8.舞踏会
「な、何を……」
「今まで、多くの愚かな男性を見てきたけれど、あなたは救いようのない愚か者ね」
唖然とするエリクにそう言い放つと、オパールは部屋から出ていこうと立ち上がった。
途端に腕を摑まれる。
「何て女だ!」
「何て男かしら」
怒りに我を忘れたらしいエリクはオパールを睨みつけた。
しかし、オパールが摑まれたままの腕に視線を落として同じような言葉を繰り返すと、エリクは慌てて腕を放す。
まだそれくらいの理性は残っていたらしい。
「この濡れた服をどうしてくれるんだ?」
「あら、心配なさらなくても、あなたのおっしゃる普通の女性ならハンカチくらいは持っているでしょうから、お借りになったら? 残念ながら、私はあなたのような方にお貸しするハンカチは持っておりませんので」
「このような姿で皆の前に出られるものか!」
「そうでしょうか? あなたのおっしゃる普通の女性――身の危険を感じても騒がず、空腹でも食事をとらず、跡継ぎができない責任を一身に背負い、離縁され無一文で放り出されても黙って受け入れる、ある程度の条件に合う貞淑な女性なら大目に見てくれますでしょう? いえ、男爵の御身を心配こそすれ、意見を持つなどあり得ないでしょうから問題ありませんわ」
「何を馬鹿なことを……」
言いかけて、エリクは口を閉ざした。
次いで顔を赤くする。
オパールの言葉の一つ一つが自分の投げつけた言葉だとようやく理解したのだろう。
「それは違う――」
「エリク、これ以上はもう何も言うな。彼女の言う通り、愚かさを露呈するようなものだ」
弁解しようとしたエリクを遮ったのは、オパールの知らない男性だった。
だがその正体はすぐにわかった。
「兄さん、なぜそんなことを……」
「お前と彼女じゃ格が違うからだよ」
「そんなことは――」
「黙れ、エリク。――ホロウェイ嬢、弟が大変失礼した」
「……失礼なのは、あなただと思うわ。アマディ子爵?」
問いかけるように名前を呼んだのは、まだ紹介されていないからだ。
すると、アマディ子爵と思われる男性は笑み浮かべ、仰々しくお辞儀をした。
「確かにおっしゃる通りだ。私はアマディ子爵テューリ・バポット。愚弟ともども失礼いたしました」
「……オパール・ホロウェイです。ですが私が申し上げているのは、紹介されていなかったからではありません。子爵のお言葉に対してです」
「私の?」
オパールの発言を聞いて、にこやかだったテューリの表情が訝しげなものに変わる。
しかし、オパールは笑顔で頷いた。
「あなたのおっしゃる〝格〟とは何でしょう? もし私が、あなたの弟さんより〝格〟が劣っていればどうなさったのかしら? 弟さんが失礼なことを言ったにもかかわらず放置? それとも助けに入った? どちらにしろ、最低な行動ですわね。弟さんが私を責め立てる間、背中を向けて呑気にお酒を飲んでいたんですもの。私の〝格〟が何にせよ、二人とも女性に対する態度でないのは確かだわ」
席についてすぐにテューリが部屋に入ってきたことに、オパールは気付いていた。
だがエリクはどうやら怒りに駆られ、周囲に目を向ける余裕がなかったようだ。
そしてエリクは今もまた、オパールのテューリに対する態度に腹を立てているらしい。
何か言いかけて口を開いたものの、テューリに手で制されてしまう。
「申し訳ない。悪気はなかったのだが、不快な思いをさせてしまったようだ」
謝罪にもならないテューリの言葉を聞いて、オパールの心はすっと冷めていった。
その心とは逆に、オパールの笑みが再び深まる。
「悪気はなかった? その言葉で、行動で、どれだけ相手が傷つくか考えたことがありますか? 悪気のない噂、悪気のない遊び、悪気がなければ全て許されるとでも? 『悪気はなかった』なんて言葉は何の免罪符にもなりません。ですがもし、ご自分の言動に悪気がなかっただけで責任を取ることができないのなら、その地位も名誉も返上なさってはいかがですか? 申し訳ないなどと建前だけの謝罪をされるのではなく」
エリクの愚かさに腹が立ち、テューリの傲慢さにオパールは我慢ならなかった。
十年近く前、紳士と呼ばれる男性たちの悪気のない遊びや賭けの対象にされ、オパールは何度も傷つけられたのだ。
たった一度の醜聞の代償は大きかった。
そして未だにあの時の傷がついてまわる。
エリクとテューリは今までこのような物言いをされたことがないのか、珍獣でも見るような目でオパールを見ていた。
侯爵家の跡継ぎとして育てられたテューリと、その弟であるエリクはきっと、支配者であれと教え込まれたのだろう。
おそらく八年前の疫病と王位争いでは、その傲慢さが強さに変わり、家とは関係なく爵位を授けられるほどの力になったのだ。
それが二人の自信になったのかもしれないが、これからの時代に貴族特有の傲慢さは邪魔になる。
できればクロードとテューリやエリクとの友情を壊したくはないが、自分の信念を曲げたくもない。
オパールは顔から笑みをすっと消して、冷ややかに告げた。
「クロードとの友情はどうぞ続けてください。ですが、私の前にはできるだけ現れないでください。私もできるだけあなた方を避けますので」
オパールが出口へと振り返った時、ちょうどクロードが入ってくるところだった。
だが声は聞こえていたのか、素早くオパールの隣に立つとエリクとテューリに厳しい眼差しを向ける。
「俺はオパールを支持するよ。だから招待しておいて悪いが、結婚式には来ないでくれ」
きっぱり宣言したクロードは、エリクとテューリが何か言う前に驚くオパールを促して踵を返した。
オパールは二人に挨拶もせず素直に従う。
「……ごめんなさい」
「オパールの悪いところは、負わなくていい責任まで負おうとすることだよね。だから謝らなくていいことまで謝ってしまう」
「クロード……」
ため息交じりに言うクロードはどこか疲れて見える。
先ほどの自分の主張が間違っていたとは思わないが、もっと違ったやり方があったのではないかと――クロードの味方にケンカを売ってしまったとオパールは後悔した。
「お友達との間に、いらない波風を立ててしまったわね。……ごめんなさい、クロード」
「だから、謝ることじゃないだろ? もし誰かが加わったことで壊れる友情なら、それだけの関係だよ。彼らは仕事はできる。だからといって、無神経さの言い訳にはならない。二人とも身分に囚われた傲慢な考えを捨てなければ、この先の時代の変化にはついていけないだろうからね」
「でも……」
「心配しなくても、彼らだって馬鹿じゃない。何が問題かは気付くさ。偉そうなことを言っているけど、俺自身だって変わらないといけないんだ。ここ数年、俺たちは遮二無二進んできたからこそ、成し遂げることができたものもあるが、いつの間にか周りが見えなくなっていたと思う。この閉鎖的な社会に風穴を開けなければ、いずれ腐って崩れてしまうよ。もしくは外から壊されてしまうだろうね」
「……じゃあ、私は穴を開ければいいの?」
「いや、オパールは好きなようにすればいいんだよ。陛下もそれを望んでいらっしゃっただろう?」
一昨日の謁見でのアレッサンドロの思惑に、当然だがクロードも気付いていたのだ。
後悔するのはオパールの性には合わない。
そんな暇があれば失敗を活かして次につなげるべきだろう。
そう思い直したオパールは力強く頷いた。
「その点は任せてくれて大丈夫よ」
そこでふと、自分たちが今どこに向かっているのかに気付いて慌てた。
「クロード、会場に戻らないの?」
「ああ、もう義務は果たしたからいいよ」
「だけど、陛下にご挨拶もしていないわ」
「大丈夫だよ。陛下もわかっていらっしゃるから」
「ご両親は?」
「母さんも義理は果たしたと言って、父さんと先に馬車に戻っているよ」
「それじゃ、あまりお待たせしていないといいのだけれど……」
「気にしなくていいよ。二人一緒なんだから、むしろ邪魔しないでくれって言われるかも」
クロードはわざとらしくうんざりして見せ、オパールは笑った。
そして馬車に到着すると、やはり男爵夫妻はすでに乗って待っていた。
「あら、もっとゆっくりしてくれてよかったのに」
男爵夫人の言葉にクロードは「ほらな?」と目配せし、オパールは唇を噛んで笑いを堪えた。
もうすぐこの温かい家族の一員になれる。
オパールは嫌な気分を振り払い、明後日に控えた結婚式を楽しみに待つことにしたのだった。




