第八章 高木の苦悩 2
高木は辰巳を別室へ案内した。彼は勧められるままパイプ椅子に腰掛けると、意外にも柔和な表情を取り戻した。
『一目で判りましたよ。克也を見つけてくれたのがあなたでよかった』
それが彼流の謝辞、だろうか。彼は一度組んだ腕と脚を解いて姿勢を正すと、高木に向かって軽く一礼した。再び上げた彼の顔は、子供の無事を知ったことから来るのであろう、安堵の表情が宿っていた。
彼がなぜ表に出て来なかったのか、その時少しばかり解った気がする。暴力団らしからぬその気性は、さぞかし海藤に歯痒い思いをさせて来たことだろう。
だが彼が表情を緩めたのは、わずかな時間に過ぎなかった。
『あなたを見込んで、単刀直入に本題へ入らせてもらいます』
辰巳が正した姿勢を不遜に戻す。殊勝な態度が一変した。再び脚を組んで背もたれに身を預ければ、長身の彼は必然的に高木を見下ろす恰好となる。組んだ腕は、警戒心を伝える無意識のボディランゲージ。つぶさにそれを観察する高木は、彼のことを“仁侠では生きづらい温和な気性”と推察した自分のプロファイリングに疑いを持った。
『俺の逮捕を待って欲しい。取引材料は、俺があなたの手足になることです』
父――海藤周一郎を、狩る。辰巳は何のためらいも見せず、無表情でそう言い放った。
『無論、具体的な材料を明示されてからの返答で構わんのだな』
あくまでも威圧的に問い質す。高木は彼の真意をまだ掴めなかった。
彼は淡々と語り続けた。
『海藤組における情報戦力の要は俺です。この一年ほど組の動きが比較的地味で、海藤だけを追えて楽だったんじゃありませんか』
薄ら笑いさえ浮かべてそう語る彼の口振りは、言外に「それでも組長逮捕に至れないでいる」と自分を嘲笑っているようにさえ見えた。
『無駄話をしている暇は、ない』
平静な対応をと努めるのに、語尾が微かに震えてしまう。自分は今までこんな若造に振り回されて来ていたのかと思うと、自分の意思とは無関係に舌が震えた。
『あなたが俺と克也を奴らから隠蔽してくれれば、当分はこの状態が続きます。そちらにとっても損はないと思いますが』
馬鹿馬鹿しさに、高木の片眉が不快げぴくりと動いた。見逃す代価があまりにも安過ぎる。
『私が目指しているのは現状維持ではなく、根絶だ。どんな材料を出して来るかと思えば、とんだ買い被りだったようだ』
高木はもう話すことはないとばかり、デスクについていた肘を剥がして席を立った。こんな浅慮な男と互角な自分を突きつけられて、苛立ちがいや増していった。
屈辱に握りしめた拳を隠して彼の横を通り過ぎる。その刹那、彼が小声で呟いた。
『俺の判断が甘かった所為で、奥さんを巻き込んでしまってすみませんでした』
声と同時に右手首を掴まれ、思わず視線をそちらへ向ける。辰巳の視線があまりにも意外な色合いを帯びていた所為で、次の一歩をためらった。
『奥さんの事故のあとに家が世話を掛けた銃取引の案件。あの時あなたが追っていた赤木信司をご存知ですよね』
知っているも何も、と言い掛けた口をつぐむ。赤木は辰巳の右腕だ。危うくこちらの情報を漏らす結果になり兼ねないと高木の心が武装した。
『彼は、俺が唯一信頼出来る兄貴でした。奥さんの件を知ってすぐ赤木と一緒に組の者を止めに向かったんですが……間に合わなくて。自分の力不足に、何よりも腹が立つ』
伏せられた表情からは、彼が芝居をしているのかどうか判らない。だが、不遜な姿勢を保つ癖に、自分の二の腕を掴む彼の手が爪を立てて震えていた。数日前の赤木を思い出させるその仕草。彼もまた、怒りに震え、あくまでも辰巳に内密でと何度も念を押しながら、同じ証言を高木に告げていた。
『あんたのカミさんに免許がないって知っていたから、逆にそれが盲点だったんだ。まさかあの海藤が、そんな回りくどい手を使うなんて、俺達には想像つかなくて』
あの時赤木が流した涙と、彼の語った「自分もカミさんとガキを人質に取られてるようなもんだ」という言葉に嘘はないと思っていた。その時抱いた感覚と、今の感覚がよく似ていた。
『信じますか』
そう問われれば、信じない方が普通だろう。だが高木に数日前の赤木が、今また心の中で訴えて来た。
――俺はあんたに恨まれてもいい。でも、辰の無実だけは信じてやってくれ。あいつを海藤から助け出してやってくれ、頼む。
『何が言いたい? 率直に話したまえ』
勘が理論を否定する。辰巳に血の通う仁侠を感じ取る。気付けば元の席へ掛け直し、先を促す自分がいた。彼の一挙手一投足、微々たる表情の変化も見逃すまいと、彼の真正面に身構える。
『組からここへ来るまでのわずかな時間で構築したので、まだ再考の余地があるんですけど』
彼はそう前置きをしてから、『計画』と称した内訳を慎重に小声で語った。
その内訳を聞いている内に、何とも表現しがたい激情が高木の内から噴き出て来る。そんな大それた計画など、考えつきもしなかった。そもそも自分の立場では思いつきようがない。彼だからこそのその着眼点、だかしかし。
『まさか君は……自滅する気か? あの子をどうするつもりだ』
『克也を普通の生活に落ち着かせてやる為だからこそ、です。気長な話で申し訳ないとは思いますけど。その為に、どうしても今は加乃を別人の名で弔う形にしたいんです。そして、俺達の隠蔽に協力願いたい』
二十歳そこそこの若造が考えることではない。高木は驚愕と呆れを交えた笑いを漏らした。
『彼の成長を待ってなどいられん。彼は警察で保護する。君には幾らでも罪状をつけることが可能だ。服役しながら時を待つのもひとつの手だとは考えないのか』
『ねえ、高木さん。法は弱者を守ってはくれませんよ。なのにあなたは奥さんを、俺は赤木や加乃を、親父に奪われたまま一矢報いることも許されないのが今の社会だ。そんなの、おかしいでしょう。罪を犯していない一般人やそれを助けようとした人間が生きられなくて、その遺族だけが苦しんでいる。なのにあいつは何一つ失うことなく、今ものうのうと笑っている。そんなの、許されていいはずが、ない』
彼の口調が砕けていく。少しも愉快ではないのに口角が吊り上がっていく。ぞっとするほど表情のない微笑に、高木は生唾を呑み込んだ。
『もう逃げる気力もないんですよ、俺。ああいうのは、駆除するに限る。それに、ねえ、高木さん――海藤組だけで、いいんですか?』
『な……に?』
含みを孕んだ形ばかりの微笑に、高木の頬が引き攣れた。内を辰巳が、外を自分が埋める計画、その発想自体でさえ奇天烈且つ高リスクで、無謀としか思えない計画なのに。この男が何を考えているのか、先に何を見据えているのかが解らない。高木のこめかみを、汗が一筋流れていった。
『今は海藤組が巨大勢力というだけでしょ。仁義の世界そのものが崩れている今、海藤だけ抑えてそれでよし、なんて、俺には到底思えませんがね』
顔を軽く上げて見下ろす形でそう語る。組まれた脚はこちらの答えを待つかのように、小さくリズムを取って揺れていた。いつの間にか、形勢が逆転している。彼のペースに巻き込まれている。不敵な態度で両の手を膝の上で組む辰巳が、もうただの若造には見えなくなっていた。
『その上にある、藤澤会そのものを崩す……とでも言うのか』
二大勢力の片翼を根こそぎ潰す、などという馬鹿げた作り話を口にしている自分が信じられなかった。
『ビーンゴっ。さすが高木警視』
辰巳はふざけた口調とともに、高木に向かって手拳銃を撃つジェスチャーをした。
『なぜ、お前がそこまでする』
初めて口調を砕いたのは、刑事としての立場ではなく、高木徹個人として、彼に興味を抱いたからだった。
きょとんとした目でまっすぐ自分を見つめて来た彼は、見開いた瞳を元の涼しげな端整なものに戻すと、出会い頭に見せた憂いを高木に晒した。
『克也は、俺の最後の宝なんです。あいつだけは、失くしたくない……』
終いの言葉は呟きに変わり、彼の表情は俯いてしまい見えなくなった。そんな辰巳を目の当たりにしながら、高木は日頃ならその存在さえ思いつきもしない、超越した何かに対する恨みに近い繰り言を脳裏に廻らせていた。
なぜあの海藤の息子が、この男なのだ。これほどに溢れる正義感と、非情に徹することの出来る冷静さを併せ持つ彼ならば、ともに理想の社会を目指せただろうに。
高木もまた、頭をうな垂れ目を閉じた。
(この男を、つまらないことで失いたくない)
この密事が発覚すれば、高木の将来も彼とともに終わる。だがそのリスクを背負ってでも彼と組みたい、という激情を抑えることが出来なかった。
『――いいだろう』
再び顔を上げた時、そのひと言をすんなりと紡ぐことが出来ていた。
『これまでお前に裏を掻かれて苦渋を舐めた分、存分に返してもらうことにしよう』
高木は皮肉をこめてそう答えると、初めて彼に手を差し出した。
初めて信州を訪ねて以来、しばしば辰巳との『契約』について考える。
翠への仕送りという負担が増えた分、東京の民事に関する依頼を回して欲しいと辰巳から頼まれた。手頃な情報を流すようになってから、四年の歳月が流れていた。
来栖翠の事件から五年、来春には彼女も専門学校を卒業し、貴美子の勤める設計事務所へ就職予定だ。今では女性名で呼ばれることにすっかり慣れた克美も、今年でもう二十三歳になる。
あの計画は、当初克美の成人を目安に進めて来たが、未だに決行されていない。相変わらず飄々とした態度で現れる辰巳に、高木は今回も同じ繰り言を愚痴零した。
「私はお前の使いっ走りではないぞ。お前はいつまでそんなところで立ち止まっているつもりだ」
自分はとうの昔に警視正になって、辰巳がより自由に動ける為の根回しが出来る立場を目指しているのに、いつまで海藤への接近をてこずっている。そうごちる高木に、辰巳は
「高木さんって、『踊る大捜査線』、好きでしょ。室井さんっぽいキャラだもんね」
と茶化した口調で訳の解らないことを言い出した。
「知らん。なんだ、それは」
「ドラマ……って、高木さんが見てる訳ないか」
と、結局話を逸らされた。そう思って呆れた溜息をついた途端、辰巳が物憂げな瞳をして呟いた。
「残念だけど、俺は純粋まっすぐ正義の味方、青島刑事にはなれませんからね」
――ただの薄汚い、腐ったガキです。
高木はそんな辰巳を腹立たしげに睨みつける。
(何が「薄汚い」だ)
誰よりも理不尽が許せない癖に。それ故に、来栖煌輝如き小物を排除する為に、また自らの手を汚した癖に。三十路を過ぎた今になってもまだこんな小さな事件を引きずり続け、翠本人よりも傷ついている癖に。そんな歯痒さが、高木の口調に毒を盛った。
「いい加減、大人になれ。区切りをつけるべきところは区切りをつけろ」
辰巳に非はなかったのだ、と素直に言えない。そして、彼もまた
「自分が過ちを許したら、俺は加乃に顔向け出来ない。それが大人になるってことなら、俺は別にガキのままでいいですよ」
と、己を許すことが出来なかった。それでも辰巳はこちらの言わんとすることを慮ったのだろう。
「でもさすがに急がないと、親父がぽっくり逝く年になっちまいますね」
と、困ったような淡い笑みを浮かべて視線をまっすぐ向けて来た。迷っている訳ではないと訴える瞳が、逆に高木の視線を逸らさせる。
「海藤の件についても、勝手に動くことは許さんぞ。ああいう輩は、命を取られるよりも、社会的に抹殺される方が苦痛のはずだ」
「加乃がこの世にいないのに? 高木さんの奥さんもいないのに?」
辰巳から虚無に満ちた笑顔でそう問われると、答えに詰まる高木だった。
バイクにまたがり走り去る彼を上階の窓から見送りながら、高木は悩み考える。あの時、彼との取引に応じてよかったのかと、今更どうにも出来ないことで思い悩む。
(あの頃は、私も若かった)
ただ、正義の道をともに歩める相棒を求めて止まなかった。妻の復讐で満ちていた。だが今は――。
時折訪ねる、今は信州で辰巳の帰りを待ちわびているであろう、不遇な幼少期を送った少女の笑顔を思い出す。彼女が女性である自分を認めたのは、辰巳を慕う心によると、彼女の笑顔を見てすぐに判った。辰巳も恐らく克美を妹としては見ていないだろう。
「……自覚はなさそうだがな」
理事官室の窓から空を見上げ、誰にともなく呟いた。
過去に拘らず、未来を見て生きる道もあったのではないか、と高木は過去の選択に自信を失くす。自分が彼らを過去に囚われさせているのではないか、と苦悩する。だが、走り出した計画はもう止められない。
今、辰巳を留まらせているのは、来栖翠への罪悪感。それが計画の進行を妨げている。高木はそれを歯痒く思い、それを辰巳に諭してしまう。その一方で、取り敢えず三人とも命に別状がなければ、生きてこその諸々だ、このまま翠が堕ち続けている方がいいのではないか、と思ってしまうこともある。
「片方立てれば片方立たず……か」
なぜ、すべての人が幸せに生きていくことが出来ないのだろう。
頭脳明晰な高木を以てしても出ることのない人類の永遠の問いを口にし、その虚しさに苦笑した。高木は、澱んだ東京の空を仰ぎ、深い溜息をひとつ漏らした。




