26.再会
久しぶりに伯爵領に戻ったオパールは、子供の頃から慣れ親しんでいる木に登り、遠くを眺めていた。
だが、その目に映るのは長閑な風景でも、頭の中は別のことで占められている。
一昨日、父から王都の屋敷に呼び出されて聞かされた話は、オパールを激しく動揺させた。
おそらくヒューバートとの結婚を命じられた時以上に。
もう十年以上前になるが、社交界にデビューしたばかりのオパールを襲ったあの醜聞の際、父の許にクロードが求婚の許可を得るためにやって来たというのだ。
その時の父は、ただの大学生だったクロードを一蹴して追い返したという。
それなのにクロードは三年後、再び父にオパールとの結婚を求めて訪れた。
しかもクロードは男爵家の人間であるにもかかわらず、労働によって賃金を稼ぎ、それを元手に投資で財産を増やしていたらしい。
もちろん父からすればわずかばかりの金額で、オパールの持参金の三割にも満たない程度ではあったが、その心意気に父はかすかに心を動かされたのだとか。
しかし、すでに父はヒューバートと契約を済ませており、オパールの将来は決まっていた。
いくら財産を増やし、オパールの持参金に手をつけずに暮らしていけたとしても、公爵夫人とただの紳士階級の妻とではあまりに違う。
そもそもオパールに助けは必要ない。
そう判断した父がオパールの結婚はすでに決まったと告げると、クロードは小さく祝いの言葉を口にして去っていったらしい。
「――いきなり騎士道精神を発揮した幼馴染みと結婚しても、仲が良いだけではお互いすぐに退屈して後悔するだろうと私は考えたんだ。それよりもお前には公爵家で逆境に立ち向かうほうが性に合っているだろうとな」
「……なぜ今になってお話しくださるのです?」
「お前が二十歳になったら、結婚もせず田舎暮らしをするつもりでいるのはわかっていた。だから無理にでも結婚させれば、私への反発心から意地でも結婚生活が上手くいくよう努力するだろうと考えたのだ。だが、私の判断は大きな間違いだった。お前は私の予想とは違う行動を起こし、七年を無駄にしたのだから。そして結局は田舎で隠居生活を送っている。お前にはまだ別の選択肢があるというのに」
「これが――今の生活が、私の望んだことですから」
ヒューバートと離縁した時も沈黙していた父の告白に、オパールは驚きながらも毅然として答えた。
本当は胸が潰れそうに苦しかったのに。
最後に会ったあの日、クロードはオパールの結婚を祝福してくれた。
もしオパールが意地を張らずに自分の境遇を打ち明け頼っていれば、クロードは助けてくれたのだろうか。
そう何度も考えては、自分の愚かさに呆れてしまう。
白馬に乗った王子様は幼い頃からすぐ傍にいたのに、気付かなかったのは自分自身なのだ。
それなのに苦しい時になって助けを求めるなど厚かましいにもほどがある。
きっと求めていれば、クロードは助けてくれただろう。
だがそれでは、クロードに重い罪と責任を負わせることになっていた。
だから、これでよかったのだ。
ヒューバートと結婚してから七年の間、苦しいことも多かったが、公爵領の者たちは貧しさから抜け出すことができ、ヒューバートは公爵として成長できたのだから。
オパールにとっては頼りなかった弟がようやく独り立ちできたようで、ある種の達成感があった。
当然、二人の離婚は一年近く経った今でも社交界を賑わせている。
社交界で仲の悪い夫婦は数多いが、実際に離婚するなどめったにないからだ。
そしてほとんどの者が、結婚してから七年経ってもまったく妊娠しなかったオパールに対し、公爵が見切りをつけたのだろうと結論付けた。
ところが、それを否定したのがヒューバートだった。
オパールは結婚前に噂されていたような女性ではなかった、と。
そもそも、この結婚は困窮していたヒューバートを救うためにオパールが手を差し伸べてくれた契約結婚であり、結婚後はずっとヒューバートに尽くし、支えてくれたのだ、とも。
さらには、今のヒューバートがあるのもオパールのお陰であり、ヒューバート自身は結婚の継続を望んだが、振られてしまったと、最後は苦笑しながら語ったのだ。
この話を皆が驚きながらも信じるしかなかった。
もちろん疑問に思うことはたくさんあるが、公爵が言うことに異を唱える者はおらず、しかも結婚後のオパールが派手な行動をしているところは誰も見ていない。
それどころか、ずっと公爵領にこもっていたのは確かなのである。
こうしてオパールの名誉は回復されたのだが、オパールにとってはどうでもよかった。
ただヒューバートにはできれば早く結婚して、今度こそ幸せになってもらいたいと思っている。
だがそれも、そんなに難しいことではないはずだ。
今のヒューバートはかなりの資産家であり、社交界では最高の結婚相手とされ、未婚の女性とその母親たちは騒いでいる。
実際、ヒューバートには後を継ぐ子供が必要なのだから、年齢を考えても近いうちに結婚することになるだろう。
どうやら最近のヒューバートは特定の女性と親しくしているらしい。
その女性は若いのに浮ついておらず、しっかりしていると有名なのだそうだが、父が言うには気が強いという表現のほうが正しいそうだ。
「しかも、あの娘にはさらに強力な――気性の荒い母親がいる。あの娘と結婚すれば、マクラウド公爵家はあの母娘に乗っ取られるだろうな」
そう言って笑う父の言葉を思い出し、オパールはため息を吐いた。
問題はステラの存在だ。
ヒューバートはステラのことを妹としか思えないらしいが、ステラは明らかに違う。
新しい結婚相手がステラの存在をどう捉えるか、ヒューバートはどう対応する気だろうかと考えて、自分にはもう関係ないことだとオパールは我に返った。
今は結婚前に決めていたように、祖母の遺してくれた土地にある小さな家で慎ましく暮らしている。
ヒューバートに返した名義変更の書類がどうなったのかはわからないが、ヒューバートが領地や屋敷を買い戻した時のお金は全てオパールに支払われることになった。
それどころか、残りの領地分まで。
叔父に仲介に入ってもらったものの、ヒューバートは頑なに支払うと言い張ったらしく、結局はオパールが折れたのだ。
離婚してから何度か送られてきたヒューバートの手紙には、そのことが書かれていたのかもしれない。
だがオパールは冷たいとは思いつつ、代理人を通して連絡してほしいと封も切らずに全て送り返したので真相はわからないままである。
とはいえ、お金についての決着がついた頃から手紙は届かなくなったので、おそらくそうなのだろう。
そしてオパールは、ヒューバートからの支払金を再びマンテストに投資したのだ。
その利益はマンテストで働く者たちの待遇が改善されるよう使うつもりだった。
良い労働環境が、良い仕事に繫がり、また利益となって還元されるだろう。
それは公爵領で直接目にしたことでもある。
さらにオパールは投資で増やした財産で、女性の自立を支援するための団体を立ち上げるつもりでもあった。
(女性だからってだけで、事業の融資を受けられなかったり、仕事を得られなかったりするのはおかしいものね)
新たな目標を掲げたオパールはやる気に満ちていた。
ただ少しだけ、父から聞いた話で感傷的になっていたのだ。
オパールが改めて強く決意した時、背後から耳に馴染んだ足音が聞こえ、まさかと思いつつオパールは振り返った。
そして息を呑む。
「久しぶりだな、オパール。だが、元気かどうかは訊く必要ないな」
「……ええ。ご覧の通り、木に登るくらいには元気よ。それよりも、久しぶりにもほどがあるわ、クロード」
木の上からでは、クロードの顔はよく見えない。
足音は変わらないのに、声は少し低くなったような気がする。
それとも話し方が変わったせいだろうかと思いながら、オパールはつんとする鼻を押さえた。
「下りてこいよ、オパール。久しぶりなんだから、ちゃんと顔を見せてくれ」
「せっかく登ったのに、どうしてわざわざ下りないといけないの? クロードが登ってくればいいじゃない」
「無茶言うなよ。俺まで登ったら、木が耐えられないだろう? もう昔とは違うんだから」
「……そうかもね」
自分でも可愛くない言い方だと思ったが、泣きそうになっている顔をクロードには見られたくなくて、意地を張ってしまった。
すると、クロードが苦笑しながら答える。
その言葉はまるで二人の今の状況のようで、オパールは上手い返事を思いつかなかった。
昔はよく二人でこの木に登り、並んで遠くを眺めていたのに今はもうできない。
寄宿学校から久しぶりに帰ってきたクロードを、抱きつき喜んで歓迎していた自分はもうどこにもいないのだ。
しかも、父からあの話を聞いてしまった今では、情けなくて申し訳なくて合わせる顔がなかった。
「いいから下りてこいよ。でないと、引きずり下ろすぞ」
「ちょっ、ちょっと! わかったわ! わかったから、やめてよ、クロード!」
オパールの気持ちなど無視して、クロードは木の下まで来ると、昔のようにオパールの足を引っ張ろうとした。
慌てて避けたものの、今度はスカートを摑んで引っ張る。
オパールが降参の声を上げると、ようやくクロードの攻撃は止まった。
下を向けば、にやにや笑うクロードの顔が見え、オパールは先ほどまでの感傷も消えて涙も引っ込んでいた。
無理をすればクロードの手が届かない場所まで登ることもできたが、それはオパールのプライドが許さない。
そんなオパールの性格をよく知っているクロードだからこそ、意地悪く笑いながら下りてくるのを待っているのだ。
「……紳士なら、しばらく後ろを向いていてくれないかしら?」
「どうして? 昔はそんなこと言わなかったじゃないか」
「昔は簡単に下りることができたからよ。でも今は少々手こずるの」
「じゃあ、なおさら見ていないと。危なくなったら助けるよ」
「……ありがとう」
意地っ張りなオパールらしくなく、素直に受け入れたことにクロードは軽く眉を上げたが何も言わなかった。
オパールはスカートの中で膝を立て、慣れた手つきで太めの枝を摑むと体を幹に向けて抱きつく。
どうかスカートの中が見えませんようにと願いながらも、オパールは昔と変わらず大胆に下りていった。
ところが体は昔のようにはいかずに足を滑らせてしまい、クロードの腕がすぐに伸びてきて支えてくれる。
オパールはそのまま軽々抱えられ、そっと地面に下ろされた。
「……ありがとう、クロード」
「まさか本当に助けることになるとは思わなかったよ。腕が落ちたな、オパール」
「腕が落ちたというより、体力が落ちたのよ。私はもうすぐ二十七よ?」
笑いながら答えて、オパールはさり気なくクロードから離れた。
久しぶりに見るクロードは、少年っぽさが抜けてすっかり大人の男性になっている。
とても魅力的になったクロードに比べ、自分がどう見えるのか気になって、オパールは俯いた。
だがこれでは逃げるようで自分らしくない。
そう思ったオパールは顔を上げ、クロードを真っ直ぐ見つめて笑った。
「クロードも元気かどうかは訊く必要はないわね。しっかり助けてもらったもの。本当に、ありがとう」
「ああ、元気だよ。それにしても、そこまで感謝されるほどのことじゃないだろ? どうかしたのか?」
「どうかするわよ。八年近くも連絡がなくて、どれだけ心配したか……。それなのに、お父様とは連絡を取っていたなんて」
オパールは右手を握り締めてクロードの胸を軽く叩いた。
それなのにクロードは避けることもせず、眉を寄せてオパールを見下ろす。
そしてわずかにためらい、口を開いた。
「……聞いたのか?」
「聞いたわよ。あなたが、タイセイ王国のルーセル侯爵だって」




