第十四章 アダムの混沌 1
――昔々の聖書の話。
イブは悪い蛇にそそのかされて、アダムと一緒に禁断の実を食べました。
二人は自分達が裸であることが急に恥ずかしくなり、イチジクの葉をつけるようになりました。
その姿を見た神様は、二人が禁断の実を食べたと判り、二人をエデンの園から追放しました。
二人が食べた木の実は、アダムの喉に詰まって喉仏となり、またイブの乳房になったと言われています
その禁断の実の名は『林檎』と伝えられています――。
辰巳は通話主との電話を終えると、詰めていた息を吐き捨てた。
「こんなことなら牧瀬の依頼なんか引き受けるんじゃあなかったな」
オープンカフェで楽しげに談笑している牧瀬と克也へ視線を据えたまま、恨み言まで吐き捨てる。道を挟んだ反対車線でバイクにまたがったまま様子を見ていたが、たった今高木から入った案件の為にこの場を離れざるを得ない状況になった。
(身体が二つあればよかったのに)
そんな無意味な繰り言ばかりが廻っていた。
「あっ! あのヤロ、何触ってんだ、調子こき過ぎっ!」
咄嗟に身を浮かせたのは、牧瀬が克也の頬に触れた所為だ。またたわしでこすって顔まで傷つけるのではないか。克也のそんな後々のことを考えると、ほかに手がなかったとは言え、この案件に彼女を絡ませたことが悔やまれた。
一瞬だけ克也と視線が合った。次の瞬間、彼女は立ち上がったかと思うと牧瀬の腕を自分から取り、逃げるようにカフェを走り去ってしまった。
「……何、それ」
ハンズフリーのマイクに呟いてみても、辰巳に答えるものはいなかった。
「ま、いっか」
周辺に怪しげな人物は見受けられなかった。今日のところは大丈夫だろうと、半ば無理やり自分へ諭す。牧瀬潤の今夜の予定は、確かまた合コンだったはずだ。克也がいつまでも引きずり回される心配もないだろう。辰巳は彼らの追跡を諦め、自宅へとバイクを走らせた。
アパートへ戻ってパソコンの電源を入れる。メールが数件、いずれも警視庁のドメインで送られていた。串を通してそのサーバーを手早くクラックし、高木からの指示どおり、データを脳内へ叩き込んだ。携帯は既に高木の私用番号を呼び出している。
『終わったか』
「状況、把握。まったく警視正殿のご立派な嗅覚には頭が下がります」
軽い嫌味を言い放つ。久々に感じる高木への敗北感が、棘のある言葉を紡がせていた。
『そう拗ねるな。こっちも牧瀬の周辺を洗っていたらお前の名前が引っ掛かって驚かされた。イーブンということにしておいてやる』
その口振りがあまりにも優越感に満ちていたので、考えるより先に無駄口が先に出た。
「高木さん、イーブンっていう口調が思い切り上目線ですけど」
『本題に入るぞ』
今日はよく逃げられる日だ。克也といい高木といい。
「はいはい」
という力のない返事とともに、慰めの一本を口に咥えた。
依頼案件は、物証確保。
対象者は、牧瀬良一郎――牧瀬潤の父親だ。医療法人まきば会牧瀬病院院長の肩書きを有している。東京の同会馬場総合病院院長と親密な関係にあるとのこと。馬場総合病院は臓器売買事件に絡んでいるのではと報道されたが、突如不自然な形でマスコミが一斉に口を閉ざした“きな臭い”病院でもあった。
『金の流れを洗っていたら、息子の口座から名義だけとは言え克也君の名前が出て来て肝が冷えたぞ。彼女の存在を彼らに知られていないだろうな』
しらを切らせるつもりはない、と高木の強い語調が辰巳に釘を刺していた。
「潤からのつまんない案件をちょっとばかり手伝ってもらってます。けど、息子の方は無関係でしょう?」
渋々正直に答えた話に、高木が尖った声で想定外の答えを返して来た。
『田舎暮らしで警戒心まで鈍ったか。金の流れを洗ったと言っただろう。この私が、息子の金の流れまで意味なく調べる暇人だとでも思っているのか、貴様は』
一瞬軽い眩暈が襲い、判断力がストップした。高木がそんな段取りの悪い男ではないことは嫌というほど知っている。
「潤の方も事件に絡んでいる、ということですか」
奴の目的は垂らし込むことではなく、臓器を得る為にあんなバカの振りをしている、ということか。
だが、身を浮かせ掛けた辰巳が見えたかと思うほど素早く、高木が間髪入れずに詳細を語った。
『息子自身は絡んでいないが、牧瀬良一郎が食わせ者なので警戒しておくに越したことはないと踏んでいる。お前が請けた初回のストーカーの案件、あれは父親が息子をそそのかして、お前に張りつかせる為だった』
そんな話は初耳だ。携帯を握る手に力がこもり、キチ、と小さな悲鳴を上げる。軋むその音が、余計に辰巳を苛立たせた。
「なんの為に」
『お前の情報を提供することで、息子とその女に五十万ずつの報酬を手渡している。牧瀬のその金の捻出方法は、お前が知る必要はない』
あくまでも上から押しつける高木の口振りに違和を感じる。何を隠しているのか問う前に、高木が一方的に指令を下した。
『調査対象に関する質問は一切なしだ。克也君の情報が裏に回ればどうなるか解っているな。黙って任務を遂行しろ。データ以外の資料は直接そちらへ届ける。空いている日を確保し次第連絡をしろ、以上だ』
人の操り人形などごめんだ。そう思う一方で、高木の理屈は筋が通っていて異論をはさむ余地がない。自発的な行動を許されず『指示される』という状況が屈辱なだけだ。辰巳は自分の凡ミスが原因と自身に言い含め、高木への追及を諦めた。
「またボランティアっすか」
刑事事件関連の場合、潜伏中の立場に置かれている辰巳に報酬は望めない。ささやかな抵抗のつもりでそんな愚痴を高木に零した。
『牧瀬の口座から五百万くらいは目を瞑ってやる。代わりと言ってはなんだが、私の個人的な別件を一つ調べて欲しい』
口調の前半と後半の落差に少しだけ驚いた。
「高木さんが個人的な頼みごとなんて珍しいじゃないですか。そっちは俺の個人的な恩返しってことで相殺にしてあげますよ」
寛大を装う言葉の端々に、どうしても心の中でかたどったガッツポーズが含まれてしまう。「ガキだな」という高木の皮肉を苦笑で軽く受け流した。
『牧瀬潤の方だが、どこかで聞き覚えのある名前なのだ。だが、どうにも思い出せん。私は東京の管轄なので、彼と面識があるとも思えない。彼と何か接点があったのかと、どうにも気になってな』
高木の語ったその気掛かりが、辰巳が密かに抱いていたものと見事なくらい重なった。
「高木さんも?」
『お前もなのか?』
「ええ、まあ。ただ、潤は店の常連なんで、てっきり前の店主繋がりで聞き覚えがあるのかな、と思っていたんですけど」
『お前と共通する案件の人物、という可能性もある訳だな』
そんな二人の会話を切り裂く金切り声が、洗面台の方から突然響いた。
「うがーっ、きしょいっ!」
克也が、いつの間にか帰っていた。
「やば。克也が帰って来ちゃった」
慌てて小声で高木へ知らせる。
『相変わらずこっちの案件にも首を突っ込みたがるのか』
「手伝いたいって気持ちはありがたいんっすけどね。乳離れ出来ない子で困ります」
『……牧瀬潤の件、それに克也君の件も、頼んだぞ。では』
何故か見事にスルーされた気がする。辰巳は一方的に切られた電話を握ったまま、数分ほど「なんで無視?」という疑問に悩まされた。
数日後。克也に取らせた型から作った合鍵を使い、留守を狙って牧瀬家に潜入した。
クラックした電子金庫に収められた極秘資料を見て、高木が過剰に懸念する理由をようやく辰巳も理解した。
「海藤組絡みの案件だったのか」
資料を押収する手許が幾分か狂う。それは海藤に対する恐怖から来る震えなどではない。あの男に肩入れをする存在を、すべて今すぐこの場で処理したい――その衝動を抑える必死さを表していた。
高木が何を意図して今更自分にこの依頼を振って来たのか、辰巳には理解出来なかった。近場の手足なら小磯がいる。何も自分に関わらせる必要などないはずだ。
「まさか今更計画の反古、とか考えてないだろうな、高木」
醒めた瞳が澱んだ色で海藤周一郎の名を見据える。混沌とした感情が、辰巳の中に渦巻いていた。
翌日、辰巳は空港の駐車場で高木の到着を待った。予定どおりの時刻に、見覚えのある風貌をした姿を瞳が捉えた。遠目に見てもすぐ彼だと判る、黒ずくめのスーツ姿で軍人の行進のように背筋をまっすぐ正して近づいて来る。見慣れたと言えば見慣れたその立ち居振る舞いに、辰巳はこっそり溜息をついた。
知ってか知らずか、近づいた彼もまた助手席のドアを開けながら溜息を漏らした。
「昔を知る面々は、確かにお前が海藤辰巳とは思わんよ」
「店を閉める訳にはいかないんで。店仕様の恰好ですみませんね」
克也に野暮用とだけ告げて店を抜け出して来ている。さすがにエプロンは外したが、無精ひげにぼさぼさ頭の伊達眼鏡というみっともない風貌を変える訳にはいかなかった。
「下手に克也に隠してあとで追及されるよりも、店の事務所で打ち合わせる方が確実でしょ。客が克也を引きとめておいてくれますし」
「なるほど。だが、知人扱いは勘弁してくれ」
「ひどい。高木さん、本当は俺のことが嫌いでしょ」
「今頃気づいたか。相変わらず自分のことにはどこまでも鈍感な奴だ」
「……それってもしかしてガチ発言?」
「……」
「無視っすか……」
ランドクルーザーの窓枠に肘を預け、ひらすらに車窓から外を眺める高木が何を考えているのか解らなかった。
からん、と涼やかなドアベルの奏でる音色に、克也の声がクロスする。
「いらっしゃ……高木、さん……」
一瞬見開いた大きな瞳が、ほんの刹那、翳りを帯びた。牧瀬の案件について仔細を彼女に話していない。わざわざ高木が出向くことで、内容の重さを推量したに違いない。
「お邪魔してます」
彼女の憂いに気づいた者が、辰巳のほかにもう一人いた。
「北木クン、いらっしゃい」
彼は二年前に諏訪の会計事務所へ就職したので、諏訪へ引っ越している。その為平日のこの時間帯に店に寄るのは珍しいことだった。意外なお客だと思っていたのが顔に出ていたのか、北木は辰巳が問うよりも早く
「代休を取れたんで、克美ちゃんのコーヒーを淹れる練習とやらにつき合わせてもらってます」
と言って克也の見えない角度から辰巳へ軽く目配せをした。
「あと、依頼をお願いしたかったんですよ。でも僕のは急ぎではないから、克美ちゃんに内容を伝えておいていいですか」
珍しく仕切る物言いで克也の方へ有無を言わせない視線を向ける。依頼そのものが、辰巳と高木から漂う雰囲気を読んで即興で作り上げてくれたものかも知れない。
「ごめんね。あとで克美から聞いておくよ」
大袈裟に両手を顔の前で合わせて感謝と詫びの意を伝える。視界の隅でことの次第を見守っていた高木が小さく会釈した。
「辰巳」
事務所の扉へ手を掛けた辰巳に、克也がためらいがちに声を掛けて来た。
「ん?」
「コーヒー、ボクが淹れようか。打ち合わせなんだろう?」
「私はこれでも、コーヒーにはなかなかうるさいぞ」
そう言って克也を牽制したのは、辰巳ではなく高木だった。
「え、うそ。知らなかった」
「辰巳で八十点というところだな。さて、克也君は何点のコーヒーを味わわせてくれるかな」
あの高木が克也に対して挑発的な笑みを浮かべるなど、想像したこともなかった。恐らく自分も、零れそうなほど大きく見開いた克也と同じくらい、まんまるな目をしているだろう。
「あ」の字をかたどっていた克也の口が、今度は「へ」の字をかたどった。眉根を寄せたかと思うと
「北木さんっ、もういいトコ探しはいらないっ。どこが辰巳ンのと違うか、ちゃんと教えてねっ。解ってんだからな、ホントはもうちょっと濃い方がいいことくらいっ」
と、高木から視線を背け、北木へ八つ当たりのように突っ掛かり出した。
彼が「はいはい」と笑って克也をいなす声を聞くと、二人どちらからともなく苦笑が漏れた。
「確かによい客が自慢の店だな、ここは」
先へ通した高木が事務所の扉をくぐる時、背中越しに辰巳へそう漏らした。
店と事務所を隔てる扉を一度閉めれば、暖かな雰囲気を醸し出す平穏は跡形もなく消えてしまう。
「あなたが五百万“くらい”って軽く言った理由が解りましたよ」
それだけ言えば、高木には判るだろうと踏んでいた。
「やはり、クロか」
一生消えそうにない深い縦皺が高木の眉間に刻まれた。
「子供のパーツまで扱ってる。まったく、『日本が治安のよい法治国家』だなんて、誰が言い出したんでしょうね」
コピーした牧瀬のデータを乱暴にテーブルへ放り出しつつ、変わらぬ嫌味を高木に吐いた。
「例の五百万は、彼の細君が牧瀬に隠れてプールしている金額だ。夫が夫なら妻も妻だ。娘や息子の学資金かと思ったら、自分の息子ほどの男に貢いでいる」
「なんだそりゃ」
「いろんな家庭の事情があるということだろう。細君が臓器売買に関与していない裏は取れた。表仕事から出している生活費をへそくっていたというところだろう」
「じゃ、遠慮なくいただきま」
手渡されたディスクを読み込みながら、手早くそんな打ち合わせをする。その間高木は会話を続けながらもこちらが手渡した資料を睨み続けていた。
彼が資料から視線を上げずに、独語のように呟いた。
「社会的に抹殺されるんだ。生き地獄の方が堪えるだろう。お前が手を汚すような真似はするな」
辰巳のタイプする指先が一瞬止まる。だが、再びモニタへ視線を戻し、タイピングをし続けた。
「それって牧瀬だけじゃなく、海藤の親父にも当てはめろ、ってこと?」
視線はモニタを睨んだまま、そして恐らく高木も資料を見つめたままだろう。部屋が妙な渇いた空気で満ちていくのを肌で感じた。
「お前がもっと器用に親と巧く袂を分けることが出来たら、仮に暴力団と警察の間柄でも、治安維持に協力体制が布ける相手だと評価をしているつもりだが」
高木は言葉を区切り、手にしていた資料をテーブルへ放った。辰巳はその手に乗るまいと、そのままクラッキングを続行する。
「お前は飽くまでも堅気に拘るのか? 今からでも遅くはない。巧く立ち回るという選択肢を自分の中に作ることは出来ないか」
巧く立ち回る――海藤組に戻り、海藤周一郎を引きずり下ろして、自分が頭を執るという選択。
パソコンが、ピー、という解除の音を発した。表示された牧瀬良一郎の口座データを、ワンクリックでソートに入らせる。それから初めて辰巳も高木の方へ視線を上げた。
「あなたの奥さんや加乃を死に損にさせろ、としか聞こえないんですけど。それともあんな世界にまた克也を放り込めって意味ですか」
腹立たしさで語気が荒くなる。今になって、何故そんな負け犬じみた態度をするのか辰巳にはさっぱり理解が出来ない。凝視する辰巳の視線から逃れるように、高木は静かに瞳を閉じた。
「警察の保護を今でも信用出来ない、か」
疲れたように目頭を摘まんで、頑なに表情を読み取らせまいとする。その理由も計りかねた。それが辰巳に不快な表情を作らせた。
「あなたが一番よくご存知でしょうに」
「そう、だな。愚問だった」
パソコンがデータヒットの警笛を鳴らす。辰巳は再び視線をモニタへ移し、自分の架空口座への入金処理を続けた。
「いずれ克也君と離れるつもりであれば、無茶な計画を敢行するより、そういう手もある、と言いたかっただけだ」
いつかまたともに暮らせる日の来る可能性が、生きている限りゼロではない、という言葉は聞こえない振りをした。
「ま、牧瀬良一郎の方は、気が向いたら大人しくしておきますよ」
辰巳はそう言うと同時に、大袈裟なほど大きな音を立ててノートパソコンをバタンと閉じた。




