上州へ 壱
車窓から一面に広がる田園風景が見えた。季節はまだ五月なので稲もまだ細く水田に張った水か太陽の光を反射しキラキラ輝いている。僅かに開けていた窓からは、土と緑が織り成す香りが入り込んできた。
列車は先程高崎を出た所で高崎駅と次の停車駅の間を走っていた。窓に広がる田んぼを見ながら感慨深く私は思う。これから夏を経て、秋には稲穂が立派に実り、美味しい御米の収穫時期を迎えることになるだろうと……。
この辺りは確か昔の令制国でいう所の上野国にあたる。国府の長官は上野介と呼ばれ、忠臣蔵でお馴染みの吉良上野介の官位もそこから取られているらしい。
七百一年に定められた初期の法体制ともいえる大宝律令が制定された頃に、その行政区分が定められたのだ。大宝律令では班田収受法なども設けられ、国から戸籍に基づいて受田資格を持つ人民に田の班給がなされていたようだ。とすると、この地は飛鳥や奈良の悠久の昔より変わることなく田園風景だったのかもしれない。そう考えると、尚更今眺めている景色がとても懐かしく思えてくる。
「ふっ、龍馬と汽車か…… 実際には無い光景だが、ありそうな光景だな。龍馬があと五年生きたらそんな写真が残っていたかもしれない……」
車窓から感慨深く外を眺めていた私に、軽い笑いを浮かべた中岡編集が声を掛けてくる。
「な、何が龍馬と汽車ですか! 何度も何度も龍馬じゃないって云ってるでしょう、それと龍馬だとか龍馬子だとかも云うなとも!」
毎度の事ながら龍馬を絡めた発言に、私は抗議の声を上げる。
「ん? 僕は龍馬とは云ったが龍馬子とは一言も云ってないぞ、君が勝手に過剰に反応しているだけだぞ。ん、さては、龍馬子と呼ばれなかった事に一抹の寂しさを覚えて……」
「んな訳あるか!」
私は叫んだ。
「良いですか中岡さん! 私はね、龍馬も龍馬子にしても、どっちにしても云って欲しくないんですよ、だから纏めて注意を!」
私は興奮気味に説明する。
「はいはい……解ったよ…… でも、いつも云っているが、そんなに嫌ならもっと似てない格好をすれば良いのに…… それに何だね、その市松文様の巾着は? 中仙道を歩く際の手荷物かい?」
「違うわ! フェンディーじゃ! ブランド品だわよ!」
私は吐き捨てるように云った。
「おお、ブランド品ね、しかしまた地味ない色を…… いつもの着物に相まってより一層龍馬度が上がってしまっているぞ」
「着物じゃありません! 洋装です。これは襞付スカートとカーデガンでしょ! 一体なにを見てるんですか!」
噛み付かんばかりの私の剣幕に中岡編集は両の手の平を向ける。
「はいはい、どうどう、解った解った。少し落ち着きたまえ。ほら榛名山も見ているよ」
そして中岡編集が窓の中の榛名山を指差す。
「榛名山もあんまり癇癪を起こすと良くないと云っているようだぞ」
そしてまるで私を諭すかのように言及する。
「まったく、誰が原因を作っていると思ってるんですか…… 中岡編集が仕掛けてこなければ私はイライラなんてしませんよ……」
私は促されるまま榛名山に視線を移した。確かに優しい印象の山である。
私と中岡編集は、再び取材旅行に赴いている最中だった。そして今度は何処へ向うかというと、その目的地は群馬県吾妻郡にある薬師岳の麓にあるお寺なのである。
「まあまあ、榛名山が見えてきたという事はそろそろ乗換えだ」
「ええ、解ってますよ」
私は大きく息を吐いてから頷き答える。
そうして、そのまま私と中岡編集は上越線で渋川まで進んだ後、榛名山の東側から北側の裾野を沿うように走る吾妻線に乗り換えた。
その吾妻線は渋川駅から吾妻郡嬬恋村の大前駅を結ぶ列車で、吾妻川によって作られた谷沿いを走っている。
吾妻線のシートに座り少し落ち着くと、中岡編集は榛名山の北側の斜面を眺めながら言及した。
「ほう、榛名山の裏側もまた良いな。こちら側にはこちら側の良さがある。なあ知っているかい、榛名山は上毛三山の一つで、古くから山岳信仰を受けてきた山なんだぞ」
「上毛三山というからは他に二山あるんですよね?」
「ああ、隣の赤城山と、西側にある妙義山がそうだよ。その三つとも山岳信仰で有名な山なんだ。また榛名山の頂上付近にあるカルデラ湖と中央火口丘の榛名富士が美しい景観を作っているので有名なんだ。秋になると、紅葉と湖と榛名富士の作り上げる見事な景観を見るために訪れる人も多いと聞く」
「そうなんですか、興味深いですね、榛名富士と榛名湖か……」
私は山頂付近を眺めながら呟く。
「実は榛名山にも興味深い取材先があるんだよ。今回の取材先が終わったら、今度は榛名山の方へ取材に行きたいと思っていたんだ」
中岡編集は嬉々として云う。
「何ですか興味深い取材先って?」
「まあ、それは行ってみてのお楽しみだよ」
中岡編集は意味深な笑顔を見せながら呟いた。
しかしながら、怪しげな取材先を良く見付けてくるものだ。私は中岡編集のそんな所に関心せずにはいられない。




