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魔法でアツアツになろう(事件編)

(少しぬるいな)

 ヴィクトルは、浴槽一杯に満たされたお湯に足先をつけた時、そう思った。彼の好みは、痛いほどに熱い、そんな風呂だ。身体中の疲れや不純物が、噴き出す汗と共に洗い流される、そんな感覚が、彼にはたまらなく心地よいかったのだ。

 いつもの彼なら、すぐに風呂の温度を自分の好みまで上昇させていただろう。彼には、容易にそれができる。だが、彼は一度嘆息した後、そのぬるいお湯に一気に肩まで浸かった。湯水を手で救い、顔を洗う。身体にまとわりつくぬるい湯水が、どうにも刺激が半端で、気持ちが悪い。やはり、この程度の温度では満足できそうもない。彼はそう思った。

 それでも、彼がお湯の温度を上げない理由。それは、彼の目の前にある。彼の目の前には、彼と同じお湯に浸かる、女性の姿があった。少しカールのかかった長い金髪に、──彼女の気の強さを示しているかのような──つり気味の碧眼。そして、お湯に浸かった豊満な肉体。彼女の名前はキャロル。彼の恋人だった女性だ。彼は今、彼女と二人で、同じお湯に浸かっている。当然だが、彼と彼女二人とも、その格好は裸だ。

 このぬるま湯は、彼女の好みだ。彼女の入浴スタイルは、低温の風呂に長く浸かり、じっくりと汗をかくことなのだという。彼にとっては、貴重な時間を入浴に多く割くというのは、無駄以外のなにものでもないのだが、ここはキャロルの借りているアパートだ。風呂の温度ぐらい、彼女に主導権をもたせてやるのが、筋というものだろう。

「ねえ。考え直してくれた」

 キャロルは、長い金髪をかき上げながら、彼にそう聞いてきた。彼女の頬は上気し、長いまつげに縁取られた瞳は、適度に湿って潤んでいる。彼女の動きに合わせ、身体に見合わぬ大きな胸が揺れ、お湯を波立たせた。

(悪くない女だ)

 容姿や肢体を見る限りは、そう思う。それだけでも、滅多に見られない素材だろう。そのうえ彼女は、その能力も一流だ。一流の──魔法使いだ。

 完璧な女性。自分に相応しい女性だ。少なくとも、少し前まではそう思っていた。

 彼はゆっくりと頭を振り、言う。

「君とは別れると言ったはずだ」

「なら、どうして今日来てくれたの!?」

 キャロルが声を荒げ、彼に詰め寄った。彼女は目を尖らせ、彼を睨みつけている。しかし彼は、そんな彼女の瞳が僅かに揺れているのを、見逃さなかった。彼女は不安なのだ。彼の心が、とうに自分から離れてしまっていることを、確認するのが。それでも、それを曖昧なままにすることができない。彼女がそういう性格だということを、彼はよく知っていた。知っていたからこそ、それを執拗に、攻め立てる。

「友達に呼ばれたんだ。来て当然だろ?」

「へえ。貴方は、お友達と同じお風呂に入るの?」

「入るさ。ただのコミュニケーションの一環としてね。男友達とだって入る。つまり君は、それと変わりないってことさ」

 彼が、友達という言葉を口にするたびに、キャロルの表情が悲痛に歪むのが分かった。彼はそれを嗜虐的な気持ちで、見つめていた。

 キャロルは彼に詰め寄った分だけ身を引いて、顔を俯けた。いつも強気な姿勢を崩さない彼女には似つかわしくない、小さく怯えた声で、彼女は彼に懇願する。

「お願い……もう一度考え直して」

 彼女の肩は震えていた。もしかしたら、泣いているのかもしれない。彼はそう思った。そう思ったから、彼はいやらしく笑った。

「……どうやら、話は終わりのようだね」

 彼はそう言うと立ち上がり、浴槽から身体を出す。すると、キャロルは追いすがるように彼の腕を掴み、激しく首を振った。

「イヤ! お願いだから行かないで! 私……私、あなたの──」

 キャロルは一度、そこで言葉を区切った。彼の腕を掴む、彼女の手が震えている。彼女は僅かな葛藤の後、意を決したように言う。

「あなたの、赤ちゃんができたの」

 恐らく、これは彼女の切り札であると同時に、決して駆け引きに使いたくない手札だったに違いない。彼女にとって、赤ん坊をダシにして、彼の心を繋ぎとめようなど、ひどい屈辱だったはずだ。だから彼女は、土壇場まで赤ん坊のことを、彼に隠していた。自分の魅力だけで、彼の心を引き止めたいと願っていた。だが今、彼女はプライドを捨てて、彼と共に過ごす未来を選択した。そして、そんな彼女のいじらしい想いは──

 彼の冷え切った心を動かした。

「そうだったのか」

 彼は優しく彼女に話しかけた。

「……ごめんなさい」

 彼女は顔を俯けそう言った。彼はそんな彼女の頭に手を置き、優しく撫でた。

「なんで謝るんだよ。そんな大事なこと、どうして俺に黙ってたんだ」

「ごめんなさい。言いづらくて……迷惑なんじゃないかって、思って……」

「馬鹿だな」

 彼は彼女の頭を撫でながら、にっこりと笑った。彼のその笑顔に、彼女は安心したのだろう。緊張に引きつっていた彼女の表情がほころんだ。彼女は小さく「ごめんなさい」と呟いて、目尻に溜まった涙を、指で拭った。

 彼はそんな彼女を見つめながら、彼女の頭を撫でていた手に、力を込める。

「おかげで、こんなことをしなきゃいけなくなっただろ?」

 彼は力一杯、彼女の頭をお湯に沈めた。

「──!」

 彼女はがぼがぼと口から大量の空気を吐き出しながら、水中で手足をバタつかせる。彼女は魔法使いだ。早いとこ仕留めなければならない。彼は溺れる彼女の姿を睥睨しながら、冷静にそんなことを思う。

「悪いね。中途半端な遺伝子を残したくないんだ」

 彼は魔法を展開する。キャロルが沈められている浴槽のお湯が、一瞬にして沸騰した。


「さてと……」

 キャロルを茹で殺した後、ヴィクトルは着替えを手早く済ませて、彼女の部屋を見回した。彼女の借りているアパートは五階建ての最上階、一人暮らしには丁度いい1LDKだ。彼女のシンプルな性格を投影しているかのように、リビングには最低限必要な物しか置いていない。テーブルとソファ、タンスと本棚、あとは食器棚くらいだ。

 彼は一通り見回して、リビングの中に自分の痕跡が残っていないことを確認した。もっとも、それほど気に掛けることはないだろうと、彼は楽観的に考えている。彼とキャロルは、ほんのすこし前まで恋人同士だったのだ。彼女の部屋に、彼が部屋にいた痕跡があったところで、さほど不思議はない。

 ヴィクトルは戸締りを確認するために、玄関に向かった。玄関に取り付けられている錠は、円筒型のシリンダー錠だ。それがきちんと施錠されていることを確認する。彼は再びリビングに戻ると、今度は窓を確認する。リビングには、人が出入りできる程度の大きな窓が一つだけある。窓に取り付けてある錠は、一般的なクレセント錠。いわゆる、半円形のつまみを上下に回転させ、開閉するものだ。今は、つまみが上の方を向いている。つまり施錠中ということだ。

 彼は窓に近づくと、クレセント錠を開錠しようと、つまみに手を伸ばした。しかしふと、手を止める。彼は暫く思案したあと、魔法を使用して、クレセント錠を開錠させることにした。このような細かい力加減は、魔法は不得手だ。彼はギリギリと集中力を尖らせ、魔法によってクレセント錠のつまみを回転させた。彼は疲労から一息つく。そして再び魔法を使用し、窓を開ける。

 これで自分の指紋は窓には残らない。現在の捜査力を持ってすれば、どんなモノに触ったかだけでなく、最後に触った指紋がどれかまで、正確に分かると聞いたことがあった。あまり気に病むこともないと思うが、最後に窓を開錠したのが自分だとバレるのは、さすがにまずいだろう。

 彼は窓からベランダに出ると、再びリビングに振り返る。問題ないだろう。彼女が自殺したと見せかけるための細工は、もう打ってある。

 彼は懐から懐中時計を取り出し、時間を確認した。午後七時。彼は懐中時計を懐に戻し、これからの行動と、それに掛かる時間を試算する。明日は彼にとって大切な日だ。こんな下らないことで、明日の一件を台無しにしたくはないが、まったく影響なしとはいかないだろう。そう思い、彼は舌を鳴らした。

 魔法を展開し、身体をふわりと浮かせる。そして、彼はベランダから外に飛び出した。


 ローラン領の一画。富裕層の豪邸が軒をつらねるこの場所に、その屋敷はあった。赤い屋根に、白の外壁。手入れの行き届いた広い庭園。そんな、いかにも金持ち然とした屋敷。

 アリスがその屋敷に入ると、そこの使用人と思しき人物が、慇懃な態度で彼女を客室に案内してくれた。その客室は、高価な調度品が──下品なまでに──詰め込まれた部屋だった。くるぶしまで沈み込む赤い絨毯。金縁のテーブル。壁には統一性のない絵画が無作為に飾られており、天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされていた。

 テーブルを挟んで向かい合うように置かれた二つのソファ。そのうちの一つに、アリスは座っていた。彼女は居心地が悪そうに、何度も組んだ指を組み替え、視線をキョロキョロと彷徨わせている。彼女は──いつもの魔道学科の制服ではなく──、淡いピンクのワンピースに白いカーディガンを羽織っていた。彼女なりの精一杯のお洒落なのだが、その不慣れな格好も、彼女をより落ち着かなくさせる、一つの要因となっていた。

(うう……やっぱり変な意地はらずに、断ればよかったです)

 アリスは、この部屋に来てから何度目かになる、大きな溜息を吐いた。彼女はバッグから手鏡を取り出すと、それを覗き込んだ。その鏡には、バッチリ化粧を施した、陰鬱な表情の女性が写り込んでいた。

 酷い顔だ。そうアリスは思った。まったく乗り気ではないと、その表情が語っている。それは、彼女の嘘偽りない想いではあるのだが、最低限のマナーとして、それを相手方に悟られるわけにもいかない。

 アリスは、ニコッと無理やりに笑ってみる。鏡の中の女性が、頬をヒクヒクと引きつらせる、気色悪い表情に変わった。彼女はそれを見て、再び溜息を吐いた。そして、陰鬱に後悔する。

 やはり、見合いなど断るべきだった。


 時間は遡って、昨夜。

「あたしが、お見合いですか?」

 アリスは目をまん丸にして、そう言った。

 ローラン領の貧民街。そこにある、シモン探偵事務所の事務所兼住居として利用している、築数十年は経過しているであろうボロアパート。そのアパート一室、主に応接間として利用している部屋に、彼女はいた。

 その部屋には、中央に大きなテーブルが一つと、それを挟むように二つの安物のソファが置かれていた。それ以外は、何もない。これは、この探偵事務所の経営者──アリスの先生であるシモン──の、美的センスが壊滅的なことと、単に内装に掛ける金をケチったためだ。彼女は彼女なりに、人を溶かして食べる珍しい観葉植物や、臓物が表面にむき出しになっているようなグロテスクな石像などを買ってきて、部屋を少しでもきらびやかに飾ろうと奮闘したこともあったが、すべてシモンに捨てられてしまった。恐らくシモンには、わざわざ足を運んでくれた客人を、居心地良い部屋で持て成そうという、人間的な感情が失われているのだろう。そう彼女は結論付け、自分を納得させた。

 それはそうと、今、その応接間にはアリスの他に、二人の人間がいた。その二人は、テーブルを挟んで向かい合うように、ソファに座っている。

 その一人はシモンだ。相変わらず覇気のない垂れ気味の目と、ボサボサの黒髪、ヨレヨレのワイシャツで、万年浪人生みたいな雰囲気を醸し出している。まだ三十手前のはずだが、その隠しきれない老人の風格は、他の同年の者を圧倒し、寄せ付けないものがある。

 そしてもう一人は、高齢の女性だった。大きめの白いローブを羽織り、白髪の混じった金髪を頭の後ろで纏めている。その表情は穏やかで、彼女の優しい人柄が、よく表れていた。一見して品の良いその女性は、名前をクロエ・カステラという。アリスの通う国営教育機関魔道学科の、校長を務めている人物だ。

 アリスも詳しくは聞いていないが、シモンとクロエは、昔からの知り合いだという。そのため、クロエがこの事務所を訪れること自体は、決して珍しいことではない。アリスもいつも通り、シモンとクロエに紅茶を出して、そそくさと部屋から出て行こうとした。その時、クロエの口から、アリスの見合いの話が出てきたのだ。

「もうボケたか? クロエ」

 シモンがクロエに対し、失礼極まりないセリフを吐く。だがクロエは、「ふふ」とだけ笑うと、シモンの発言に気分を害した様子もなく、淡々と話を続けた。

「おかしなことじゃないわ。アリスも、もう十六歳。結婚を考えるのに、決して早い歳ではないでしょ?」

 確かにクロエの言う通り、十六歳で結婚というのは、この国では格別に早いというほどではない。結婚適齢期が十八歳と言われており、早い者であれば十四歳で結婚する者までいるぐらいだ。

 とはいえ、それとこれとは話は別だ。アリスは首をブンブンと左右に振ると、口を尖らせて不満を口にした。

「嫌です。見合いなんて、なんでそんな勝手なことしちゃうんですか? クロエさん」

「先方からどうしてもと言われてね」

「断ってくださいよ」

「嫌ならアリス、貴方から先方にそう伝えなさい。貴方ももう子供ではないのよ。断るにしても、礼儀はきちんと弁えないと」

 そう言って、クロエはアリスに白い封筒を手渡した。

「その封筒の中に、貴方のお見合いする相手の写真と、その日時場所が書かれたメモが入っているわ。どうするかは、貴方が決めることだけど、家柄も世間の評判も、そんな悪いものではないそうよ」

 アリスは不満げにクロエを見つめる。しかし、クロエはにこやかに笑うだけで、これ以上見合いについて、アリスと話し合う気はないようだった。アリスは嘆息すると、ちらりとシモンに視線を投げた。彼は、我関せずと紅茶を啜り、ボケーとしている。

「……先生は……いいんですか?」

 アリスはシモンにそう訊いた。彼女の声が、不思議と上擦った。胸の中が痒いというのか、妙な感じで、彼女は息苦しさを覚える。シモンは話を振られると思っていなかったのか、少し驚いた表情でアリスに聞き返した。

「……なにがだ?」

「だから……あたしの見合いです」

 シモンは不可解そうに眉をひそめると、ボサボサの頭を指で掻いた。

「クロエがボケてないと分かった以上、俺が気にすることは何もない」

「あたしが結婚してもいいんですか?」

「それは、仕事の辞めるかもしれないと、そう言いたいのか? だったら好きにすればいい。心配しなくとも、お前はそれほど役には立っていない」

 シモンの言い方に、アリスはカチンときた。彼女は目を尖らせて、踏ん反り返った。

「そうですか。分かりました。安心しましたよ。あたしがいなかったら、魔法も使えない先生が大変なんじゃないかなって、そんな女神のような慈悲を、先生みたいな社会不適合者に与えようとした、あたしがバカでした」

「お前がバカなのは何時ものことだ。気にすることはない」

「ありがとうございます! じゃあ、あたしはさっさと結婚して、玉の輿になんか乗っちゃったりして、趣味の悪いドレスなんか着ちゃって、孔雀の羽がついた扇子を振りかざして、おーほほほほっとかなんか言っちゃって、先生の頬を札束で引っ叩いて、後悔させてやりますからね」

「好きにしろ。頬を叩いた札束を後でもらえるなら、その程度の屈辱甘んじて受けよう」

「先生のバーカ! アーホ! ベスト・ダンボールハウスが似合うでしょう第二位!」

「一位はだれだ?」

 アリスは応接間を大股で出て行くと、開いた扉を力任せに閉めた。


(先生の言葉に、変にムキになっちゃったんですよね。なんででしょうか?)

 アリスは首を傾げて考えるも、答えは出そうになかった。なんにせよ、見合いに来てしまった以上は仕方がないと諦め、アリスは、クロエの言う通り、最低限の礼儀だけは尽くした後に、断りを入れて帰るつもりだった。

(なのに、相手が遅いですね。こちらも断るつもりだから別にいいんですが、もし本当の見合いでしたら、減点ものですよ)

 アリスはそう考えると、落ち着きなく、ちらちらと部屋の出入り口に視線を何度も投げた。そこから見合い相手が出てきたときの、一連のシミュレーションを、頭の中で繰り返し再生する。

(出てくる……駆け寄る……頭を下げて見合いを断る……そしてそのまま帰る)

 そんなことを考えていると、部屋の扉がガチャリとなった。アリスは腰を浮かせ、駆け寄る準備を整える。しかし──

 その扉を開けて姿を現したのは、アリスの見合いの相手ではなかった。いやに胸板の厚い、しかめっ面の中年男性。彼は部屋の中に二歩ほど歩を進めた後、スーツの中からあるものを取り出す。アリスには何度か見覚えのあるそれは、警察手帳だった。

「私は警察署のボードワンと申します。シモン探偵事務所のアリスさん……ですね」

「はあ……まあ、そうですね」

 ボードワンはアリスの応えに一度頷き、警察手帳を懐にしまった。そして、ピシッとアリスに敬礼をする。

「お会いできて光栄です。実は、アリスさんに捜査協力をお願いしたいのです。シモンさんは、一足先に現場に向かわれておりますので、アリスさんも我々と一緒に、現場まで同行して頂きたい」

「は?」

 いまいち話が見えてこず、アリスは素直に首を傾げた。すると、ボードワンの隣から、彼の横幅の半分ぐらいしかなさそうな、金髪の細身の青年が姿を現した。その男は彼女にも見覚えがあった。クロエから渡された白い封筒。そこに入っていた写真の男。つまり、アリスの見合いの男性だ。

 彼は警察を押しのけて、部屋に進み入ると、アリスに謝罪の言葉を口にした。

「すみません。アリスさん。呼び出しておいて、お待たせしてしまって。突然警察が押しかけてきて、事情聴取に時間を取られてしまったのです」

 そう言って、見合いの男性はアリスに頭を下げた。その時ふと、彼の右手に巻かれた包帯に、アリスは気がつく。なんだろうかと少し思ったが、彼女はそれよりも、彼の発言の方が気になった。

「事情聴取?」

 彼女の疑問に答えたのは、見合いの男性ではなく、警官のボードワンだった。

「彼は、昨日死亡したとある女性の、第一発見者で重要参考人なんです。彼にも、現場に同行してもらうつもりです」

 ボードワンはそう慇懃に説明すると、見合いの男性の肩を掴み、後ろに下がらせた。見合いの男性は、その警察の横暴に舌を鳴らす。

「死亡した女性の名前はキャロル。この男、ヴィクトルの恋人だった女性です」

 

「馬子にも衣装。あるいは、猫に小判か?」

 精一杯お洒落したアリスを、シモンはそう評価した。憤慨したアリスが両手をブンブンと振り回し、シモンに突進するも、彼はのらりくらりと彼女の攻撃を躱した。それはそれとして、アリスは、キャロルの死体が発見されたというアパートで、ボードワンから事件の概要を説明された。

 キャロル。姓はなし。年齢は十八歳。金髪碧眼の美しい女性だ。キャロルの死体は、彼女が借主であるアパートの、浴槽の中で見つかった。彼女は、浴槽に張られた熱湯に、全身を茹でられて死亡していたのだ。キャロルの身体には火傷の他に外傷はなく、その直接的な死因は、全身を熱湯につけられたショックによる、心停止と考えらている。

 警察の見解では、今回の事件は自殺の線が濃厚だという。その根拠が、第一発見者でありキャロルの元恋人でもあった、ヴィクトルの証言であった。

「昨日の午後七時、俺はキャロルに呼ばれて、この部屋を訪ねました。彼女が俺に何の話があったのか、それは分かりません。俺がこの部屋に着いた時、鍵がかかっていて、ノックをしても彼女が出てこないので、管理人さんにお願いして、部屋を開けてもらいました」

「合鍵は?」

 シモンの質問に、ヴィクトルは頷く。

「はい。もちろん持っていました。ただ、キャロルと別れた時に、合鍵は彼女に返してしまったので、今は持っていません」

「なぜ、管理人に頼んでまで部屋を開けてもらった? ただの留守かもしれない」

「彼女は約束を忘れてことは、今まで一度もありませんでした。それに、キャロルと別れてから、その……彼女、少しおかしくなってしまって。まともな精神状態ではなかったので、心配になったんです」

「つまり、予感めいたものはあったと?」

「自殺するなんて思ったわけではないですが。話を戻しますね。管理人に部屋を開けてもらって中に入ったのですが、リビングに彼女の姿はありませんでした。でも、浴室が明るいことに気がついて、俺は浴室に行って、その扉を叩きながら、キャロルの名前を呼びました。でも、返事がなくて。それでも扉を何度も叩いていると、突然、浴室から水が爆発したような、ボンってすごい音が聞こえたんです。嫌な予感がして急いで扉を開けると……そこには……沸騰したお湯に浸かる、キャロルがいたんです」

 そこまで話すと、ヴィクトルは辛そうに目を閉じた。暫くしてから、再び目を開け「すみません」と謝罪をしてから、話を続ける。

「すぐに俺は、キャロルを助けようとお湯に手を入れたんですが、ものすごい熱さで、とても無理でした。このように、手にも火傷を負ってしまいました」

 ヴィクトルはそう言って、包帯の巻かれた右手を持ち上げた。

「……警察へは、その後に連絡しました。これが、俺の知っている事件の全てです」

 ヴィクトルがそう言って黙り込むと、今度はボードワンが口を開いた。

「管理人から話を聞き、ヴィクトルの証言の裏は取っています。彼の話に間違いはありません」

「自殺だと思う理由は、なんなんですか?」

 アリスは律儀に手をピンと挙げて、ボードワンに質問した。ボードワンは一つ頷くと、彼女に説明を始める。

「この浴槽に水を張り沸騰させた場合、熱し続けない限り、激しく沸騰している時間は一分もありません。ヴィクトルが浴室を開けた時、浴槽に張ったお湯は、噴き溢れんばかりに、沸騰していたそうです。となれば、湯を沸騰させた人物は、ヴィクトルが浴室を覗くその直前まで、浴室にいたはずです。しかし、そんな人物をヴィクトルも管理人も確認していません。唯一それが可能だったのが、浴室で死亡していたキャロル本人です」

「つまり彼女自身が、自分が浸かっている湯を急激に熱することで、自殺したということですか?」

「我々はそう考えています。彼女は魔法使いです。お湯を熱することなど、彼女には造作もないことでしょう。一秒だっていらない。ヴィクトルが浴室に入る前に聞いている爆発音の正体も、それで説明できます。つまり、キャロルはヴィクトルが来たところを見計らい、魔法によって急激にお湯の温度を上昇させたのです。その結果、膨張したお湯が爆発をしたのではないかと」

 ボードワンの説明は、一見すると筋が通っているように、アリスには思えた。しかし、一つだけ気になることがある。アリスはそれを、ボードワンに質問する。

「どうして、わざわざヴィクトルさんが来てから自殺したんでしょうか?」

「恐らく、俺への当てつけでしょう」

 アリスの問いに答えたのは、ヴィクトルだった。彼は沈痛そうに首を振ると、亡き恋人の心情を分析し始めた。

「彼女は、とても気が強い女性でした。恐らく、俺にフラれたのが許せなかったのでしょう。だから、俺の目の前で自殺を図ることで、こう言いたかったんだと思います。お前のせいで死んだんだぞ……て」

 ヴィクトルはそう言うと、目頭を押さえて、アリスから顔を背けた。

 

 警察からの捜査依頼というのは、キャロルの死が、本当に自殺によるものであったのか、それを確定して欲しいというものだった。

 ヴィクトルは家に帰され、現場のアパートには数人の警官と、シモン、そしてアリスが残った。シモンは浴槽に水をいっぱいに張ると、浴室から脱衣所に退避して、アリスに声をかけた。

「よし。やれ」

 素っ気ないことこの上ない。アリスはプゥーと頬を膨らませつつも、浴槽に張った水の水面に、一本の指をそっとつけた。一瞬の集中で、魔法を展開する。

 ボンッ!

 アリスの魔法により熱湯に変わった浴槽の水が、大量の水蒸気とともに爆発を起こした。

「あちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!」

 アリスは、猛スピードで浴室から飛び出し、脱衣所の床をゴロゴロと転がり始めた。その彼女の顔は、魔法を使った直後に破裂した浴槽の熱湯と、それと共に吹き出した熱い水蒸気に焼かれ、蛸のように真っ赤になっていた。シモンは、そんな苦痛にあえぐアリスを無言で観察した後、顎に指を当て思案を始めた。暫くの間、アリスが床を転げ回る音だけが脱衣所に響く。そして、シモンが「ふむ」と頷いき、アリスに──今度は海老反りになって苦痛に喘いでいる──こう言った。

挿絵(By みてみん)

「もう一回だ」

「イヤですよ!」

 アリスは涙目になって、ガバッと立ち上がると、シモンに対して抗議の声を上げた。彼女はまだ湯気が吹き出す顔を、ブンブンと左右に振って──少しでも冷ますとしている──、何の表情も浮かんでいないシモンの顔に、ビシッと指を突きつける。

「あんな急激に温度を上げれば、水が膨張して爆発するに決まってるじゃないですか! 見てください、この顔! めちゃくちゃ熱かったんですよ! もう絶対、二度、未来永劫、こんな真似はごめんですよ! それに、何度やっても結果が変わないのに、無意味じゃないですか!」

「無意味でいいんだ」

「へ?」

 シモンのその真剣な表情に、アリスは抗議の言葉を呑み込んだ。普段から無気力オーラをその身に纏い、周りに負の力を撒き散らすシモンではあるが、その頭の回転の速さや高度な知識に裏付けられた発想力は、アリスなどには及びもつかない。この一見すると、ただのサディスト的な発言も、アリスには想像もつかない、シモンなりの深い理由があって発言なのかもしれない。アリスは唾を飲んで、シモンの次の言葉を待った。

 シモンはぼそりとこう言った。

「無意味に苦しんでる方が、面白い」

「帰ります」

 ただのサディスト的な発言だった。

 アリスが回れ右をして、脱衣所から出ようとすると、その彼女の頭を、シモンがわしっと掴んだ。そしてそのまま、シモンがアリスに質問をする。

「浴槽に張った水を、指をつけずに沸騰させることはできるか」

「できます。ただ、面倒ですね」

 アリスは、シモンに頭を掴まれながらも、首をちょこんと傾げて答える。

「魔法は、基本的に術者が接触している物質に対してのみ、影響を与えることができます。なので、浴槽の水に触れずに沸騰させるには、浴槽自体か、もしくは周辺の空気を高温にして、間接的に熱する必要があるんです。時間も掛かりますし、魔法の難易度も極端に高くなります。もちろん、術者と対象との間に、障害物などがあれば、それすら不可能です」

「つまり、浴室の扉を開けずに、浴槽の水を一瞬で熱湯に変えるのは無理か?」

「無理ですね……て、もしかして、シモンさんはヴィクトルさんを疑ってるんですか?」

「キャロル以外に、彼女を殺すことが可能か不可能か。それを調べるのが、俺の役目だ」

 そう言うと、シモンは脱衣所を出て行った。


 新たに熱を加えない限り、浴槽に張ったお湯は、一分もたたずに沸騰を止める。ヴィクトルと管理人が浴室を開けて、キャロルの死体を発見した時、浴槽に張っていたお湯は、魔女が掻き混ぜる怪しい釜──あくまでアリスの勝手なイメージだが──のように、ブクブクと激しく沸騰していたらしい。つまり、浴槽に張ったお湯に熱が加えられたのは、キャロルの死体が発見された時から逆算して、一分前以内に行われたということである。状況から考えて、それが可能なのは死亡したキャロルのみだ。たがゆえに、彼女は自殺したと考えられている。

 だがここで、キャロルが自殺ではなく、殺害されたと仮定して考えてみるとしよう。その場合、一番疑わしい人物は、誰であろうか。それは間違いなく、第一発見者であり元恋人である、ヴィクトルだろう。そう断定する根拠は幾つかある。

 まずその一つは、死亡したキャロルの部屋から、彼女本人とヴィクトル以外の、指紋や毛髪が見つからなかったことだ。もちろん、手袋や帽子などをつけて、細心の注意を払えば、指紋や毛髪を残さずに彼女を殺害することも可能かもしれない。だが、そんな厳重な装備をした者を、彼女が不審に思わず部屋に招き入れ、その不審者がいる前で無防備に風呂に入り、そして襲われたとは、とうてい考えにくい。

 では、ヴィクトルがキャロルを殺害したとして、その手法はどのようなものが考えられるだろうか。先述したように、キャロルの死因である浴層の熱湯は、彼女の死体が発見される一分前以内に熱せられたはずである。ヴィクトルがその犯人であるならば、彼はキャロルを浴室で茹で殺してから、管理人と一緒に浴室を訪れるまでの一連の行動を、一分以内に収めたということになる。

 警察の話によれば、事件当時、玄関のシリンダー錠は閉まっていたが、部屋にある窓のクレセント錠は開いていたとのことだ。防犯上当然だが、魔法使いであろうと、玄関や窓の鍵を外側から解錠することは不可能だ。つまり、キャロルの死が殺人であった場合、その犯人は玄関からではなく、鍵の開いていた窓から逃げ出したものと考えられる。彼女の部屋はアパートの五階にあるが、魔法使いならば、その程度の高さなど、さして問題にはならなかったはずだ。

 以上を踏まえた上で、アリスとシモンは仮設の検証を始めた。


 アリスは脱衣所でクラウチングスタートの姿勢を取っていた。腕と背筋を伸ばし、脚の筋肉を引き締める。彼女は慎重に呼吸を整えて、シモンの合図を待った。

 シモンがパチンと手を鳴らす。と、同時にアリスは全速力で脱衣所から飛び出した。廊下を走り、リビングを横切り、窓からベランダに出ると、柵に脚をかけて、そのまま頓着なく、外に跳んだ。彼女の身体が重力加速度によって落下していく。彼女が飛び降りたのは五階のベランダ、高さ約十五メートル。地面に激突するまでにかかる時間は計算上二秒弱。彼女はその間に、意識を集中して魔法の準備を整える。地面が迫ってきた。彼女は魔法を展開し、落下速度を一気にゼロにする。通常であれば慣性に従って内臓ごとぺしゃんこになるところだが、彼女は魔法を巧みに操り、それを防いだ。彼女は地面すれすれで浮遊すると、すぐに地に脚つけて再び駆け出した。アパートの裏手から表に回り、階段を全力で駆け上がる。そして五階まで一気に駆け上がると、キャロルの部屋に滑り込むように入った。

 その直後、アリスは疲労から床に崩れ落ちた。床にうつ伏せになって、「ぜぇはぁ」と荒い息を繰り返す。心臓が、爆発するのではないかと思う程に、激しく動悸している。彼女は、酸素不足で朦朧とする意識の中、シモンに──ボサボサの頭を呑気に掻いている──問い掛けた。

「な……何秒……でじだが……?」

「五十六秒……だめだな」

「い……一分以内……でずよ?」

「あくまで以内……だ。理想は三十秒ほどで戻ってこれることが望ましい」

 シモンはそう言って、フゥと溜息を吐いた。

「もっとも、ヴィクトルが、お前のように全速力で現場ここに戻ってこれたとは思えない。もともと、一分以内など無理な話なんだがな」

 それを聞いて、アリスは驚愕した。

「無理だって……分かっててやらせたんですか? さっきの浴室でもそうでしたが、どうして無理だと分かってることを、無意味にやらせるんですか?」

「無理だということを確認することは、無意味ではない」

 そう言うと、シモンは手に持っていた書類に目を落とした。彼が見ているのは、部屋で見つかった指紋やら毛髪やらの調書だ。彼は食い入るようにその書類を読んでおり、もうすでに、アリスのことなど眼中にないようだった。そのことに不満を覚えたアリスは、少し棘のある口調でシモンに言う。

「そうでしょうか? 先生はあたしをいじめて、ただ楽しんでるだけじゃないですか?」

「否定はしないが、誤解だ」

「否定しないんですか!?」

 アリスはそう絶叫すると、がっくりと項垂れた。もともと疲労困憊だったところに、トドメの一撃をもらった、そんな気分だった。彼女はふらふらと立ち上がると、玄関に向かってトボトボと歩き出した。

 アリスの背中から、ボードワンに指示するシモンの声が聞こえてくる。

「採取された指紋についてだが、もっと詳細な資料が欲しい。特に、玄関や窓の鍵といった……ん? どこへ行く、アリス」

「ちょっと……休憩してきます」

 そう言って、アリスは玄関の扉を開けた。


 現場アパートの近くにある公園。そこのベンチに、アリスは腰掛けていた。彼女は、激しい運動で乳酸のたまった太ももを揉んでほぐすと、大きく溜息を吐く。

 アリスの格好は、ヴィクトルとの見合いの格好から変わっていない。自分なりに精一杯お洒落しようと選んだその服は、事件の検証ために、熱湯をかぶり、全力疾走したせいでヨレヨレになり、無残なありさまとなっている。バッチリ決めた化粧も、噴き出した汗でほとんど流れ落ちた。なんと惨めなことか。アリスはそう思い苦笑する。

「まあ、いつものことですけどね」

 シモンに冷たくあしらわれることは、アリスにとって、もう慣れたものだった。むしろ、あの偏屈男が優しく接してくるほうが、気色が悪い。だから、お洒落した彼女に対して、シモンが暴言を吐くことなど、彼女にとってなんでもないことだ。予想したことが予想通りになった。それだけのことだ。

 それだけのことで、アリスは少しだけ落ち込んでいるわけだが。すると──

「アリスさん?」

 彼女の名前を呼ぶ声が聞こえた。アリスが声のした方角に視線を向けると、そこには金髪で細身の男性が立っていた。

「あれ? ヴィクトルさん」

「ああ、やっぱりアリスさんですね」

 ヴィクトルは笑顔でそう言うと、アリスの側に小走りで近寄ってきた。

「どうしたんですか? ヴィクトルさんは家に帰ったと聞きましたけど」

「ええ。一度は帰ったんですが、アリスさんが誤解してないかと心配になって」

「あたしが誤解?」

「はい。えっと……隣座っても?」

「あ……はい。どうぞ」

 ヴィクトルは「ありがとうございます」と言うと、アリスの隣に腰掛けた。彼女がその様子をジッと見つめていると、その視線に気がついた彼が、少し慌てた様子で彼女にこう訊いてきた。

「すみません。もしかして、忙しかったですか?」

「ああ、いえ。先生は忙しそうにしてますけど、あたしは大丈夫ですよ。何の用なのかなって思っただけです」

 ヴィクトルは「それは良かった」と、胸をなでおろす仕草をする。そして、頭を掻きながら視線を宙に彷徨わせた。どうやら、言い難い事柄らしいと、アリスは想像した。暫くしてから、彼は意を決したのか、アリスの目を真っ直ぐ見て、話を始めた。

「彼女、亡くなったキャロルのことなんですが……」

「はあ……」

「誤解しないで欲しいのは、彼女とはもう一ヶ月以上前に、別れているということです」

「はい?」

 ヴィクトルの言いたいことが分からず、アリスは疑問符を浮かべた。ヴィクトルは、そんな彼女の反応が意外だったのか、少し目を丸くしてから、再度言い直した。

「えっと、つまり……恋人が死んだから、すぐにアリスさんにアプローチしたわけではなく、もうずっと前から彼女とは別れていて、アリスさんとお見合いする前日に、偶然彼女が亡くなったと、そう言いたいんですが」

「それは分かりますけど、それがなにか重要なんですか?」

「ですから……アリスさんへの気持ちは、亡くなってしまった恋人の代わりとか、そういった軽い気持ちなどでは決してなくて、真摯な想いだと、そうお伝えしようと」

「ああ」

 アリスはようやく合点がいき、ポンと手を打った。はっきり言って、そんなところにまで思考が回っていなかった。ヴィクトルには悪いが、彼との見合いは、顔合わせだけしてすぐに断るつもりだった。そのため、見合いに対しての彼の心境など、彼女は考えようともしなかった。

「別に誤解とかしてないですよ」

 本音をオブラートに包んで、アリスは当たり障りのない応えを返した。すると、ヴィクトルは心底嬉しそうに微笑んだ。

「良かった……変な誤解をされていないか、それが心配だったんです」

 そんなヴィクトルの表情に、アリスは、断る前提で彼と見合いをした自分に、ちょっとした罪悪感を覚えた。

(なんか、ズルズル引っ張るのも良くなさそうですね。丁度いい機会ですし、今ここで、お見合いについては、すっぱりとお断りしておきましょうか)

 そう思い、アリスは口を開こうとした。するとその直前、ヴィクトルが彼女にこう話し掛けてきた。

「それにしても、今日はびっくりしました。事情聴取にきた警察に、アリスさんのことを話したら、知り合いだというじゃないですか。えっと、シモン探偵でしたか?」

「え? ああ、そうですね。よく捜査協力とかしてますから」

「警察も強引ですよね。アリスさんがいるなら丁度いいって、こっちの事情をろくに聞かずに、アリスさんを現場に連れて行ってしまうんですから。ご迷惑だったでしょう」

「ヴィクトルさんが気にすることないですよ。先生が現場に向かったのでしたら、助手のあたしも行かないわけにはいきませんから」

「なるほど。しかしアリスさんが、探偵の助手……ですか」

 ヴィクトルは、ここで少し考え込むそぶりを見せた。そして、彼はアリスに躊躇いがちにこう訊いてくる。

「失礼かもしれませんが……どうして、アリスさんが探偵の助手を? 貴方には不釣合いな気がするのですが」

 アリスはその言葉に、衝撃を受けた。彼女は頭を抱えて、イヤイヤと首を激しく振る。

「そんな……確かに、まだまだあたしは未熟者ですが、不釣合いだなんて、そうはっきり言われると、傷ついてしまいます」

「あ……いや、そうではなくて、逆です」

「はえ?」

 ヴィクトルが慌てた様子で、アリスの勘違いを訂正した。

「アリスさんほどの魔法使いは、世界を見回しても十人といないでしょう。アリスさんの十六歳という年齢を鑑みれば、唯一と言ってもいい。なにせ、アリスさんはS級資格を持つ大魔法使いですよ。俺だって、周りからは神童と持て囃されていましたが、未だA級資格止まりなんですから」

「はあ」

「アリスさんがその気になれば、国立機関の就職だって容易だったはずです。いえ、今からだって、貴方の才能をほしがっている機関は山のようにあるはずです。それなのになぜ、探偵なんて見合わないことをしているのか、良かったら教えてもらえませんか?」

 ヴィクトルのその何気ない問いに、アリスは言葉を詰まらせた。


 アリスがシモン探偵事務所の助手となったのは、魔道学科校長のクロエ・カステラの指示によるものだった。クロエは、アリスの名前を学校に残したまま、学生の本分とも言える学業を縮小し、積極的にシモンの手伝いをするよう命令してきたのだ。クロエのその命令の意図がなんなのか、アリスも分からない。だがアリスは、それ以降、こうしてシモンの助手として長いこと働いてきた。

 ただし、探偵を止められなかったわけではなかった。アリスが望めば、それはいつでもできたはずだ。もともとクロエからも、探偵業務が辛いなら、いつでも元の学生に戻ってもいいと言われていた。シモンも、アリスが探偵を止めると言ったところで、なんとも思わないに違いない。

 それでも、こうして探偵を続けているのは何故なのか。それはアリスにも、明確に説明することができなかった。ただ一つ言えることは──

 シモンの助手になってから、学校でよく感じていたあの想いを、感じたことはなかった。


 キャロルの部屋に戻ると、アリスはシモンの姿を探した。近くにいたボードワンから、シモンが浴室にいることを聞き、そこに向かう。ボードワンの言う通り、シモンはそこにいた。彼は浴槽に腰掛け、腕を組んで瞼を閉じている。集めた情報を頭の中で整理しているのだろう。その邪魔をしてはいけないかと、シモンに声を掛けるのを彼女が躊躇っていると──

「アリスか」

 シモンが瞼を開けて、アリスに声を掛けてきた。彼女は「はい」と返事をして、シモンにぺこりとお辞儀した。

「すみません。現場を離れちゃって」

「そんなことはいい。それより──」

 シモンは彼女の謝罪を適当に受け流すと、親指で脱衣所にある洗面台を指差した。

「水を出せ」

「え? 水ですか」

「そうだ」

 シモンの意図が分からず、疑問符を浮かべるアリス。喉でも乾いているのだろうか。彼女はそんなことを考えながら、洗面台に近づいて、くいっと蛇口のハンドルを捻った。蛇口から、勢い良く水が噴き出す。

「えっと、コップに注いで持って行きましょうか?」

 アリスのその言葉を無視して、シモンが耳を掻きながら、彼女に問いかけてきた。

「どうして、手で蛇口を回した」

「は? 先生が水出せって言ったんじゃないですか」

「言ったな。そして水はもういい。止めろ」

「先生。大丈夫ですか?」

 アリスは、言いつけ通り蛇口のハンドルを閉めながら、ふと思った。

(もしかして、生命力的に老人な先生ですが、ついに肉体まで老人に?)

 アリスが、シモンに対してそんな失礼な心配をしていると、シモンは言い方を変えて、再度、彼女に質問をしてきた。

「どうして、魔法を使わなかったのか、ということだ」

 アリスは、シモンがボケていないと知り、ホッと胸を撫で下ろした。

「ああ。そういう意味ですか。そんなの使いませんよ。手で回したほうが早いじゃないですか」

「……魔法のほうが楽じゃないのか?」

「とんでもないです。大変ですよ。魔法で細かい作業をするのは、難しいんですから。前も言ったかもですが、魔法で難しいのは高出力を出すことではなく、その出力を制御するほうなんです。こんな小さな蛇口をひねるって繊細な作業を、魔法でなんかやったら余計疲れちゃいますよ」

「そんなものか?」

「そんなものです。そうですね。魔法で蛇口をひねるのは、強力な万力で豆腐を持ち上げるぐらい難しいです。力加減を間違えれば、その魔法の影響下にある物体そのものを、破壊しかねません」

「……お前にも無理か?」

「いや、それなりの魔法使いならできますよ。ただ疲れるからやらないって話です」

「絶対か?」

「絶対と言われると、なにか事情があれば別でしょうけど。まあ、日常生活においては、ほぼありえませんね」

 アリスがそう答えてやると、再びシモンは押し黙って、思案を始めた。一体何の質問だったのか。アリスはぽりぽりと、こめかみを指で掻いた後、遠慮がちに事件のことについてシモンに訊いてみた。

「あの先生。そんなことよりも、事件について何か分かりましたか?」

 シモンは少しの沈黙の後、アリスの問いに小さな声で答えた。

「ヴィクトルがキャロルを殺した。それはほぼ確定した」

「本当ですか!?」

 彼女が公園でヴィクトルと話していた時間は、三十分もなかっただろう。その間に、シモンは事件の真相にそこまで近づいていたということか。普段はエネルギー残量ゼロのシモンだが、この仕事における有能ぶりには、彼女も素直に舌をまいた。因みに、ヴィクトルがキャロルを殺したということは、アリスはその殺人鬼と二人きりで話をしていたことになるのだが、彼女には、それに対する恐怖心は一切なかった。

「それじゃあ、ヴィクトルさんがキャロルさんを殺して、一分──いえ、三十秒以内に部屋に戻ってくる、その方法を見つけたってことですよね? どうやったんです?」

 アリスは興奮気味にシモンにそう問うた。するとシモンは、あっさりとそれを否定する。

「いや、その方法は分かっていない」

 カクっと、アリスは肩をコケさせた。

「なんですか、それ」

「奴が殺したのは、間違いないだろう。だが、その手法はまだ不明確だ」

「んー……でも、確定しているなら手法なんか無視して、捕まえちゃえばいいんじゃないですか?」

「難しいな。魔法使い相手には、確固たる証拠を提示する必要はない。本来決定的な証拠となり得る凶器が、魔法であることが殆どだからだ。だが、それでも今の手札だけで、奴を追い詰めることはできないだろうな」

 シモンはそう言うと、再び瞼を閉じた。

 残された謎は、いかにしてヴィクトルがキャロルを殺害したのか。浴槽のお湯が沸騰していられる時間から逆算すると、魔法によってお湯に熱が加えられたのは、キャロルの死体がヴィクトルによって発見される直前だったことは間違いないだろう。ヴィクトルはどのようにして、キャロルを浴槽で茹で殺し、そのお湯の沸騰が収まる前に、管理人を連れて浴室に戻ってくることができたのか。

 何度も繰り返し検討したこの謎に、アリスも再び挑戦を始める。存外、こういった問題は、解答が単純なものであることが多い。何か見落としがあるはずだ。

 アリスはシモンの真似をして、瞼を閉じた。 思考をぐるぐる回して、叩いて、こねて、混ぜて、振り回して、千切って、投げて、また一つに纏めて、そんなことを繰り返す。すると彼女の脳裏に、ある考えが閃いた。

「先生! 分かりましたよ」

 アリスは瞼を開けると、勢い込んでシモンにそう言った。シモンは面倒くさそうに瞼を開け、片眉をピクリと動かした。話してみろ、ということだろう。彼女は人差指をピンと立てて、胸を張って答えた。

「ヴィクトルさんは、浴槽のお湯をすっごく熱くしたんです。だから、後から管理人さんと戻ってきたときも、まだ浴槽のお湯が冷めてなくて、沸騰してたんですよ!」

 沈黙。シモンの鋭い半眼が、アリスをジッと射抜いている。アリスは指を立てたまま、タラリと汗を垂らした。視線をウロウロと彷徨わせながら、口を引きつらせ、言い訳がましく彼女は言った。

「えっと……冗談です……よ。ちょっと……雰囲気を和まそうとしたんです……はは」

 ガバッとシモンが立ち上がり、大股でアリスに近づいてきた。アリスは「ぎゃああ」と悲鳴をあげて、防御の姿勢をとる。

「おおおお……怒らないでくださいよ! アリスちゃんの可愛い可愛い冗談じゃないですか! ぎゃああ! 暴力反対です!」

 シモンがアリスの頭を、ガシッと掴んだ。アリスが恐怖でガタガタと小刻みに震えだす。そして──

「よくやった」

 シモンが優しく、アリスの頭を撫でた。

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