「克美ー。頼みがあるんだけど」
辰巳は湧いた一時の感情を切り捨て、大きな声で克美を呼んだ。
迎えを頼んだ克美に案内されてリビングに顔を見せた穂高を見た瞬間、辰巳は言葉を失った。
「……お世話になります。お電話差し上げました、安西と申します」
名刺を取り出そうとした彼の手も、一瞬だけぴたりと止まった。妙な間は恐らく同じ驚きを感じた所為だろう。
彼はあまりにも辰巳の若い頃と似ている風貌だった。違いと言えば、一般企業に勤めるサラリーマンらしい落ち着いた色合いのスーツという嗜好と、同じ年頃の自分に比べ、遥かにぬるくて甘い世界で生きて来たと感じさせる「一般人」特有の瞳の明るさくらいだった。彼のナチュラルブラウンの髪に、懐かしさと混じって別の感情が入り混じる。それが嫉妬だと自覚してようやく我に返った。
「無理言ってごめんね。いらっしゃい」
ぎこちない笑みを浮かべて頭を下げる彼を、やはり苦笑を浮かべながらソファへと促した。
克美がキッチンでコーヒーを淹れている間、穂高とは事務所の改築についての話をした。
(あの、カモフラージュではなくて、本当に改築をするつもりなんですか?)
克美に気取られぬよう、彼がそっと耳打ちをして来た。図面から顔を上げて彼を見れば、心底呆れた表情が辰巳を迎えた。
(だって、そうしないと嘘つきになっちゃうもん)
(意外と頭の固い人なんですね)
彼は苛立ちをあからさまにした口調で挑発して来た。本題に入れない焦れったさを遠回しに辰巳へ伝えて来る。
まあ、及第点、かな――それが辰巳の下した穂高への評価だった。
克美にオフレコということで伝えてあった機転に対する柔軟なアドリブが出来る適応性に加え、打ち合わせを介して彼の人となりを肯定的な意味合いで粗方把握した。トラブルを多岐にわたって想定出来る洞察力と、それに対応するバリエーションの多さが柔軟性を表している。一応人の意向を聞く耳もあると思われた。
「やっぱ狭過ぎるかあ。じゃあ、隣の空きテナントを買い取ったら水周りを増設出来る?」
克美の気配を感じ、話を改築の話題へ戻すと、彼もまた尖った表情を緩めて図面へ視線を落とした。
「コーヒー、よかったらどうぞ」
そう言ってソーサーを持つ克美の手が、ほんの少し震えていた。
「あのね、安西さん。興研設計に友達がいるんだけど、知ってるかな」
顔を上げて彼女を見れば、思い詰めた顔をして穂高をじっと直視している。一方の穂高は、営業的な顔が一瞬崩れた。
(まずい)
「克美」
辰巳は呼び掛ける形で彼女の視線を穂高から外させた。なぜ彼女が穂高の勤務先を知っているのかも同時におよその見当がついた。
「興研設計って言っても、百人以上の社員がいるんだから、穂高クンが知っているとは限らないよ。それに彼はまだ勤続年数が短いし。名刺を戴いたのなら、彼の肩書きを見てごらん」
辰巳がそう促すと、克美はポケットからそれを取り出した。
「室長補佐……貴美子さんの方、だったのか」
俯いたまま上がらない彼女の顔を長い黒髪が隠す。くすりと小さな笑いが彼女の唇から漏れた。乾いたそれが辰巳の顔をゆがませる。
何を思ったか、そんな彼女に突然穂高が挑発的な言葉を掛けた。
「あの鬼室長と友達なんですか? 道理で」
そう言って鼻で笑ってわざと言葉を濁す。いかにも馬鹿にしていると感じさせる辺りに、何かしらの意図が感じられた。
「道理で、なんだよ」
湿った空気ががらりと変わった。白黒はっきりしないと気になる克美の気性を、彼はこんなわずかな時間で見切ったとでもいうのだろうか。
「自己紹介の隙も与えないマシンガントーク。我を通す久我とよく似てるな、と思って」
くつくつと笑いながら皮肉る不遜な態度が克美の逆鱗に触れ、彼女にまとわりついていた物憂げな雰囲気がいつものハイテンションに取って変わった。
「貴美子さんを悪く言うなっ。ボクにとっては姉貴みたいな大事な人なんだから。っていうかマシンガントークってなんだよ。ボク、自分ばっか喋っちゃってたのは謝ったし、そのあとはちゃんと普通だったじゃんかっ」
「どこが」
「ど……っ、お、お前、お客に対して失礼だぞっ。だから貴美子さんにこうやって正月早々の物件とかあてがわれてスパルタ教育なんかされてるんだっ」
「海藤さんは久我の大事なお客さまだと伺ってます。自分としては仕事の面については上司の信頼を得ていると解釈してるんですが。それに、お客はこちらのお兄さまであって、あなたと違うでしょう?」
克美が完全に呑まれている。場違いと思いつつ、噛み殺した笑いを抑え切れなかった。
「む……むかつくっ! お前なんか大っ嫌いだっ!」
克美は負け犬の遠吠えよろしくそれだけ吐き出すと、乱暴にリビングの扉を閉めて自室にこもってしまった。
ほんの数秒、静寂が部屋を満たした。
「義妹さん、翠の状況は把握していたんですね。名刺を渡した迂闊さはお詫びしておきますよ」
穂高の目つきが途端に変わった。せわしなく小刻みに揺らされていた膝の動きがぴたりと止まる。
「いや、詫びる必要はないよ。それにしても、意外と洞察力があるんだね、キミ。克美のお喋りをああいう形で止めるとは思わなかった」
克美の淹れた少し薄めのコーヒーが、今の辰巳には丁度よい。味わうというよりも喉を潤す感覚でこくりと多めを口にした。
「翠ちゃんからキミのことは、ちょっとだけ聞いた。彼女にやっと支えてくれる存在が出来たんだな、ってほっとしたんだ。これで克美も俺も、赦される。会いに来ると笑って言ってくれたことが何よりの救いだったんだけど」
そろそろ本題に入ってやろう。
「なのに、彼女ではなく、キミが来た」
挑む強い視線でまっすぐ見据えて来る穂高に対し、辰巳もようやくまともに視線を向けた。
「キミの欲しがっている情報をあげる前に、彼女に何があったのかを先に話してもらおうか」
辰巳は上っ面の笑みを完全に消し去った。




