第十章 喫茶『Canon』創世記 3
学校の話や愛美の生い立ちの話、彼女の両親のことや、克也のちょっとした過去話の中でも無難な世間話程度のことなど。始めは愛美が一方的に話したり問い掛けたりしていただけの会話が、気づけば互いにマシンガントークの応酬を重ねていた。あとになってから気がついた。愛美は一見晃に似ていないハイテンションの子なのに、人の舌を柔らかくほぐすいざない方は、やっぱり父親似だ。克也は彼女のそんなところに、出会ったその日からずっと救われていた。
『――で、パパにちょこっと聞いたんだ。マナにしか相談出来なさそうな悩みごとがあるっぽい、って』
彼女がそう切り出したのは、彼女の父に対する愚痴話に同調して、自分も辰巳の過剰な詮索の愚痴を零した時だった。
『かっちゃんのお兄さん、最近どよ~んとしてるんだって。かっちゃんが何か隠してるっぽい、って。信用してくれないのかって悩んでるみたいだよ』
『……隠してるのは、辰巳の方じゃんか』
そんな漠然とした不安が克也の瞳を潤ませた。
『え、ちょっと、どうしたの?』
『……ボク、死んじゃう病気なのかな……辰巳がなんにも教えてくれないんだ……』
差し出されたハンカチで顔全部を覆いながら、途切れ途切れにようやく話せた。
突然出血したこと。ものすごくおなかと腰が痛くて動けなかったこと。そんな状態が三日近くも続いたのに、辰巳が医者へ行く必要がない、と言ったこと。いきなり痛みも血も退いて驚いたこと。なんだったんだろうと思っていたのさえ忘れた矢先に、また、もっとひどい状態で“それ”が襲って来たこと。
『……ボク、ホントに血がダメなんだ。なのに、どんどん、それの量が増えてって……。死んじゃう病気じゃないとしたら、治らない病気とか、なのかな。辰巳に聞くと、困った顔をして逃げちゃうんだ。そんでここへ来ちゃうんだ。晃さんならボクの病気のことを知ってる、と思って来てるのかな』
愛美まで俯き黙り込んでしまった。いからせた彼女の肩が震え出す。
『マナも……知ってるの? これって、治らない病気なの?』
――……ぶっ。
『ぶ?』
『わぁっはははははははは!!』
『な……っ』
涙を流して笑う愛美に、克也は言葉を失った。すごく真剣に悩んでいたのに。彼女が泣きながら笑うのは、自分を落ち込ませない為の演技かも、と考えないではなかった。だが、あまりにもためらいのない大爆いが長く続いた。克也は知らない内に、両の拳を膝で握り締めていた。
『かっちゃん、生理も知らなかったの?』
『セイリ……?』
問われた瞬間、ぽんと加乃のしかめた笑顔が脳裏を過ぎった。
――セイリだから、今夜はお客を取らなくて済むの。だから公園で遊びましょう。
無人の夜にしか押入れから出られなかった克也に、加乃はそう言って時折外へ連れ出してくれていた。
(これの、ことだったのか)
顔をしかめていた理由も判った。痛かったからだ。なのに加乃は、無理して外へ連れ出してくれていたのだ。そのこともその時初めて知った。
『そう、生命の理、って書いて、生理。女の子が赤ちゃんを生める身体になると、そういうことが月に一度はずっとあるんだよ。おなかに赤ちゃんがいないと赤ちゃんの為のお布団が要らなくなるから、それを身体がおなかの中から自動的に剥がし取って外へ出すの。小学校で教わらなかった?』
『う……ん、ボク、ずっと辰巳から勉強を教わってるだけだから』
言い訳の言葉が滑舌悪く絞り出された。なんだかすごいことを訊いてしまったような気がした。そしてすごく恥ずかしいことを暴露した、という気も。
『なるほどねえ。そりゃ、かっちゃんのお兄さんが逃げる訳だよ。だって、本当のお兄さんじゃないんでしょ?』
『うん、加乃姉さんの婚約者だったから』
『って、ちょっと待って? じゃ、今までどうしてたの?』
さすがに一瞬答えに詰まる。
(でも、これも話さないと、これからどうしたらいいのか教えてはもらえないのか……な?)
勇気を振り絞って口を開くと、吸い込んだ空気が渇いた喉をひりりと刺激した。
『最初ん時は、その場で気を失っちゃって。そんで、次に目が覚めたら、何か、キレイになっていて』
『うそ』
『次ん時は、辰巳にまた心配させちゃいけない、とか、死ぬんじゃないかとか、いろいろ考えちゃって、トイレから出られなくて……』
『なくて?』
『そのまま足が痺れて……便器見たら真っ赤になってて……それ見てまた……』
その恰好のまま卒倒した、と話したら、愛美は抱腹絶倒のあまりのけぞり過ぎて、椅子から転がり落ちた。
『マジーっ!? 信じられない!』
『だって……誰に相談していいのか……わか、んなか……た……』
恥ずかしくて、悔しくて、すごく話したことを後悔した。気づけばまた涙が、ぼたぼたと膝を濡らしていた。
不意に甘い香りが顔全体を包み込む。
『ごめんごめん、笑い過ぎちゃった。馬鹿にしたんじゃないんだよ。なんか、すっごく可愛いな、って』
男の子として育って来たんだもの、無理ないよね、と囁く愛美の声は、どこか姉を思い出させた。
任せて、と言った彼女は、生理用品の種類から、いつどこの店が買い得の日だといった類の情報や、女性の身体のメカニズムについてまで詳しく教えてくれた。不安は次第に取り除かれて、そこを埋めるように宿った思いは、『女性に対する尊敬』の念だった。
『す……ごいね。人を一人、作っちゃうんだ。こんなちっさいお腹の中で』
『そうだよ。マナもかっちゃんも、それにパパやかっちゃんのお兄さんだって、みーんなこんな小さな粒から生まれたんだから』
そう言って鉛筆の先で紙に小さな点をひとつ、コンとつけた。
『ホントは、もっとずっと小さいの。それを抱っこ出来る大きさまで育てるんだから』
愛してなければ出来ないわ、ってママが教えてくれたのよ。そう言った愛美の表情が、中学生とは思えないくらい大人びて見えた。
『ママ? あの、うんと、あれ?』
克也の疑問を解ってくれたらしく、愛美は特に嫌な顔をすることもなく教えてくれた。
『うん、マナを産んで死んでしまったけれどね。録音テープを遺してくれていたの。その中で、そう言ってくれたんだ。だからマナは、ママがいなくても心の中でずっと一緒にいるんだ、って思えたし、生まれて来てよかった、って思えてる……今はね』
つけ足された最後の一言が、語られない愛美の思いを克也に知らせていた。そう思えなかった時期も、きっとあったんだろう――今の自分みたいな気持ち。『自分さえいなかったら』という気持ち。
『だからね、早くパパには再婚して欲しいんだ。ママはほかの人と結婚しちゃダメ、なんて言う小さな人じゃなかったもの』
もう空で言えるくらい聞いているのだろう。愛美は彼女の母親からの言葉、というものをたくさん聞かせてくれた。
《愛美は私の宝物。もし私が死んでも、悲しみ過ぎて愛美のことを忘れてしまわないで》
《少しでも早く、愛美のお母さんを見つけてあげてね。娘には母親が絶対に必要よ》
《晃、愛してくれてありがとう。愛美が元気に育ってくれてさえいれば、私は愛してもらえていたんだ、って信じて逝けるから。前を見て、これからも生きて》
『私の考えた名前に決めてくれて、ありが、と……う……っ』
『マナ……』
明るくてハイテンションで、いつも笑っている明るい子だから、きっと克美ちゃんのこともぐいぐい引っ張っていくだろう。晃はそう言っていたけれど。
『解ったよ、ありがとう。出来るだけ、変な風に考えないようにする』
さっき彼女がしてくれたように、今度は克也が彼女を抱きしめた。
生理なんて面倒くさいな、とか、自分はたまたま身体が女なだけで、心は男なんだけどな、とか。まだまだ納得出来ないことはたくさんあったけれど。そのことについては、愛美が『少しずつでいいじゃないの』と言ってくれた。
愛美の夢は、『ママみたいなステキなママになること』らしい。晃には内緒にしているらしいが、実は同い年の彼氏がいて同じ高校を目指して猛勉強をしていると、うっすらと頬を染めて話してくれた。恋の話は、少しだけ切なかった。どうしても、姉と辰巳の悲しい結末を思い出してしまうから。それは愛美には言わなかったけれど、ちくりと心が痛んでいた。
それでもやっぱりあの時、『Always』へ行ってよかったと思う。
愛美が語った彼女の持論。
『女はね、男よりよっぽど心が強いんだよ。だから男を可哀想に思った神さまは、女より強い腕力と体格を強い心の代わりに与えたんだって』
女が全部握っちゃったら、男は生きていけないでしょう――ユーモラスに語られた愛美論は、今でも克也の心の奥底で時折燻ることがある。
「辰巳がボクを女の子に戻したいのは、強くなって欲しい、ってことなのかな」
あの頃はそう解釈していた。だから強くなろうと頑張った。
初めて会ったその日を境に、『Always』の事務所は、友達を連れて来た愛美の君臨する「なんちゃって学校」になった。そこへ集まるみんなの輪の中へ、克也も頑張って加わった。それは「普通」を知るとても貴重な期間になった。同時に人に対する怯えもどんどん軽くなっていった。お金では決して買えないものを、ずっと愛美達からもらっていた。
「そうだね。強くならなくっちゃね」
独りは寂しい、傍にいて、なんて。
また少し悔やまれる。寂しげな顔で辰巳を送り出してしまったこと。あの日々から四年以上経つのに、まったく成長してない今の自分。
また少し重くなった気分を飲み下すように、冷めたホンジュラスをこくりと飲んだ。




