29.巫女姫の使命
「ひいっ!」
男はルカと目が合った途端、恐怖に顔を引き攣らせた。するとルカは、横たわった男の頭の近くにしゃがみ込む。
「気づいてないとでも思った? ずっと僕たちの跡を付けてきて、どういうつもり? 君はランドル王国の間者だね。せっかく警告したのに、これはいよいよ国を潰すしかないかなあ」
ルカはニコニコしているが、目が全く笑っていない。これは相当お怒りだ。
(この方がランドル王国の間者ということは、狙いは確実にわたくしだわ。国王様がわたくしを取り戻そうとしている話は本当だったのね)
自分が狙われていたことに、嫌な汗が流れる。ルカがそばにいてくれなかったら、危うかったかもしれない。
すると男はアストリアに視線を移し、必死の形相で訴えかけてくる。
「アストリア様! 国にお戻りください! 大瘴気が発生したのです。お願いします。どうか国をお救いください!!」
(王国に大瘴気が!?)
男の予想外の発言に、アストリアは動揺した。
発生場所はどこだろうか。国民たちは無事だろうか。
あんなに酷い扱いを受けてきてなお、母国を心配してしまう自分がいた。
しかし、大瘴気の情報を知っているということは、彼は国王や宰相から大体の事情を聞いているようだ。
「……アストリアを追い出しておいて、よくそんな厚かましいことが言えるね」
ルカの声は地を這うように低く、冷たく、殺意に満ちていた。表情からは既に笑みが消えている。
「そういうことなら、まずはフレーベル帝国の皇帝に大瘴気の浄化を依頼したらいい。話はそれからだ」
「そんな悠長なことをしていたら、被害が拡大してしまいます!」
「知らないよ、そんなこと。どうせアストリアを連れ帰った後は、あの馬鹿王子と無理やり結婚させて国に閉じ込めておくつもりなんでしょ? 見え見えなんだよ。阿呆が考える薄っぺらい計画がさ」
ルカの言葉にはその全てに棘があった。いつも温厚なルカがこれほどまでに怒っているのを見るのは初めてだ。
(ルカ様がここまで怒ってくださっているのは、わたくしのため……でも……)
たとえ、どれだけ王国から虐げられてきた過去があるとしても、自分には、自分にしか出来ない使命がある。
「発生場所はどこですか? 被害の状況は?」
アストリアが男に問うと、ルカが驚いて目を見開いた。
「アストリア……まさか、このまま助けに行くつもり?」
アストリアは彼の瞳をまっすぐに見つめ、力強く頷く。
「はい」
「君は人が良すぎるよ。あんなに虐げてきた奴らを助けるの? 仮にこのまま見殺しにしたって、誰も君に文句は言わない」
「そうかもしれません。わたくしも、彼らにはあまり穏やかな感情は抱いておりません。でも……それでも、それが人の命を見殺しにしていい理由にはなりません」
アストリアがきっぱりと言い切ると、ルカは俯きながら額に手を当て、大きく息を吐いた。
「君って人は……本当に……」
呆れられただろうか。理想主義者だと。偽善者だと。
見捨てられるだろうか。勝手にしろと、一人で行けと言われるだろうか。
でも、それでも。
自分の使命を放棄して、後悔することだけはしたくなかった。
するとルカは顔を上げ、参ったというように眉を下げた。
「ごめん、僕が間違ってた。自分の性格の悪さを思い知った気分だよ。君の心は本当に美しい」
彼の瞳に慈愛と尊敬の色が滲んでいるのを感じ、アストリアは心から安堵した。決して彼に呆れられたわけではなかったのだ。
しかし、自分は彼が言うように心の美しい人間ではない。打算で動くこともあるし、人を憎む気持ちも持ち合わせている。彼は少々、妻を過大評価しすぎる嫌いがあるのだ。
「いいえ。わたくしはただ、助けなかったことを後悔したくないだけなのです。自分勝手な理由ですわ」
「そんなことないよ。たとえ偽善だとしても、人の命を助けることに変わりはない。自分の奥さんが君のような素晴らしい人で、誇らしくて仕方がないよ」
ルカはそう言って微笑んでいた。
誰かに自分の全てを肯定してもらえるというのは、こんなにも自信と安心が得られるものなのだと、アストリアはこの時初めて実感した。
するとルカは男の拘束を解き、その場に座らせた。
「君、発生場所と被害の状況を簡潔に」
「はっ、はい! 発生場所は北の大森林です。大森林には強力な魔物が集結し、既に多数の被害が出ております。大瘴気の発生を知らず通りがかってしまった商人たちが次々に病に倒れていっており、近隣住民にも病が広がりつつあります」
北の大森林の近くにはレインという大都市がある。病が都市全体に広がれば、被害の程は計り知れない。それに、魔物が都市を襲う可能性だってある。
男の言う通り、正式な手続きを踏んで悠長に対応している場合ではなさそうだ。
「わかりました。すぐに向かい、大瘴気を浄化いたします。しかし、わたくしが王国に戻ることはございませんので、それはご承知おきください」
アストリアが男の目をまっすぐに見てそう言うと、彼は気圧されたように息を飲んだ。そしてわずかにためらった後、今度は彼がアストリアをまっすぐに見据えた。
「……ベルンシュタイン卿の仰った通り、国王様はアストリア様を連れ戻し、ジェフリー殿下と婚姻を結ばせるおつもりです。私は宰相様のご命令で、大瘴気が発生する前からアストリア様を攫う機会をずっと狙っておりました」
自分に与えられた命令の内容を突然話し始めた男に、アストリアとルカは驚いて目を丸くした。恐らくは極秘任務だろうに。
しかし男は憎しみの感情を爆発させ、守秘義務などお構いなしに話し続ける。
「ですが国王様は、大瘴気が発生したというのに、金がかかるかもしれないからと帝国に助けを求めなかった! シェリル様をお一人で大瘴気に向かわせ、一時しのぎで国民を欺いておられる!!」
(シェリルが一人で大瘴気に向かった!?)
大瘴気は普通の光の巫女では対処できない。瘴気への耐性があるため病に倒れることはなくとも、凶暴化した魔物に襲われるのが目に見えている。
護衛の人間を連れていってもすぐに倒れてしまうから、一人で向かわざるを得なかったのだろう。
しかし、シェリルはあまり防御魔法が得意ではない。習得したほうが良いと何度も勧めたのだが、「お姉様と違って優秀な騎士が守ってくれるから問題ないわ」と言って聞かなかったのだ。
そして男は、その目に涙を浮かべながら悔しそうに眉根を寄せた。
「家族が……家族がレインの街にいるのです。既に病で倒れました。国王様に……あんな金の亡者に従うのは、もうたくさんだ。アストリア様があんな国に戻られる必要はございません」
ランドル王国は、度重なる戦争の影響で、ここ数年の間年々貧しくなっている。国王は光の巫女姫の力を金に変えようとしたのだろうが、それはあまりにも浅はかな考えだ。
大瘴気を浄化する代わりに金品を要求する行為は、人質をとって身代金を要求しているのと何ら変わりない。それでは他国から恨みを買うだけだ。
それに、大瘴気は数百年に一度しか発生しないため、金品を受け取れるのも国王の代では今回限りで、持続性がない。継続的に収入を得る方法を考えなければ意味がないのだ。
国の経済を立て直すには、あの国王では力不足なのかもしれない。
そんなことを考えていると、男が地面に額を擦り付ける勢いで頭を下げてきた。
「今まで国民中がアストリア様を虐げてきた事実は変わりません。それなのに今さら救ってくれなんて虫が良すぎる話なのも重々承知しております。ですが我々は、もうあなたに縋るしかないのです。どうか……どうか民の命をお救いください。どうか……」
最後の方は嗚咽混じりになりながら、男はひたすら懇願していた。アストリアはそんな彼の肩を優しく叩き、顔を上げるよう促す。
「正直に話してくださってありがとうございます。お任せください」
アストリアが男の目を見て力強く頷くと、彼は我慢できなくなったようにその場で泣き崩れた。家族を救う道が開かれ、心から安堵したのだろう。
そしてアストリアは、隣にいるルカを見上げた。
「ルカ様。共に来てくださいますか?」
その問いに、ルカはふわりと笑う。
「もちろん。君が望むなら、どこへだって行くよ。愛しい人」




