16.復帰
「まあ! 今日は何て素晴らしい日なのかしら! 私たちの許にマクラウド公爵夫人が帰ってきてくださるなんて!」
「……今はルーセル侯爵夫人です」
「あら、そうでしたわね。それで侯爵はどちらに?」
夜会の主催者である子爵夫人は太った体を揺らしてオパールの背後を覗き込んだ。
子爵夫人の大きな声は会場中に響き渡り、皆の注目を浴びる。
オパールは笑顔を保ったまま子爵夫人の真意を測るために表情を探ったが、悪意は見られない。
どうやら何も考えていないらしいが、意外とこういうタイプのほうが扱いは難しいのだ。
「主人は何かと忙しい人ですから、机の前から離れられなくて……。ですから、こうして招待もされていないのに押しかけてしまいました。ご迷惑でした?」
「とんでもない! いつだって大歓迎ですわ!」
オパールがほんの少し寂しげに答えれば、子爵夫人は同情に表情を曇らせた。
口が驚くほど軽いことを除けば比較的善良な夫人を騙すのは心苦しかったが、このオパールとの会話でしばらくは社交界の人気者になるのだから悪くはないだろう。
そして招待状を持たないオパールを通したことを、この家の執事が咎められることもないはずだ。
突然の訪問を弁解する問いかけに慌てて否定する夫人を見ながら、オパールはほっと安堵した。
ヒューバートはオパールとクロードが祖国に帰る予定だったことは誰にも言わなかったようだ。
道中も特に知り合いに会うこともなかったせいか、オパールの帰還は社交界に伝わっていない。
そこでオパールはわざわざ手紙を誰かに書いたり公園を散歩したりなどして存在をアピールするのではなく、夜会に突然参加することを選んだのだ。
社交界は華々しく毒々しく、話題性のあるものに大半の人々は群がる。
その予想通り、子爵夫人から離れたオパールの許には多くの人が集まってきた。
皆がオパールをもてはやし、少しでも近づこうと必死になっている。
オパールは穏やかに微笑んで応じながらも、気持ちはかなり冷めていた。
八年前は悪い噂のせいで女性たちからは蔑まれ、男性たちからは卑猥な言葉を投げつけられもした。
ただその身分と財産ゆえに招待が途切れることはなく、オパールも意地になって出席していたのだが、今は愚かだったと思う。
そこで今でも何も変わっていないことに気付いた。
オパールはあの時以上の地位と財産を手に入れているのだ。
元マクラウド公爵夫人で現ルーセル侯爵夫人。
財産については今もどんどん増え続けている。
八年前は自分の名誉のために戦っているつもりだった。
今はベスの名誉のため――というよりも、きっと自己満足のためだろう。
こんなことをしなくても、ベスに生活の援助をすることはいくらでもできる。
そう考えた時、ベスの苦悩の元凶であるキーモントがオパールに声をかけてきた。
「久しぶりだね、侯爵夫人。僕を覚えている?」
「……ええ。お久しぶりです、キーモント卿」
「ちょっとだけ考えたね? 今の間が証拠だ」
少し間が開いたのはあまりに馴れ馴れしいキーモントの態度に驚いたからだが、続いた言葉にオパールはさらに驚いた。
ヒューバートと学友のキーモントは三十代も半ばなのに、あまりに幼稚すぎる。
しかもオパールとは八年前に一度どこかの舞踏会で踊っただけなのだ。
昔も自惚れが強いと思ったが、現在はそれ以上のようだった。
「キーモント卿、八年も前に一度踊ったきりの相手を思い出すのはなかなか大変なことでしょう?」
「では、はっきり思い出してもらうために、もう一度踊らなければなりませんね」
キーモントに嫌味は通じず、オパールは断る間もなく強引にダンスフロアへと連れ出されてしまった。
そういえば、昔もこんなふうに強引な態度に諦めて踊ったことまで思い出す。
とすれば、ベスも最初は抵抗したが、結局は折れてしまったのかもしれないなと考えていたオパールの耳に、信じられない言葉が囁かれた。
「――何ですって?」
「だから、寂しいなら俺が相手をしてやってもいいと言っているんだ」
「寂しい?」
「ヒューバートに離縁され、次に結婚したのがよぼよぼの爺さんだったら、そりゃ退屈もするよな? 俺なら楽しい思いをさせてやれる。きっとヒューバートとも経験したことがないだろうよ。あいつは堅物だからな」
今夜は騒ぎを起こすつもりはなかった。
調査書からはわからないこともあるだろうと、今のキーモントという人物を実際に会って知るために、オパールは招待もされていないこの夜会に押しかけたのだ。
ヒューバートにもマリエンヌ嬢にも会わないほうがいいだろうと、前もって彼らの予定も調べた。
それなのに我慢できなかったのは、怒りよりも嫌悪と吐き気のためだ。
オパールは曲の途中にもかかわらず、キーモントからぱっと離れて出口へと向かった。
「侯爵夫人!?」
キーモントの驚きを無視し、踊る人々の邪魔にならないように歩く間に好奇の視線に晒されても足を止めなかった。
八年前にこれほどの嫌悪を覚えなかったのは、お互い若かったというよりも、自惚れが強くともキーモントがまだ好青年の域にかろうじて入っていたからだろう。
別室で控えていたナージャと合流し、屋敷の外に出たオパールはほっとした。
すると、多少は待たされることを覚悟した馬車がすぐに目の前にやって来る。
そして馬車に乗り込み驚いた。
「クロード!?」
「やあ、オパール。思っていたより早かったね?」
「それは……それよりも、どうしてここにいるの?」
「もちろん、オパールに早く会いたかったからだよ」
「あら、私はお邪魔ですね」
オパールが嬉しく思いつつも疑わしげな視線を送ると、クロードはわざとらしく傷ついた表情になった。
だが一人ぼやいたナージャに微笑みかける。
「いつもすまないね、ナージャ」
「楽しんでますから」
「あら……」
ナージャはにやりと笑って返すと、向かいの席に座って目を閉じた。
聞いていませんという仕草だが、しっかり聞いているだろう。
それでもナージャになら聞かれてもかまわないので、クロードは続けた。
「きっとオパールなら、何か騒動を起こすと思ってね。いつでも駆けつけられるようにと思ったんだけど、必要なかったようだ」
「失礼ね。騒動なんて起こしていないわ。……今回はただダンスの途中で抜けてきただけ」
「キーモントをフロアに置き去りにして?」
「どうしてキーモント卿だってわかったの?」
「オパールはどうでもいい相手に感情を動かされたりしないからかな。今夜はキーモントに会いに行ったんだから、オパールが怒っている原因はキーモントしかいないだろう?」
クロードの笑顔と低く穏やかな声を聞いていると、オパールのもやもやした気持ち悪さが消えていく。
ほっと息を吐いたオパールはクロードの肩に頭を預けた。
「ありがとう、クロード」
「うん。好きだよ、オパール」
「脈絡がないわ」
「そう?」
「でも、私も好きよ」
「知ってるよ」
「……じゃあ、これは知ってる? ルーセル侯爵はよぼよぼのお爺さんらしいわ」
このままの話題を続けるのは恥ずかしく、オパールは話を逸らした。
するとナージャは噴き出し慌てて口を押さえ、クロードは諦めたようにため息を吐く。
「未だにその情報を信じている人がいるのか」
「以前は私もそう信じていたわ。ルーセル侯爵はご年配の方だって」
「代理人は祖父の頃から変わっていないからね。ソシーユ国内でもまだ祖父や伯父が亡くなったことを知らない人もいるようだし……そうか。ということは、オパールはかなり年上の相手と再婚したことになっているのか」
「ええ、そうみたい。地位と財産を手に入れるためにね」
ヒューバートはルーセル侯爵の正体についても誰にも話していないらしい。
元々社交界での付き合いを好まないので当然と言えば当然だった。
「すごいな。オパールはいったいどこまで上り詰めるつもりなんだろう?」
「あら、次はアレッサンドロ国王陛下を狙うつもりよ」
「じゃあ、俺は捨てられてしまうんだ。悲しいな。それでも愛しているよ、オパール」
オパールが冗談を言えば、クロードも乗ってくれる。
しかし、その後に続いた告白に、オパールは答えることができず顔を逸らした。
「あれ? 今度は返してくれないのか?」
「いつも返ってくるなんて期待しないで」
「そうか、残念だな」
ちらりと視線を向ければ、クロードは楽しそうに笑っている。
クロードはオパールにとことん甘いが、そんなクロードにオパールはとことん弱い。
つんと顎を上げていたオパールは堪えきれずに笑い、クロードはさらに声を出して笑った。
そんな二人をナージャはしっかり目を開け嬉しそうに見ていたのだった。




