30.どうして私がこんな目に
(ハァッ、ハアッ……どうして……どうして私がこんな目に……!)
シェリルは国王直々に瘴気浄化の任を与えられ、たった一人で北の大森林に赴いていた。
今は息を殺しながら茂みの中に隠れている。これまでに見たことがないほど凶暴化した魔物たちに追われているからだ。
防御魔法をまともに練習してこなかったせいで、シェリルは強力な魔物に対抗するまともな術を持たなかった。
かろうじて使える初歩的な防御魔法では、すぐに破られてしまう。攻撃魔法も、弱々しいものしか使えない。
かつては玉のように美しく輝いていた顔も、腕も、足も、既に傷だらけで、あちこちから血が流れ出ている。治癒魔法なんて高度な魔法は使えないので、もはやどうすることも出来ない。
(おかしいと思ったのよ……急に護衛を付けなくなるだなんて……!)
ベルンシュタイン領に無断で立ち入り当主の不興を買った罰だとして、今回は護衛を付けずに行けと言われた。
この国でたった一人の光の巫女が死んだらどうするんだと反発したが、まともに取り合ってはくれなかった。
(いつも通り余裕でこなして国王様を見返してやろうと思ったのに、全然浄化できないじゃない……! 何なのよ、この瘴気は……!)
何かがおかしい。
魔物はいつも以上に凶暴化しているし、数も桁違いに多い。北の大森林を通った商人は例外なく病に倒れ、近隣住民にまで病が広がっているらしい。
こんな規模の瘴気は、今までになかった。
逃げ出したくても、魔物がそこら中にウヨウヨいて逃げられない。この茂みから出ることは自殺行為に等しかった。しかし、ずっとここにいてもそのうち魔物に見つかり襲われる。
まさに四面楚歌のこの状況で、シェリルは来るはずもない助けが来るのを祈ることしかできなかった。
その時。
「キィィィィイイイーー!!!」
けたたましい鳴き声が頭上から聞こえたかと思うと、首が弱く絞まり体が中に浮いた。襟の後ろをぐいと掴まれている感覚だ。
そして、バサバサと大型の鳥が羽ばたくような音が聞こえた途端、そのまま体が急上昇した。
「きゃあぁぁぁあああ!」
みるみるうちに大森林が見渡せるほどの高さにまで達し、シェリルはまともに目を開けられなかった。それでも今の状況を理解すべく、恐る恐る上を見上げる。
やはり、鳥型の魔物に襟の後ろを足で掴まれ、そのまま空に連れて行かれたようだ。鷲をそのまま何十倍にも大きくしたような魔物が、バサバサとうるさく羽音を立てている。
(ええと、確か……確かこの魔物は……ええと、何だっけ……)
魔物学の教科書の内容を必死に思い出そうとするも、なかなか思い出せない。どうせ騎士が守ってくれるから関係ないと、まともに授業を聞いていなかった自分を呪った。
(ええと、ええと……思い出したっ! 確かこの魔物は……シュライア、だったはず。それから……)
『シュライアは獲物を上空から叩き落とし、殺してから食べるという習性がある』
教科書の一文を思い出し、思い出さなければよかったと激しく後悔した。思い出したところで、浮遊魔法を使えない自分には対処の仕様がない。
その瞬間、魔物がシェリルの服を掴んでいた力を弱める。
「う、嘘でしょ……」
ズルズルと自分の位置が下がっていく。
「待って待って待って! うそウソ嘘!!」
そんな言葉が魔物に届くはずもなく、シェリルは空中に放り出された。
「いやあぁぁぁぁあああ!!!」
悲鳴とともに、真っ逆さまに落下していく。地面が、すぐそこまで迫っていた。
* * *
アストリアがルカの転移魔法で北の大森林にたどり着いた時、ちょうど上空から女性の悲鳴が聞こえてきた。
ハッとして空を見上げると、まさに落下してきている一人の少女と、そのさらに上空に鳥型の魔物が視認できた。
「ルカ様! シュライアです!」
「任せて!」
ルカはすぐそこまで迫っていた少女に浮遊魔法をかけてから、空に向かって魔法を放ち、一撃でシュライアを撃退した。
少女と地面の距離はわずか数センチ。ルカの魔法が一瞬でも遅かったら、彼女は肉片と化していただろう。
そして彼はゆっくりと少女を地面に下ろした。座り込んだ彼女は恐怖のあまり放心状態だ。
「ハ……ハハ……」
ピンクブロンドの髪はボサボサで、顔がよく見えない。上質な衣服を身につけているものの、至るところがボロボロで、腕や足を怪我していた。
しかし、このタイミングでこんなところにいる少女は一人しかいない。アストリアは変わり果てた姿の妹に、なんと声をかけていいのかわからなかった。
「悪運が強いね、君」
ルカが溜息をつきながらそう言うと、その声に反応したシェリルがパッと顔を上げた。
「ルカ様……!」
彼女の瞳がみるみるうちに希望と安堵に満ち溢れていく。
(シェリル、あなた……)
よく見ると顔も傷だらけだ。深い傷も多い。これでは治癒しても痕が残ってしまうはずだ。
気位の高い彼女に、この残酷な事実は受け入れがたいだろう。
「ルカ様、助けに来てくださったのですね……!」
「違うよ。君を助けに来たんじゃない。アストリアが母国を救いたいと言ったから、僕は彼女を守るためについて来ただけ。アストリアの慈悲深さに感謝するんだね」
ルカが冷たく突き放すと、シェリルがようやくアストリアの存在に気づいた。
「どうしてあんたがここにいるのよ……」
「シェリル。まずは怪我を治しましょう。出血が酷いわ」
アストリアが歩み寄るも、シェリルは火が付いたようにカッと怒り狂った。
「なに!? 私の仕事を奪いに来たの? これは私の仕事なの! のろまなあんたに出来るわけがないじゃない!!」
その時、まるでシェリルの怒りに呼応するように、瘴気がブワッと濃さを増した。周囲の空気が一気に重くなり、アストリアもルカも思わず顔を顰める。
そういえば以前、大瘴気の原因は「人間の負の感情」かもしれないとルカが言っていた。もしその説が本当なら、今の状態のシェリルがこの場にいるのは非常にまずい。
「シェリル、落ち着いて」
「あんたがいなくなってから全部がおかしくなった! ジェフリー様は急に冷たくなって私を避けるようになるし、ちょっとベルンシュタイン領にお邪魔しただけなのに、お父様とお母様はあり得ないくらい怒るし、国王様は護衛の一人も付けてくれなくなった!!」
シェリルは髪を振り乱しながら憎悪の念をぶつけてくる。今の彼女には美しく着飾っていた頃の面影は一切なく、何とも哀れに感じた。
彼女が大声を上げるごとに、濃く黒ぐろとした瘴気が周囲に渦巻いていく。それに伴い、強力な魔物が何体も襲いかかってきたが、その全てをルカが魔法で対処していた。
「シェリル、話を聞いて!」
「うるさい!! 全部、全部、あんたのせいよ!!」
「うるさいのは君だよ! ちょっと眠ってて!」
ルカはチッと舌打ちしてそう言うと、睡眠魔法でシェリルを眠らせてしまった。その隙を突くように、大型の魔物たちが再び襲いかかってくる。
「ルカ様!」
アストリアは咄嗟に防御魔法を展開したが、彼には不要だったようだ。彼は全ての魔物を一撃で的確に打ち倒し、余裕の表情を浮かべている。
「大丈夫。この子、ここにいると面倒だから、ウォーラム公爵家の屋敷に転移させるね」
そしてルカが指をパチンと鳴らした途端、シェリルはその場から消えてしまった。
シェリルがいなくなったおかげか、先ほどまでより瘴気の濁流が収まった気がする。
「魔物の討伐と防御魔法は僕が受け持つから、アストリアは浄化に専念して。絶対に君の邪魔はさせないよ」
「わかりました。よろしくお願いします」
ルカの実力はこれまでに散々見てきた。言われた通り、自分は浄化に専念して何の問題もないだろう。
そう判断したアストリアは、彼に魔物の対処を託すと、いつものように祈るように手を合わせ、目を閉じた。
北の大森林に蔓延る大瘴気は、フレーベル帝国で発生したものよりもずっと強力に感じる。
(これは、丸一日でも終わりそうにないわね)
どれだけ時間がかかるかわからない。途中で魔力切れになって倒れてしまうかもしれない。
それでも、それが浄化をしない理由にはならない。
アストリアは少しでも多くの人々を救うために、心を込めて浄化した。




