42.屋根裏部屋
「ナージャ、そろそろ食事の時間だ。手伝えよ」
「ここから出ていいの?」
「俺と一緒ならな。もちろん、逃げられると思うなよ。この屋敷の人間は当然のことながら、町の者たちだってみんなお前に力を貸そうとはしない」
ジュリアンが屋根裏部屋に顔を覗かせ、ナージャに声をかけた。
気がつけばもう陽はかなり傾いている。
オパールはジュリアンが運んでくれた本に夢中になって時間の経過を忘れていた。
ナージャはその間、オパールのわずかばかりの衣装を整えたり、繕い物をしてくれていたようだ。
「お屋敷の人たちは協力的に、町の人たちは脅されて、かしら?」
「余計な口を挟むなよ、奥様」
ナージャはどうやらオパールの身の回りを世話するためにも残されたらしい。
幸いなのは屋根裏部屋にはベッドが二台あり、寝食をナージャとともにできることだった。
できる限りナージャとは離れたくない。
「ナージャ、この部屋を出たら絶対にジュリアンから離れないで」
「ですが奥様、ジュリアンは――」
「この屋敷の中では一番に信用できる相手だから。不本意だけどね」
「……わかりました」
「早くしろよ」
オパールとナージャの会話に苛立ったようにジュリアンが割り込む。
ナージャもまた不本意そうではあるが、オパールの心配を察して頷いた。
二人が出ていった後、オパールは立ち上がって小さな窓から外を眺めた。
(残念ながら飛び移れそうな木はないわね……)
もちろんナージャを置いて逃げるつもりはないが、つい考えてしまうのは仕方ないだろう。
木登りはオパールの大好きな遊びだった。
だがこの屋敷では一番高い木でも三階部分までで、屋根裏には届いていない。
しかもあの木に登れても大人の体重では支えてくれるのは二階くらいの高さまでだ。
オパールは窓に手を伸ばして開けようとした。
ガタガタと音がするのは、それほど古い建物ではないので建付けが悪いのだろう。
主寝室では特に気にならなかったが、屋根裏部屋ということで手を抜いたことがわかる。
「木に飛び移って逃げようなんて無謀なことは考えるなよ」
「……飛び移る、というより飛び降りることになるわね」
戻ってきたジュリアンの馬鹿にしたような言葉に、オパールは振り返って答えた。
窓の外に意識を向けていたので、鍵を開ける音には気付かなかったらしい。
それからふと、本当にそうだろうかと思う。
「奥様、お食事はなかなかのものですよ」
「ありがとう、ナージャ」
入ってきたナージャの持ったトレイにはしっかり料理が載せられている。
オパールはお礼を言いながらも、ジュリアンが持っているトレイに目を向けた。
トレイには空の器が何枚かとグラスに水差し。
ジュリアンはトレイをテーブルに置くと、もう何も言わずに出ていった。
同時に鍵のかかる音がする。
「先ほどは鍵をかけなかったのね……」
「あ、そういえばそうですね! 奥様は逃げることができましたのに、うっかりしてました……」
オパールの呟きに、料理を並べていたナージャがはっとして残念そうに答えた。
だがオパールは笑って首を振る。
「わかっていても逃げたりしないわ。さっきは試されたのよ」
「試された?」
「ええ。私がナージャを置いて逃げるかどうか。逃げる隙を狙ってるかどうかをね」
扉から逃げようなどと考えてもいなかったオパールは苦笑した。
窓からとしか考えなかった自分がおかしい。
しかしナージャはやはり自分が足手まといになっていることに落ち込んでいるようだ。
「やっぱり、私がいなければ奥様はもっと身動きが取れましたのに……」
「馬鹿なことを言わないで。さっきも言ったでしょう? ナージャがいてくれるから、私は無茶をしないでいられるの。ナージャがいてくれるから、私は今もこうして平常心でいられるのよ」
オパールはナージャの手を握り、励ますように微笑んだ。
心配しなくても大丈夫なのだと、もっとナージャを勇気づけたいが今はそれも難しい。
あと数日もすればきっと助けは来てくれる。
オパールはそう確信していたが、口にはしなかった。
それからは二人で食事を分け合い、デザートまで楽しんで夜は早めに就寝することにした。
「ナージャ、窓はそのままにしてくれる?」
「お寒くありませんか?」
「大丈夫よ。むしろ昼間の日差しのせいか、この部屋は暑いからちょうどいいくらい」
「そうですね」
窓を閉めようとしたナージャに声をかけ、オパールはベッドに横になった。
高い場所にあるせいか、虫が入り込むことはほとんどなく、わずかな隙間から気持ちいい夜風が入ってくる。
ナージャは疲れていたのだろう。
しばらくすると可愛らしい寝息が聞こえてきたので、オパールはナージャが眠れていることに安堵した。
(私が〝駆け落ち〟してから二日。騎士が捜索に出たことはもちろん、コールがコナリーに慌てて私の置き手紙を届けるでしょうから……王都に――アレッサンドロ陛下に知られるのが七日もあれば十分かしら? いいえ、きっともっと早いわね。噂として国中に広まるのが七日ってところかしら。私をここに閉じ込めるよりも先に、噂は出発しているはずだものね)
オパールは軽く息を吐き出し、頭の中を整理しながらこれからのことを考え始めた。
アレッサンドロがこの駆け落ち話を信じないことはわかっている。
むしろ先に予想していたくらいだろう。
ただオパールがボッツェリ公爵領へ向かって、鉱山に出向かないわけがないことはクロードもわかっていたはずだ。
それなのに何も言ってこないということは――。
オパールはかすかな物音を聞きつけ、はっと体を起こした。
風の音かとも思ったが、やはり違う。
ベッドからそっと抜け出したオパールは窓へと近づこうとして息を呑んだ。
悲鳴を上げないために両手で口を押さえる。
窓の外に人影が見えたかと思うと、その影は窓をゆっくり開いて中へと入ってきたのだ。
「――やあ、オパール。久しぶりだね」
星明りしかない暗闇の中でも間違えるはずはない。
小さな小さな囁きはいつもの穏やかで少し低い優しい声。
ちょっと街で会いましたとでもいうような呑気な言葉に、オパールは笑えばいいのか泣けばいいのかよくわからなかった。
それでも考えるより先に、オパールはクロードの胸に飛び込んだのだった。




