四十五話 心がボロボロな真守
「…………」
「お、おい」
鈴木紅子は困惑していた。
突然、震える声でろくに喋れない周防真守から呼び出され、心配になって急いで駆けつけたところ、顔を見て早々にブワッと涙を流して抱きついてきたのだ。
その後は紅子の腹部あたりを濡らしながら、無言である。
こんな姿は初めて見た。周防真守は、出会った頃からどこか大人びた雰囲気を持つ少女だった。年相応に不安定に見えるところもあったが、基本的に彼女は気丈な態度であることが多かった。
どんな状況に追いやられても、ここまで狼狽えている姿を見せることはなかったのだ。大人にも、誰にも頼ることなく自分で物事を解決しようとする。心を、誰かにもたれさせることがない。
彼女の欠点だったそれは、しかし今になって紅子にただ『甘える』という形で解消された。とりあえずどうしたものかと紅子は真守の背中を優しく撫でて、落ち着くのを待つ。
「もう嫌だ、何もしたくない。私、戦いたくない。ずっと楽しくしたい、あいつらは嫌いだ」
「……?」
あいつらは嫌い、という言葉に『嘘』が混じっていた。彼女の口から出たということは、おそらく《ネクスト》の事だと思ったのだが……彼女が、彼らに対して好意的な姿勢であったことは一度もないはずだ。
「落ち着け、真守。何があった。私になら、言えるのか?」
ここまで弱った真守は初めて見た。そして真っ先に自分を呼んだということは、彼女にとって紅子は特別な存在だということ。その事実は嬉しいような……どこかむず痒いながらも、小さな背中を撫でていると湧き上がってくる庇護欲から紅子は優しく聞いた。
「……なんて言えばいいか分からない。信じてたとか、そんなんじゃなくて、絶対味方だと思ってたのに、裏切られた」
「誰だ? 潔か? 花苗ちゃんか?」
「私以外誰も知らない人」
紅子は非常に困った。真守の発する言葉が嘘ではないことを考えると───彼女が持つという『未来の記憶』において味方だと思っていた人が実は裏切り者だった……これだ。
「お前の記憶で、味方だったはずの者が実は敵だった。ということか」
「なんでわかるの」
「分かるだろ、もう何年の付き合いだと思ってる」
ぅぅぅ〜、と唸るような声で真守はまた泣き始めた。情緒不安定すぎる。よく考えたら中学生だったな……と思いつつも、なんとも困った状況だと紅子は頭を抱える。
なにぶん、真守がこうなった経験がないからどう相手すればいいか分からない。
(まぁ、今は好きなだけ泣かせようか。真守自身も慣れていないんだろうし)
人を頼ることが苦手な人、というのは一定数いる。そういう人間ほど、いざ自分が追い込まれた時にどうすれば良いかわからなくなるものだ。
ならば紅子ができることといえば、ただ優しく受け入れてやることだ。
しかし、あの真守がここまでなるとは……一体、彼女にとってその味方のはずだった者はどれほどの存在だったのだろう。
「真守、とりあえずここは外だ。一旦うちに来い。家の人には、見られたくないんだろ?」
「……」
紅子が呼ばれたのは、この理由もあるのだろう。真守は、特に潔に対して弱みを見せたがらないところがある。何故か弱い真守の方が、潔の事を守ろうと身を犠牲にするのだ。潔も潔で真守のことは言えないので、姉妹似た者同士である。
無言で頷く真守を車に乗せ、連れて帰ることにした。自分も今日は仕事を上がることにして、その連絡を大観にはしておく。
「夜ご飯はどうする? 食ってくか? ピザでも頼むか」
「……お母さんに言ってない」
「……私から連絡しておくよ。あとで、真守からも連絡してもらうけどな」
紅子は自炊ができないわけではないが、せっかく客人が来るのならという気持ちと、ご飯を用意する時間すら惜しんで真守に寄り添ってやっている方がいいかもしれないという判断である。
そうして家に着いて、ソファに座る紅子にコテンと身を預けてくる真守。なんか猫とか犬みたいだ、と紅子は内心思いつつその頭を優しく撫でる。
周防真守は可愛らしい容姿の女の子だ。胸は年齢にしてはデカいが(おそらく現時点で紅子よりも……)、身長や骨格も小さく、しおらしくメソメソとしている姿はどこか儚げで、普段の気丈な姿を知る人ほどそのギャップにやられてしまいそうなくらい、可愛らしい。
(潔が過保護になるのも、分からんでもないな)
これでいて普段は無鉄砲で無謀な姿を見せてくるのだ、姉である潔も気が気ではないのだろう。
ふと、ベニコのスマホに通知がある。誰だろう? と開いて見ると、そこにはとある人物がこの部屋に来るという連絡だった。
「あー、よりによって今か……真守、今からさ」
「?」
「ちょっと、松太郎の奴が来るみたいなんだけど……断るか?」
従兄弟の松太郎から用事があるので家を訪ねるという連絡だった。彼は頻繁に紅子の家に来るわけではないので、このタイミングは本当に偶然である。
真守は、一瞬考えて……自分の今の姿に気付いたのか少し顔を赤くしつつも、紅子から離れて少し気を取り戻したような顔になる。
「大丈夫、わざわざ用事があって来るのに、断るのは悪いし」
*
随分と、恥ずかしい姿を見せてしまった。
紅子の家に来てからも来る前からもずっと、我ながらメソメソと情けない姿を紅子に見せてしまっていた。
しかし、ようやく心も落ち着いてきた。先程までは何も考えがまとまらないくらい、ぐちゃぐちゃで……我ながら情緒不安定になってしまっていたのだ。
紅子から松太郎がここに来るという話を聞いて、急激に頭が冷えてきた。この身体だから許されるが、少々紅子にベタベタしすぎただろうか……。本人の顔を見る限り、嫌われたりとかそういうのは大丈夫だと思うのだが…….
しかし、俺の精神はやはりこの身体に影響を受けている、ということだろうか。確かに光の裏切りは辛いが、まさかここまで我を失うほど取り乱してしまうとは。
果たして兄の時でも、同じように取り乱しただろうか。
紅子を頼ったのは、自分でも何故かは分からない。だが、俺の事情もある程度知っていて、かつ甘えられる相手が紅子しかいなかったのかもしれない。
「はぁ……」
ため息が出る。
先程までのあまりにも情けない自分の姿を想像して、しかもそれを長い付き合いである紅子に見せてしまったのだ。
「お、来たって」
言ってから数秒、インターホンが鳴り紅子がモニターで返事をしてからエントランスの鍵を開けた。
紅子はオートロックのマンションに住んでいるのだ。またしばらくして、今度は部屋のインターホンが押された。
「紅子ー、これお母さんがお土産にって」
玄関に松太郎を迎えに行った紅子が扉を開けると、クラスも同じことから流石に見慣れてきた幼い(兄の記憶からすれば)彼の姿があり、開口一番に手に提げた紙袋を持ち上げてそう言った。
「おーありがとうありがとう」
お礼を言う紅子の後ろから、なんとなくひょこりと顔を出すと松太郎は俺に気付いて一瞬ギョッとした顔をする。
「え!? なんで真守がいるの!?」
「遊びに来てたんだよ」
「ええ〜……?」
何故か紅子の言葉を疑ってそうな顔を俺に近づけて、ジロジロと不躾な視線をぶつけてくる。
「こんばんは。なに?」
「泣いてた?」
あまりにも無遠慮にジロジロと見てくるものだから少しムッとした声を出してしまうが、その後すぐに松太郎が目を細めてそう言ってきた。何故わかった?
「目とその周りすげえ赤いけど……」
……流石にあれだけ泣けば、目が腫れぼったくもなるか。この年になって号泣したなどと松太郎にバレたのはすこし気恥ずかしく、どう誤魔化したものかと頭を悩ませる。
「なに、紅子泣かしたの?」
「色々あったんだよ」
「また能力がどうこうとかそんなの〜?」
松太郎は紅子が能力者であること、能力者というものがこの世に多く存在する事を紅子から教えられている。
とはいえ、今の彼は能力者とはなんの関係もない一般人だ。紅子も、巻き込むようなことは絶対にしないと言っていた。
能力について教えたのも、むしろ能力者に近付かせない為だとか、
松太郎が未来の時に能力者と戦っていたのは、紅子の死が原因だ。警察に入ったのも、《変革の時》を経てなお炎の能力者である神楽アツキについて、他の能力者について調べていたのも……全て、紅子の死がきっかけだったはず。
だとすれば、いま紅子が死んでいないこの世界で彼はずっと平和な世界を生きる事ができるかもしれない。《変革の時》……それを止めれば、きっと。
徐に松太郎の腰に手を回しギュッと抱き付く。普段嗅ぎ慣れない洗剤の香り、その奥にすこし汗をかいた男の匂い。普通は嫌だと感じそうなものだが、何故だか少し癖になるような、臭いっちゃ臭いけどなんだかもっと嗅ぎたくなるような……。
「えっ?」
「えっ?」
妙にハモった二人の声。
紅子が慌てたように玄関の扉を閉める。松太郎は俺の顔を覗き込む時に玄関の中に半分入っていたし、最後に俺が引き寄せたので今は完全に中にいる。
まぁあれか、急に俺が抱き付くものだから、慌てて隠し───おっ?
「あっ」
自分の口から素っ頓狂な声が出る。
松太郎に抱き付きながら、俺はいま自分がしている事にようやく気付く。いつのまにかこんな事をしてしまっている自分をようやく客観視する。
ど、どうしたものか……。引くに引けず、俺は抱きついたまま硬直してしまう。こう、あれだ。この身体になってからなんだか物寂しい時に誰かに抱きつきたくなる衝動がたまにあるのだ。
今日は特に、そのコントロールができなかったようで、人前で急に同い年の男子に抱き付く変な女となってしまった。
「ちょっ、ちょっちょっ」
松太郎は顔を真っ赤にさせて狼狽えている。一方紅子は目をまんまるとさせながらも、口に手を置いてこう言った。
「お、お前ら付き合ってたのか?」
俺は、松太郎の胸あたりに顔を埋めながら答える。
「付き合ってない」
じゃあなんでそんなスキンシップ激しいの……? ボソリと松太郎から聞こえてくる。
いや、俺ももう普通に恥ずかしいよ。気付いたら人肌求めてこんな事をしていた。でももう、逆に引けない状況なのだ。今離れれば……きっと、顔がすごいことになっている。
兄の精神が吹けば消えそうなくらい消耗している。光の件ではない、今年下の男子に抱きついて甘えているという事実にだ。
今までも寝ぼけて潔に甘えたり、花苗に甘えたらしき形跡があったりした。だが今ここでついに何か一線を越えた気がする。
「ま、松太郎。大丈夫か? その……あれ」
「え!? なにが!?」
「いや……あの、言わない方がいいか」
「なにそれ!? 気になるんですけど!」
頭上で二人がなにやら揉めている。俺は顔を埋めて匂いを嗅ぎながらも、どうしたものかと混乱する頭を回転させる。
「あ……ちょ、ほんともう、真守、あのさ……」
松太郎が非常に困っていると言いたげな声を出してくる。流石にそろそろ離れるか。俺も少し冷静になってきて、開き直ったとも言えるけど真っ赤だった顔も元に戻ってきた気がする。
その時だった。なにやら、もぞりと俺のお腹の下の辺りで何かが動いて押してくる。なんだ? と一瞬考えて───思い至った。
あー……。年頃だもんな。同い年の……まぁ、俺の体って割と凹凸はっきりしてるし、よく考えたら大分押し付けてるしな。
スッと頭が冷えた。それは松太郎に対して失望したとか軽蔑したとかそういう類のものではなく、『それ』が生理現象であるとよく理解しているからこそ、この状況で……従姉妹である紅子の前でそのような醜態を松太郎に晒させた事への申し訳なさ、である。
無言で松太郎から離れて、彼も俺が離れた理由をよく分かっているのか顔を耳まで赤くさせて俯いた。
紅子も、少し腰をひかせている自分の従兄弟を見て複雑そうな表情を浮かべている。憐憫の感情は大きそうだ。
俺は松太郎の両肩に手を置いた。大丈夫、気にしていない。むしろ私が悪いよね。生理現象だから仕方ないよ。と言おうと考える。
しかし、むしろこの言い方は彼を傷付けるだろうか。中学生という多感な時期に、同級生女子と従姉妹の目の前でこんな事になって、俺の発言次第では一生心に傷を残して生きる事になるかもしれない。
だが、俺は普通の女子ではない。だから本当に気にしていないのだ。むしろこちらが申し訳ないと本気で考えている。
「ごめん……」
結局、俺が発したのはそんな言葉だった。
くわっと目を見開いた松太郎は、顔を真っ赤にさせたまま口を大きく開く。
「……なにが!?」
しらを切るつもりか。
しかし俺と紅子はそれに気付きつつも、無言でうんうんと頷いていた。
おまけ
真守(大体これくらいの大きさか……)




