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20.書類

 

「あ、あなたは……ここまでして、私と結婚生活を続けたいのか?」

「……はい?」


 しばらくの沈黙の後のヒューバートの言葉に、オパールは思わず唖然とした。

 次いで、勢いよく噴き出す。

 あまりに突拍子のない考えに、笑いが止まらない。

 そんなオパールを、ヒューバートもノーサム夫人たちも驚き見ている。

 オパールはどうにか笑いを収め、何度か深呼吸を繰り返してからようやく口を開いた。


「ごめんなさい。あまりに思いがけない言葉だったので、つい……。本音を申しますと、私は結婚当初から、どうにかして旦那様と離縁できないかと考えておりました。ですが、思いとどまったのは、旦那様や公爵夫人という肩書に未練があるからではありません。はっきり言ってしまえば、この屋敷についてもどうでもいいのです」


 言いながら、オパールはロミットやベスへと視線を巡らせた。

 ロミットは暑くもないはずなのに汗をかいており、ベスの目は虚ろで顔には血の気がない。

 

「……ただ私は、何の罪もない領民が――旦那様が一度も顧みなかった領民たちが憐れなのです。私が公爵領へ赴いた時、領民たちは伯爵領と比べてとても貧しい暮らしをしておりました。それも旦那様が信頼していらっしゃるオマーのおざなりな管理のせいです。ここ十数年で農機具はずいぶん便利なものへと変わっているのに、作業をしている者たちは未だに前時代の農具を使い、いらぬ苦労をしておりました。ですから私はこの先、領館にて生活し、領地をしっかり管理していく予定ですので、旦那様がこのまま結婚生活を続けられたいのでしたら、どうぞこの屋敷でお暮らしください」


 羞恥か怒りかで顔を赤くしたヒューバートに、オパールは淡々と告げた。

 そして、ノーサム夫人にはわざとらしく慈愛に満ちた笑みを向ける。


「ノーサム夫人も娘さんと一緒にここに住むことを許してあげるわ。もちろん、出ていくも留まるも自由ですけど」

「何て女だ……。ステラは病人なんだぞ!?」

「ええ。ですから、ここに居候として住んでもよいと申しておりますが?」


 自分でも冷たいとは思う。

 それでもオパールは心を鬼にして、現実を――この屋敷でのこれからの立場をはっきりと明言したのだ。

 もちろん、ヒューバートやノーサム夫人たちが出ていくと言っても、最低限の生活の援助はするつもりだった。

 使用人たちには推薦状だって持たすつもりである。


「わ、私は、ここを……ここを追い出されてしまっては、行く場所などありません……。ですが私はよいのです。ただステラを……ステラだけは、ここに置いてください!」


 涙を流しながら訴えるノーサム夫人の姿は、皆の同情を誘ったようだ。

 オパールは呆れていたが、言葉にはしなかった。

 そこに立ち上がったヒューバートが、夫人をオパールから隠すように庇い立つ。


「私たちは……ステラのためにここに残ろう。ステラをこの屋敷以外の場所に連れていくなど考えられない。だからどうか、あなたの慈悲にすがらせてくれ」


 まるで敵に己の首を差し出す犠牲を払ってでもステラを守ろうとしているような風情で、ヒューバートは懇願した。

 ロミットや家政婦、ベスたちは涙を流し、その様子を見守っている。

 いったいどこの安芝居を見せられているのだろうと、オパールはしらけた思いだった。


「……ですから、ここに残りたいのならかまわないと申しておりますでしょう? ただし、条件はあります」


 ようやく核心に触れることができて、オパールはほっと息を吐いた。

 しかし、ヒューバートたちは首を差し出せとでも言われたような表情になる。

 先ほどの覚悟は――そんなものはいらないが、何だったのかと思いつつ、オパールは続けた。


「公爵家の主治医であるハリソン医師はご高齢のようですので、ステラさんは別の医師にも診ていただきます」

「何を言っているの!? ハリソン先生は幼い頃からずっと、ステラを診てくれていたのよ!? ハリソン先生以外にステラのことをわかってくださるお医者様はいないわ!」


 オパールの上げた条件に、ノーサム夫人が噛みつく。

 たった今まで嘆き悲しんでいたのが嘘のようで、母として娘を守ろうとする姿に、オパールはわずかに心が和らいだ。

 とはいえ、決めたことを変えるつもりはなかった。


「だとしても、診察していただきます。何もハリソン医師を解雇しようというわけではありません。ただ今は、医学もかなり進歩しているのです。しかし、医師の中には昔ながらの治療法にこだわるあまり、救える命も救えなかった、などといったことが起こっているとも聞きます。医師については私が選ぶわけではありませんので、安心してください。旦那様のご友人に紹介していただいた方なら、信頼できるのではないでしょうか?」


 オパールが問いかけるようにヒューバートに視線を向けると、訝しげに目を細めていた。

 まるでその真意を測ろうとするかのように。


「もちろん、医療費は私が負担させていただきます。後はそうね、あなたたちもこのままここに残るつもりなら、働きに見合ったお給金をきちんと払うわ」


 不安そうに立っていた使用人たちに向けてオパールが告げると、数人から「よかった……」と呟く声が聞こえた。

 すぐにロミットに睨まれて口を閉ざしたようだが。


「では、あなたたちはもう下がっていいわ。五日のうちに、これからのことを決めなさいね」


 オパールが堂々と告げると、ロミットたちは一瞬ためらったが、一礼して去っていく。

 そして、居間にはオパールとヒューバート、ノーサム夫人の三人だけが残った。


「さてと、では他のことについて話し合いましょうか」

「まだあるのか?」

「ないほうがおかしいでしょう? 生きていくために、どれだけのお金が必要だと思うのですか? 私たちは恵まれた立場にいますけれど、それでも何もせずにぼうっとしていてお金が湧いてくるわけではないのです。今まで旦那様が何もせずにいらしたために、どれだけのお金が無駄に流れていったのか考えてください。オマーが賭博につぎ込んだお金があれば、旦那様は借金をせず、私と結婚する必要もなかったのです。そして、領民たちに還元できたはずなんです」


 オパールの言葉に、ヒューバートは押し黙った。

 その表情は険しかったが、オパールに向けられたものではないことはわかる。

 おそらく、これまでのことを後悔しているのだろう。

 一瞬同情しそうになったオパールだったが、慌てて気持ちを引き締めた。

 ヒューバートは両親を亡くしたばかりの子供ではなく、もう二十六歳の大人の男性なのだ。

 ここで根性を見せてもらわなければ、どうしようもない。


「先ほども申しましたが、この屋敷は私の所有となりましたので、使用人への賃金や維持費は私が支払います。そして、旦那様たちの生活費――食費や衣服代、医療費も負担しましょう。それとは別に、旦那様は公爵としての交際費なども必要でしょうから、少なくない額面の手当をお渡しします」

「……手当だと?」

「お小遣い、と申したほうがよろしかったでしょうか?」

「あなたは私を馬鹿にしているのか?」

「申し訳ございません。お金のない方にお金をお渡しすることを、どう表現すればいいのかわからなくて……。施す、ではさすがに憚られるかと……私たちは一応夫婦ですから。たとえ全ての財産が妻のもので、共有を認められなくても」


 オパールの選んだ言葉は、まるで愛人を囲うかのような言い方であり、子供相手にしているようでもあった。

 これでもかと貶めるオパールの態度に、ヒューバートは今まで以上に屈辱にまみれた表情になる。

 ノーサム夫人はもうこの場にはいられないとばかりに腰を浮かせ、座り直し、そわそわして扉を見つめていた。

 しかし、ヒューバートは結局、オパールに怒りをぶつけることなく拳を強く握りしめて耐えているようだ。


「旦那様にお渡しするお金ですから、どのようにお使いになってもかまいません。紳士クラブで遊びに興じようと、娼館に通おうと、愛人を囲おうと」

「奥様!」


 淑女にあるまじき言葉を発したオパールを、ノーサム夫人が卒倒しそうな勢いでたしなめた。

 オパールは初めてノーサム夫人に「奥様」と呼ばれたなと冷静に考えながらも、余裕のある笑みを浮かべる。


「仕方ないでしょう? 私は旦那様の妻ではありますが、それは名目上のものです。この先もその関係は変わりませんので、浮気だ何だと申して旦那様を責めるつもりも騒ぐつもりもありません。ただ話し合いが必要なのは、そのようなことではなく、今後のこの屋敷や領地に関することです」

「……何だ?」


 ヒューバートはどうやら怒る気力もなくしたらしい。

 つまらないなと感じている自分は、今まで気付かなかっただけで、本当に性悪なのではないかとオパールは思った。

 だが、これから提示する条件は、オパールの性格には関係ないことだ。


「私の存命中は、この財産を手放すつもりはありません。ただし旦那様に限り、このお屋敷も領地も市場の適正価格でお売りします」

「ですが、それは元々ヒューバートのものなのよ!」

「それが何か? 今は私のものです。こうなったのも、旦那様の甘さが招いたこと。もしオマーが借金を返せなくなり、悪徳金貸しと組んで同じことをしていたらどうなったと思います?」


 抗議する夫人にオパールが正論を返すと、夫人もヒューバートも何も言えないようだった。

 むしろ、この状況でよくもったほうなのだ。

 オパールの父である伯爵もその気になれば、わざわざオパールを結婚させなくてもヒューバートの財産を掠め取ることはできただろう。

 そもそも今のホロウェイ伯爵には、公爵の義父などという肩書さえ必要としないはずだ。


「私は旦那様に毎月、少なくないお金をお渡しすると申しました。そのお金を地道に貯めてお屋敷や領地を買い戻すこともできなくはないでしょう。ですが、それには途方もない時間がかかります。だとすれば、そのお金を元手にさらに増やすことを試みてはどうでしょうか?」

「……お金を、増やす? まさか賭博でか?」

「さあ、それはお任せいたします。賭博でも投資でも。ただ私の管財人は、私の財産を増やすために、私の父に意見を仰いでいるようですね。どこに投資すればいいのか、いつどの時期に資金を引き揚げるべきか……。世間で父は、触れたもの全てを金に変えたと言われる王の再来だとまで噂されているようですから」

「あなたは私に、あなたの父親――ホロウェイ伯爵に教えを乞えと言うのか?」

「それは旦那様次第です。お渡しするお金をどのように使おうと、旦那様の自由ですので。ただ父は、旦那様から頼まれたことを断りはしないと思います。それでは、今晩申し上げたことは、もう一度よくお考えになって五日のうちにお答えをお出しください。私はこれで失礼いたします」


 やっと終わった。

 オパールは今晩のこの茶番を無事に終わらせたことにほっとしながら、屋根裏部屋へ戻るために居間を出た。

 使用人たちは裏階段を利用するが、オパールは二階までは正面の大階段を利用する。

 そのため、二階へ上がって主寝室の前を通ろうとした時、車椅子に座ったステラが廊下へと出てきた。


「やっぱり、あなたは悪魔だわ。私からヒューバートを奪ったばかりか、ヒューバートの財産を奪い、住む場所まで奪おうとするんだから!」

「……奪おうとしているのではなく、奪ったのよ。でも私は優しい悪魔だから、あなたたちに慈悲を与えてあげるの。遠慮はいらないから、どうぞ私に感謝してね」


 ステラの恨み言にもオパールは嫌みで返した。

 内心では体調を崩さないか心配していたが、どうやら大丈夫らしい。

 それどころか、悔しそうに歯を食いしばってオパールを睨む姿は顔色もよく元気そうに見えた。

 トレヴァーの言うように、別の医師に診てもらう提案は正解だったなと思いながら、オパールはにっこり笑って、ステラの傍を通り抜ける。


 そして使用人用の階段を上がって屋根裏部屋へ入ると、部屋は温められ、ベッドにはマットレスが敷かれ、布団は羽根布団に変わっていた。

 おそらくオパール用の客間も整えられているのだろう。

 どうやら何人かの使用人の答えは出たようだと考えながら、オパールは狭いが温かいベッドに疲れた体を横たえたのだった。




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