3.王城
「よろしければ、私のことはエリクと呼んでいただけませんか?」
「ご遠慮申し上げます、プラドー男爵。私のことはホロウェイのままでけっこうですわ。すぐにルーセル夫人とお呼びいただくことになりますもの」
「そうですか……」
エリクに対して、オパールは仲良くなるつもりもなければ、クロードとの仲を邪魔されるつもりもないとはっきり意思表示した。
すると、黙って聞いていたクロードが噴き出す。
「エリク、お前がどう思っていようと私はオパールと結婚するつもりだし、オパールもお前にどう思われても気にしないよ。だから私の友人でいるつもりなら、オパールを歓迎するか、何も口出しをするな」
「誤解だよ、クロード。とはいえ、誤解させたのなら謝罪するよ。ホロウェイ嬢、大変失礼いたしました」
「いいえ、かまいませんわ。気にしておりませんから」
クロードは笑いながらもきっぱりどちらを取るか――オパールを取ると告げた。
さすがにエリクもクロードのことはよくわかっているらしく、謝罪の言葉を口にする。
オパールがにっこり笑って答えると、エリクはついっと顔を逸らしてクロードに向き直った。
「そうだ、肝心なことを忘れていた。クロード、バルバ卿が呼んでいたぞ」
「悪いが、私はここから離れるわけにはいかないよ」
「陛下は午前中の予定が長引いてしまわれたらしく、先ほど王城に戻っていらしたばかりだから、まだお呼びはかからないさ。だからバルバ卿の許へ行ったほうがいい。どうやら明後日の舞踏会はお前たちの婚約を祝うためでもあると陛下がおっしゃっているらしいぞ。その詳細じゃないか?」
「また、あの方はそんなことを……」
エリクの言葉にクロードは迷惑そうに答えた。
それでもエリクが説得するように続けると、クロードは大きくため息を吐く。
バルバ卿とは、この国の貴族院の議長を務めている伯爵のことだろう。
クロードの味方の一人のはずだ。
「クロード、私は大丈夫だからいらっしゃったら? ここで私はお茶をいただいているわ」
「しかし……」
「心配するなよ、クロード。それまで私が彼女のお相手をしているよ」
ためらうクロードを後押しするようにエリクが言い添えたが、クロードはそれが心配だと言わんばかりにオパールを見る。
オパールは思わず漏れそうになる笑いを堪えたが、クロードにはしっかり見抜かれたらしい。
わざとらしく困惑の表情になったクロードは、次いで三度目のため息を吐いた。
「まったく……気が休まる暇もないよ」
「気負いすぎよ、クロード」
気遣うような優しい笑みをオパールが浮かべても、クロードは騙されない。
それでも四度目のため息を吐いて、クロードはエリクに向き直った。
「エリク、私は君のことを友人だと思っている。だから、大切なオパールとの時間を許すんだ。頼むぞ」
「心配するなよ、クロード。ホロウェイ嬢には付き添いだっているし、不埒なことはしないよ」
エリクは部屋の隅に静かに控えるナージャに向けて片目をつぶってみせた。
ナージャはいつもの態度とは違って、恥ずかしそうに俯く。
侯爵夫人の許でのナージャの修行の成果はしっかりあったようだ。
「馬鹿なこと言うなよ、エリク。――じゃあ、すぐに戻ってくるよ、オパール」
「ええ、いってらっしゃい。ここでおとなしく待っているわね」
「……ああ」
クロードはエリクを窘めると、オパールに言い聞かせるように声をかけた。
素直にオパールは答えたはずなのに、クロードは怪しむように目を細めて頷く。
そしてクロードが出ていくと、入れ違いにメイドがお茶を運んできたのだが、エリクがいることに驚いたようだ。
「お茶は自分たちで淹れるから、もうここはいいわ。ありがとう」
「……かしこまりました。失礼いたします」
かすかに落胆した様子でメイドは頭を下げた。
部屋から出ていくときに名残惜しそうにエリクにちらりと視線を向けたことで、オパールは理解した。
どうやら目の前に座った男爵は女性に人気らしい。
「プラドー男爵はご結婚なさっていらっしゃるのですか?」
「……独身ですよ。私は妻に対しても恋人に対しても、ある程度は求めるものがありますので。たとえば、貞淑さとか」
「まあ……」
オパールは純粋に好奇心で訊いただけなのだが、エリクは歪んで捉えたようだ。
かなり嫌味を含んだ返答に、オパールは微笑んだだけで特に何も言わなかった。
このタイセイ王国ではおそらくオパールの昔の〝ふしだら〟な噂が広まったままなのだろう。
悪い噂というものはあっという間に広がるが、いい噂はなかなか広まらない。
オパールにとっては今さらどうでもいいことではあるが、エリクの嫌味を聞いたナージャは違ったらしく、カップを心なしか乱暴にテーブルに置いた。
反論しなかっただけ成長したと言える。
「ありがとう、ナージャ。もう大丈夫よ」
「ああ……ありがとう」
エリクが驚いているのは、オパールが侍女にお礼を言ったことにか、ナージャの怒りを感じたせいかはわからない。
ナージャはオパールの言葉に含まれるものを察して、頭を下げるとまた部屋の隅へと移動する。
それからお茶を一口飲んだオパールはカップをソーサーに戻すと、エリクに再び問いかけた。
「このような質問をするのは失礼だとは思いますが、クロードとはいつ頃お知り合いになったのですか?」
「……四年ほど前です。クロードは元々兄のテューリの友人だったのが、私も留学先から戻ってきて仲良くなったんですよ」
「ああ、アマディ子爵の弟さんなのですね?」
「兄をご存じなのですか?」
「お名前だけ。クロードからよく聞いておりますので」
オパールのこの言葉に、エリクはむっとしたようだった。
要するに「クロードからあなたの名前は聞いたことがない」と告げているのだ。
正直に言えば、テューリの名前からエリクの名前も何度か聞いたことがあったことは思い出した。
しかし、それを言うほどオパールは優しくない。
「それでは、男爵は……二十六歳になられるのかしら?」
「その通りですが、何か問題でも?」
「いいえ、別に何も」
オパールがにっこり微笑むと、エリクは胡散臭そうに見返した。
それでもオパールは意に介せず、優雅にカップを口へと運ぶ。
エリクはちょうどオパールが結婚した時のヒューバートと同じ年齢なのだ。
あの頃のヒューバートに比べればまだ可愛いかなと考えていることをエリクが知れば、きっと怒るだろう。
そう考えるとおかしくなって、オパールは笑いを誤魔化すためにもう一度お茶を飲んだ。
そしてクロードが昔、弟がほしいと言っていたことを思い出した。
自分が三男でいつも兄たちにこき使われるので、弟ができたら優しい兄になるのだと。
その時のオパールは自分が男でないことを残念に思い、妹ではダメなのかとがっかりしたのだ。
「――貴女は本当にクロードと結婚するつもりなのか?」
「はい?」
幼い頃のことを思い出していたオパールは、エリクの言葉を聞いていなかった。
すると、エリクはオパールを睨みつける。
「クロードは尊敬すべき素晴らしい男だ。だからもっと相応しい女性はいくらでもいるのに、なぜ貴女などを選んだのか理解に苦しむ」
「ええ、本当にクロードは素晴らしい人よね」
「だったらなぜ身を引こうと思わない? クロードのことを本気で想っているなら、彼のために何でもするべきだろう?」
オパール自身、確かにクロードにはもっと若くて後ろ盾になるような家柄の女性がいいとは考えていた。
しかし、オパールも年齢と結婚歴を除けばかなり好条件である。
このタイセイ王国では弱い基盤でも、祖国ソシーユ王国では強力な後ろ盾を持っており、資産家でもあるのだ。
その事実を見過ごしているのか、あえて見ようとしないのかはわからないが、エリクの言葉は感情論でしかない。
この国でのあれこれはオパール自身も悩んではいたが、エリクのこの言い方には腹が立った。
「……ずいぶん甘いのね」
「何がだ!? 甘いのは貴女のほうだ! この国では貴女は歓迎されない! 貴女の祖国のように好き勝手できるとは思わないことだ!」
思わず呟いてしまったオパールの一言が火をつけたようで、エリクは怒鳴り始めた。
まるで八年前の再現のようで、うんざりしたオパールからため息が漏れる。
(この年頃の男性って、皆こんな感じなのかしら? 面倒だわ……)
今はもう懐かしいとすら思えるヒューバートの怒鳴り声が現在と重なった。
そこでふと昨日受け取った手紙のことを思い出す。
(そういえば、お父様からの手紙に公爵様のものも同封されていたんだわ)
あの時は父からの手紙だけ読んで、先に犬のクロードの散歩に行ったためにすっかり忘れてしまっていた。
今頃いったい何の用事なのかと訝しんでいると、エリクのいっそう大きな声が聞こえた。
「おい! 聞いているのか!?」
「――それほど大きな声を出していれば、嫌でも聞こえるさ」
「クロード!」
「あら、クロード。思ったより早かったのね?」
「……ああ、陛下のご準備が整ったようだから、オパールを呼びにね。さあ、行こうか?」
「ええ」
いつの間にか部屋に入ってきていたクロードに、エリクは驚きの声を上げた。
オパールも内心では驚いていたが、平静を装って笑みを向ければ、クロードも調子を合わせてくれる。
「では、ナージャ。しばらく待っていてね」
「かしこまりました」
「エリク、もう用はないだろう?」
「あ、ああ……」
「さようなら、プラドー男爵。楽しかったわ」
立ち上がったオパールがナージャに声をかけると、クロードも少し突き放した調子でエリクに声をかけた。
そこでオパールは礼儀正しく挨拶をしたが、エリクは不機嫌に眉を寄せる。
だがクロードはもう何も言わず、オパールを促してエリクに背を向けたのだった。




