春を待つノート
二月の空はまだ冷たかった。
朝の川沿いには薄氷が残り、吐く息は真っ白に広がって、指先の感覚もすぐに奪っていく。
けれど、その冷たさの中にもほんのかすかな変化があった。
木かげ町の川沿いの土手には、まだ固いけれど、小さな蕾がふくらみはじめていたのだ。
柚木つむぎはマフラーに顔をうずめながら歩いていた。
鼻の頭が赤くなり、耳も冷たさでじんじんしていたが、心の中はどこか軽かった。
「寒いなぁ……でも、なんか空気が春っぽい」
つむぎが息をはきながら言うと、隣を歩くはるとも頷いた。
「わかる。風が少しやわらかい」
二人はゆっくりと歩みを進め、やがて町の広場にある大きなクスノキの下にたどりついた。
冬を過ごす木は、まだ枝を裸にして空に立っている。
けれど、幹の奥には確かな命が眠っているようで、その姿は静かな強さに満ちていた。
つむぎはリュックから分厚くなったノートを取り出した。
表紙の角はすっかりすり減り、ページの端には色とりどりの花びらや葉が貼りつけられている。
春から今日までの記録が、そこにぎっしりと詰まっていた。
「……いっぱい書いたね」
はるとがページをめくりながらつぶやく。
桜の声、川のひかり、夏祭りの灯、星のかけら、金木犀の道しるべ、どんぐりの手紙、落ち葉の精、雪だるまの約束、年の火……
それぞれの季節が、鮮やかな記憶となって紙の上に残っていた。
「うん。でも、まだまだ続きがあるんだよ」
つむぎは胸を張り、きらきらとした目で答えた。
そのとき、クスノキの枝がざわりと揺れた。
冷たい風の中で、ありえないはずのひとひらの葉がふわりと舞い落ちる。
そして、風に混じって声が聞こえた。
『よくやったね、つむぎ。そして、はると』
「くすのき様……!」
二人は思わず顔を上げた。
大樹は月明かりを浴びて、静かに佇んでいた。
けれど確かに、あの太い幹から、深い声が響いてきたのだ。
『四季をめぐり、町の声を聞きとどめてくれた。おかげで町の記憶は絶えずにすんだよ』
「町の記憶……」
つむぎが繰り返す。
『そう。この木かげ町は、ひとの想いと自然の声でできている。記録してくれる者がいなければ、やがて忘れ去られてしまうんだ』
くすのき様の声は風の音に混じりながらも、力強く響いた。
葉を落としてもなお、枝の先に宿る見えない息吹のように、その言葉は確かな重みを持っていた。
『だから、これからも続けてほしい。春がまた来るように、君たちの記録もつながっていくのだから』
その言葉に、つむぎは胸をいっぱいにして強く頷いた。
「はい! ぜったい書き続けます!」
はるとも少し照れくさそうに笑いながら、後頭部をかいた。
「じゃあ俺は……助手としてな」
くすのき様はやわらかに枝を揺らし、それから静かに沈黙した。
広場には再び冬の静けさだけが残り、けれどふたりの胸には大きなあたたかさが残っていた。
◇
帰り道。
空にはまだ冬の星が瞬き、地面には白い霜がきらりと光っていた。
遠くの山からは雪解けの水が細い川筋をつくり、そのせせらぎが小さく響いてくる。
耳を澄ますと、早春の鳥の声がかすかに聞こえた。
つむぎはノートの最後のページをひらき、そこに大きく書いた。
『春を待つノートは、まだ続いていく』
書き終えたとき、胸の奥にぽっと灯がともるような感覚があった。
隣で覗き込んでいたはるとも、うんうんと大きく頷いた。
冬はまだ終わっていない。けれど、確かに春はすぐそこまで来ている。
季節はめぐる。
春がまたやってきて、きっと新しい出会いと不思議が待っている。
二人は並んで歩きながら、胸の奥にひそやかなあたたかさを感じていた。
その歩みは、木かげ町の未来へと続いている。
木かげ町の物語は、まだまだ終わらないのだ。




