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第九章 心の声 2

 一月後には、Edenの新人、龍一というホストがすごいらしい、と花街のあちこちでその名を聞くようになった。何がすごいんだか、と忌々しげに唾を吐くホストもいれば、新人の割には立場を心得ていると好感を述べるホストもいた。

 その夜、意外な客が辰巳を指名して来た。

『龍一、指名だ。向こうの店の……司』

 同情を浮かべる先輩ホストの視線を怪訝に思って尋ねてみる。

『司、ってあっちのナンバーワンっていう、あの司さん? 俺を?』

(お前、目立ち過ぎたんだよ)

 彼は心配そうな顔をして、小声でそっと耳打ちをした。

 辰巳は、彼が心配する理由をおおむね察知した。

 この界隈では、司が籍を置いている店のオーナーに「ソッチの気」がある、という暗黙の認識があった。その店のナンバーワンホストでいられる条件の一つが何かということについて、おおよそ統一した予想もされていた。

(ヘルプが必要になったらすぐ呼べよ)

 自分の素性を知らないのに、何かと親身に尽くしてくれる彼の厚意がくすぐったかった。

『ありがとうございます。でも、大丈夫っすよ、きっと』

 辰巳は彼に人懐っこい笑顔を向けて控え室をあとにした。


 辰巳がドン・ペリを片手に司の席へ向かうわずかな時間とその距離の中、妙な静けさがBGMの大音響を強調させた。Edenの面々は指名された辰巳に対し、ある者は鼻で哂い、ある者は同情をあらわにした面持ちでこちらの方を盗み見ていた。辰巳はそんな視線を感じながら、それらに気づかない素振りを貫き、背を向けて待ち受ける指名主の隣で立ち止まった。

『どーも。初めまして、龍一です。これ、開けちゃっていい……!?』

 司という源氏名で現れたその男と初めて視線を合わせた。途端、辰巳の背に数週間振りの緊張が走った。

(やべ……こいつ、同業者だ)

 同業者とは、ホストという意味ではなかった。

『悪いね、女じゃなくて。“色好きのぼんぼん”さん』

 その呼び名は、自分の正体を知っている者が影で揶揄した、「海藤辰巳」の綽名だった。

『開けろよ。騒いで飲むのは仕事だけでたくさんだ』

 司はそう言いながら煙草を口に咥えた。辰巳がすかさずともしたライターを彼のそれへ近付ける。

「!」

 司が声を発する間も与えないほど素早く、辰巳のその手を引き寄せた。頭を抱え、その耳許へ顔を近づける。遠巻きの周囲から見ると、それが口説いているように見えないこともない。女性客の『うそ……』という切なげな呟きが、そこかしこからぱらぱらと上がった。

(お前、海藤に探されているぞ。小磯から指示を受けた。俺と入れ替われ)

 囁く司の声は震え、辰巳の頭を抱える手からは、緊張の同調を強いていた。

(こっちも早く入れ替わってずらからないと、ヤバイ立場なんだよ。即答しろ)

 焦れる彼の言葉に嘘はないと感じられた。辰巳は、東京で高木と打ち合わせてあった影武者の話を思い出した。

『ケツは貸さないけど、名前なら貸してもいいよ』

 そう返事をするや否や、ごつい彼の手が顎に掛かり、躱わす間もなく顔を固定された。

(げっ! マジか!?)

 あまりにも嬉しくない形で、彼のなりふり構わない切迫感を知らしめられた。

『交渉成立だ。持ち帰らせてもらうぞ』

 司は面食らって呆然としている辰巳の腕を掴んで席を立ち、

『ここまでのキャッシュ、俺の奢りだ。この店のルーキーを掻っ攫っていく謝礼と思ってくれ』

 と宣言し、皆が歓喜の奇声を挙げている隙に、辰巳を連れて店を出た。


 店を出てまず目指したのは、路地裏にある唯一の自動販売機。二人して競うように小走りでそこまで辿り着くと、奪い合う形でそれに飛びついた。せわしなく飲料を含んで、くどいくらいに口の中を洗う。一息ついた顔を上げれば、司と視線が合ってしまった。

『迫真の演技っすね、司さん』

 力なく呟く辰巳の言葉に、知らず苦笑いが混じった。

『こっちも命懸けなんだよ』

 そんな司も初めて気を緩めたばつの悪い笑みを零した。

『取り敢えず、俺んちに来いよ』

『襲わないでね』

『バカじゃねーの。もう芝居は終わりだっつうの』

 そんな軽口を交わしながら、二人で司のアパートへ向かった。




『元籐仁会、市原雄三。そいつが俺の本名だ』

 辰巳は彼が言い終わるか終わらないかの内に、司――市原を取り押さえていた。

(加乃が殺したはずだ。どうして生きて、ここにいる)

 こんな田舎に元締め系の組織が既に入り込んでいるとは思わなかった。甘く見ていたという口惜しさと情報漏えいの危機感が、辰巳の呼吸を浅くさせた。

『待て、話を聞けッ! “あの女”は誰も殺しちゃいない!』

 その言葉に、一瞬動きを止めた。

『あの、女?』

 心臓が破裂しそうな勢いの脈動が一つ。それが辰巳に痛みを思い出させ、目の前が一瞬深紅に染まった。

『海藤が拉致った、あの女だ。お前の色だったんだろう。伝えたいことがあるんだ』

『……話を聞こう。だが、拘束させてもらうぞ』

 例えどれだけ嫌がろうとも、父親と同じ不遜な態度が滲み出る。後ろ手に関節を固めて組み敷いた男の目が、辰巳にそう思わせた。

『さすがに血は争えないな。マジで即殺られるかと思った』

 ある意味で、駆け引きに負けた。そんな屈辱感も伴って、市原の脇腹に一発食らわせた。

『御託は不要だ。さっさと話せ』

 意外にも彼はこちらが思うほどの屈辱を見せず、悪びれのない視線を向けて来た。

『俺は籐仁会を抜けて、堅気になりたかったんだ』

 市原はそう切り出し、加乃と会った時の経緯を話し始めた。




 待ち合わせ場所は天見埠頭ではなく、そこに隣接する空き地のバラック小屋だった。待ち合わせ時刻は二十四時三十分。市原とその相棒は、中途半端なその指定時刻に疑問を抱いたらしい。早めに空き地へ向かい、盗聴マイクを設置して身を隠したと語った。

『半時間ほどで、海藤組の連中が来たんだ。使い捨てっぽいチンピラが一人と、幹部っぽい感じの奴が一人。なんでそこに女がいるのか、最初はわからなかった』

 だが、盗聴マイクから漏れ聞こえる彼らの会話が、市原に加乃の立ち位置を知らせたという。

『高木が拉致事件の現場へ向かったらしい。その時、奴らがガキを餌にして逃げたその足で来やがった。あんたには三十分遅めの時間を伝えていたってことも初めて知った。ガキと女、それがあんたのネックで、あんたと親父さんが対立してるってことも、その時俺は初めて知ったんだ』

 市原は、辰巳に対する揶揄の噂を知っていた。

 ――海藤親子が似ているのはツラだけだ。色好きのぼんぼんは大学で手当たり次第に女を食い漁るだけが能の、腑抜けた二代目候補。

『そんな陰口を叩いていたから、拉致ったらしいその女が一般人だってこともすぐに判った。海藤組だけじゃねえ。今の仁侠は、筋もルールもなってねえ、と俺はウンザリしてたんだ。だからあの取引が済んだらその金をがめて、よっちゃんと逃げるつもりだった』

『よっちゃん?』

 辰巳の問いに、市原は答えなかった。組み敷いた彼の表情は辰巳の死角にあって見えない。彼はただ独り言を呟くように、その時の経緯を語り続けた。

『アイツら、拳銃チャカを構えて盾代わりに自分らの前で立っておけ、とかその女に言いやがって。許せねえだろう? よっちゃんが俺の考えに乗ってくれたんだ。ついでだ、あの女を助けてさ、最後くらいいいことしてから日本をずらかろうぜ、って』

 ひっく、としゃくり上げる声が辰巳の真下から漏れ聞こえた。

『よっちゃん、俺の盾になる恰好で、撃たれちまって……海藤の奴らはどうにかしたけど、よっちゃんを助けられる状況なんかじゃなくて……あの女も、助けられなかった……ずらかれっつったのに、なんなんだよ、あの女』

 加乃は、市原の警告を無視して、死体から拳銃を手にしたという。

『私、辰巳の為ならなんでもするわ。あの人の為ならこんな命、ちっとも惜しくなんかない』

 拳銃を構えてそう言いながら微笑んだ彼女が、あまりにも幸せそうに見えてしまったという。

 市原は、何を考えているんだと加乃に怒鳴りつけた。加乃は彼ではなく、見えない誰かに向かって答えているようだった、と前置きをして、彼女の言葉を辰巳に伝えた。

『だって、初めて私と克也を人間扱いしてくれた人だもの。あの人なら、きっと最後まで克也を守ってくれる――お願いね』

 市原の声ではなく、加乃の声が聞こえた。何度も繰り返し頼まれ、託されて来た加乃の願い。

『すまねえ。本当に、すまねえ。あの女、あんたにやっと恩返しが出来るから構うなって、動こうとしなかったんだ。自分が生きていると、あんたが自分を見つけられないって。あんたのことしか考えてなくて。俺にはあんたとあの女のことなんかわかんねえし、どうしていいかわかんなくて……すまねえ』

 ――あの人なら、きっと最後まで克也を守ってくれる。お願いね。

 白い闇が、心を覆う。赤黒い染みが広がっていく。この手には何も握ってないのに、あの凶器から伝わる衝撃が再現される。振り返らないと決めたのに。

『最初から、撃たれるつもりだったのか……』

 克也の為に。自分ではなく、克也の為に。恩返しなんて望んでなかった。自分を見つけられないから、なんて、言っている意味が解らない。はっきりと解ったのは、加乃が始めから克也の為に自分を置き去りにするつもりでいたということだけだった。

『なぜお前が俺に未だ関わろうとする』

 市原の前で感情を見せるという醜態を晒さない為には、心にふたをして思考に専念するよりほかに手立てを思いつけなかった。

『あんたに託したいから』

『託す?』

『俺、あのあとブツを持って海藤の事務所へ行ったんだ。チンピラの方はツラを覚えられてなかったようだから、そいつに成りすまして、あんたが来るのを待った。今の話を伝えたかったのと、それから』

『よっちゃん?』

 辰巳には、もう市原の人間性があらかた把握出来ていた。自分と辰巳を、そして加乃には相棒を重ね、同志の意識が芽生えたのだろう。彼の涙の理由が、ほかに思い当たらなかった。

 辰巳が市原の上から身を引き拘束を解くと、彼はおずおずと身を起こして正座で辰巳と向き合った。

『よっちゃんとは、おんなじ施設で育ったんだ。弟みたいなもんで、たった一人の、家族だった……』

 ちくしょう、と俯き、袖で涙を拭う。素直にそう出来る彼をある意味羨しいと思った。

『俺が海藤組を裏切るなんて突飛な発想だと思わなかったのか』

『海藤の事務所に行ったっつっただろ。あんたが二挺拳銃で乗り込んで来たあの時、俺も事務所にいたんだよ。あの時あんたの顔を見て、絶対海藤をぶっ潰すって確信した。だから』

 いつの間にか、市原の声から上ずるものが消えていた。膝で握られた彼の拳が白さを増した。

『俺には海藤を仕留めるだけの力がない。あんたにその時が来るまで、俺があんたの身代わりになる。あの騒ぎなら高木が動くと踏んだから、俺も高木と取引したんだ』

(――振り返ってる場合じゃ、ないんだ)

 何かが辰巳のスイッチを切り替えた。逃げずにすべきことをしろ。それが加乃の言う「見つけるべき自分」というものなのだろうか。正解をくれる加乃はもういない。だが辰巳の中にたち込めていた白い闇が、次第に明確なヴィジョンとなって晴れていった。

『ごめんな。親父の所為でよっちゃんを』

 言葉が、続かない。似た痛みがどんな言葉も陳腐に見せる。彼の流した涙の中に、自分が数ヶ月前に流したそれを見た。

『あんただって、被害者だ。信じてくれて恩に着る』

 下げる頭は互いにない、と彼に肩を掴まれた。

『俺に海藤を殺れるだけの力はねえ。頼んます』

 そう言って頭を下げ返す彼に、やはり同じ言葉を返して苦笑した。

『ねえ、酒ある?』

『は?』

『兄弟の杯、しようよ。市原クン』

 兄弟、それは仁侠の世界での意味じゃなかった。兄弟になれるのは“よっちゃん”しかいないだろう。それでも、ほんの束の間でいいから彼の空洞を埋めたかった。




 結局、自力でどうにかしようと思いながら、高木の手の上で踊らされていたということらしい。

 市原は高木から指示を受けた小磯に呼ばれ、辰巳と接触しろと言われてEdenにやって来た。自分達が一ヶ月以上も東京で高木に軟禁されていたのは、市原や小磯のスタンバイに掛かった時間だと今頃知らされた。

『高木の奴、だったら最初からそう言えっつー話なんだよ。俺がして来た一ヶ月はまったく無意味だった、ってことじゃん』

『小磯のおっちゃんが止めただろうが。あんた意外と無鉄砲だよな』

『……』

 手厳しい評価にぐうの音も出なかった。ごまかすように酒をあおると、市原が小磯の人柄を話してくれた。

『小磯のおっちゃんが怒ってたぞ。高木にはどやされるは、あんたは鬼門に潜り込むは、って』

 小磯は妻一筋の愛妻家で、花街に入ることさえ彼女への罪悪感から出来ないらしい。市原の告げ口を聞いて、二人で笑った。

『人よさげなおっさんだもんな。本気で罪だとか思っていそう』

『そうそう。この辺で殺しっちゃあ、却って痴情のもつれだの相続トラブルだの、一般家庭の殺しの方が多くて、おっちゃんには丁度いいんじゃね?』

 ビールを酌み交わしながら、しばしそんな他愛のない会話が続いた。だがほどなく市原が神妙な面持ちで話をしめた。

『ま、あんま情が移んない内に、俺はあんたの名前で国外へ逃げるとするよ。あんたも店はもう辞めて坊やのところへ行ってやんな。ちょっとまずいことになってるみたいだぜ』

 ついでのように告げられた克也の近況に、思わずビールを喉に詰まらせた。

『まずいって何がだよ! なんでそっちを先に言わないんだっ』

 市原が知らないのは無理からぬことと解りつつ、抑え切れない焦りが彼の胸倉を掴ませた。

『し、知らねえよ、詳しいことは。まずいってことしか聞いてねえ!』

 彼は突然声を荒げた辰巳の変化に驚きの表情を浮かべ、慌てて弁明の言葉で応酬した。

『……帰る』

『い!? 今の今かよ。Edenにはなんて』

『知るか!』

 愛想も小想こそもない心境になり、辰巳は別れの挨拶もそこそこに市原のアパートを飛び出した。

 それが、市原との最初で最後の出会いだった。彼が自分の影武者として、その後間もなく殺されたことを辰巳が知るのは、それから十年もあとになってからのことだった。

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