四十四話 辰蔵光
誰かが願った。
「綺麗になりたい」。すると、彼女の肌は艶を増し、顔の造形もわずかに変化する。
「背が高くなりたい」。すると、彼の身長はたった数日で数センチ伸びた。
「好きな人に振り向いてもらいたい」すると、彼女の身体は意中の人の好みに合うように徐々に変わっていった。
「ボールを早く投げたい」すると、彼の脳が出した信号は以前よりも正確に身体の動きとして反映される。
それらは劇的というほどでもないささやかな変化だ。だからこそ勘の鋭い者以外は当事者ですらその変化に気付かなかった。
「夜通し遊ぶ体力が欲しい」すると、彼は今までよりも、より長時間体を動かすことができた。
「言いなりにならない勇気がほしい」すると、彼女は自分がずっと同調していた同級生と距離を置けた。
「論文を早く書き終わりたい」すると、彼は今までにない集中力を発揮して論文を書き終えた。
「生理が軽くなればいい」すると、彼女は他人と比べて重かった生理が格段に軽くなった。
そんな、ささやかながらも心底からの『願い』を叶えていく。彼らに共通するものは、何もない。ただ、普段から願っていたものが、本人達も気付かぬ間に叶っていた。
そんな人間が、増えていく。
願いを叶えた人間。彼らから『増えた種』は、近くにいた人間に乗り移り、その『願い』を代償に『力』を得る。
じわりと、毒のように広まるそれに真っ先に気付いたのは一人の少女だった。
彼女は自身のその能力が故に、己の体内に入った『毒物』に気付くことが出来る。もし麻酔成分の分泌によるものならば体内への侵入前に気付くことができたが、どうやら無痛での侵入そのものは『能力』の範疇らしく……体内に入るまで気付くことができなかったとも言える。
即座に違和感を感じた部位に『尖らせた指』を突き刺し、ソレを抜き取る。ソレは、黒い種子だった。
「これは───」
おそらくだがこれは彼女自身もそれが育った姿を見た、あの黒い花だろう。
彼女は自身の能力として、体内の生成物質を完全にコントロールすることが出来る。故に異物の侵入に気付けるし、その異物が脳へ『能力』で干渉し脳内物質すら操作するものだと分かる。仮に体内に放置していても、彼女はその影響を受けなかっだろう。
「……」
何故、自分にこんなものが?
そんな疑問と共に、ふと気付く最近の出来事への違和感。黒い花が及ぼす影響が頭になければ気付かないような些細な周囲の人間の変化。
種による体内の生成物質の変化。それを記憶した彼女は手当たり次第に『針』を刺し、周囲の人間を調査する。もちろん針による傷は目立たないところで、すぐに塞いでおく。一日もすれば完治する傷だ。
その結果、同年代に比べて冷静であることが多い彼女ですら、顔を引き攣らせる結果が出た。
(とはいえ、どうしたものか……)
この件について詳しそうな『親友』には、自分の能力について明かしていない。故に相談することすらできない。親友の姉に連絡を取って、《対魔》と呼ばれるグループに話してみるのはアリかもしれない。
しかし、これは一体何が起きようとしているのか。彼女にはそれがわからない。それを分かっているのはたった一人なのだ。
*
「そ、そんな生徒は居ない……ですか」
職員室で三年の担当教員を見つけ、俺は『辰蔵光という生徒が何組にいるかを聞いた。
すると返ってきた答えは、そもそもそんな生徒はこの学校の三年には在籍していないとのことだった。
「他の学年にもそんな名前の子いたかなぁ? 加藤先生〜っ」
他の先生に聞いてくれている姿を横目に、俺はどういうことなんだろうと首を傾げる。俺とあいつは、この中学で出会ったはずだった。
例え過去に戻ってきた俺の行動によって未来が変わりゆくとしても、住んでいる場所に校区などがそう簡単に変わるものではないと思う。
結局、『この学校』に辰蔵光は在籍していなかった。まとまりきらない思考が頭の中をぐるぐると回って、自分の席で頭を抱える。
(俺に残る、アイツのかもしれない記憶。そして、そもそも兄の記憶はなぜこの妹の身体に入っている?)
ずっと考えていたこと。でも、答えの出しようがないこと。
この、妹の世界は兄にとっての来世なのか、それとも別の世界線……パラレルワールドのようなものなのか。
とりあえずわかっているのは、基本的に兄の記憶と同じ時間が過ぎていくということ……違いが生まれるのは、自分が関係した事象だけ。
だとすれば、光の通う学校が変わったのは俺が関係している?
それとも光が、『俺に関係している?』
「真守ちゃん、すごい顔してるよ。さっきもまた、あの人探してたよね? 辰蔵光さんだっけ」
いつの間にか横にいた花苗が、心配そうな声でそう聞いてきたので無言で頷く。しかしこの子はよく名前まで覚えていたな。相変わらずの記憶力だ。
「辰蔵?」
花苗と同じくいつの間にか近くにいた九条祥華が突然その名前に反応した。
なんだろう? と俺が顔を上げると、目をパチクリとさせて俺を見ている。
「今、辰蔵光って言った?」
「うん……真守ちゃんが探しているんだって」
花苗は詰め寄ってくるサチカに戸惑いながらそう答える。俺はまさか知っているのか? と思わず立ち上がってしまい、サチカの手を掴む。
「知ってるの?」
「いや、よく似た名前の子を知ってるんだよ。同小でさ」
サチカは、俺と花苗の西小と違って南小だ。
言われて思い出す。光は、南小出身だ!
グッと、ついサチカの手を強く握ってしまう。「いったぁ!!」と教室中に響く彼女の叫び声に、すぐにごめんと謝る。思っていたより力が入っていたらしい。
そのやりとりのせいで教室中から注目を集めるが、花苗といる時間が長いこともあり人の目を集めることにも慣れてきているので俺は気にせずサチカに聞く。
「よかったら、その人のこと教えてほしいんだけど」
*
辰蔵光とは中学校の時に出会い、そのままずっと……死ぬまで、『親友』だった。
潔が殺されてから、おかしくなってしまった俺を見てもずっと……俺と一緒にいてくれた。松太郎と会えたのも光といたからだ。光がいなければ《対魔》のメンバーと会うこともなく……きっと俺は、もっと荒んだ心で兄の人生を生きることになっていたと思う。
潔が殺されて、通っていた高校の出席日数が足りなくなりそうな時も教師に直談判までして在籍させてくれた。
まぁあの時は、《変革》直後で世界が混乱にあったから俺の様に自業自得な人間ばかりではなく、仕方がない事情で俺と同じ様に出席日数が足りない人も多かったので慈悲をもらえたわけだが。
その後も、あの荒れた世で大学まで行き就職まできちんとできたのもアイツのおかげだろう。隙があれば能力者を探しに行こうとする俺を……現実に留めてくれていた。
『お前は人生を、人を殺すためだけに消費するつもりか?』
『俺は既に手を汚している。今更だろう?』
『……この時代は、みんな綺麗とは言えない。俺だってお前を止められて、いない。それにお前のおかげで助かった命もある』
それは結果論だった。妹の俺なら分かる。ただ、あの時の兄は暴れる理由が欲しかっただけだ。
恵まれた体格で、ただただ鬱憤を晴らす為の行為をするのに、『悪性能力者』というのは良い理由になった。
『どうしてお前は、俺を見捨てないんだ』
一度だけ、そう聞いたことがある。
俺は、自覚があった。おかしくなってしまっている。復讐に囚われて、能力者相手であれば誰彼構わず噛みついて、殺そうとする。
断片の記憶しかない妹になりたての時が一番ひどくはあったが……。
その問いに、彼はなんと答えたのだったか。
*
近所で有名な私立の中高一貫校。
俺は公立とは比べ物にならない綺麗な建物を見て、思わず「おおっ」と感嘆の声をあげてしまう。
サチカから聞いた、彼女の知る辰蔵光の情報からここに辿り着いた。かつての彼の成績ではこの様な学校に入れるとは……しかも、出自を考えると特待生でもないと通えないと思うが……。
ちょうど下校の時間なのか、俺の着込む制服よりも高そうな制服を着込んだ生徒達がまばらに校門から出てくる。
俺はそれを遠目に見ながら、果たして目的の人物が現れたとして今の俺に区別がつくのだろうか? と心配になる。
キョロキョロと、同じ制服を着た子達の顔を何度も見て、どんどん不安に駆られていく。しかし、まぁ今日慌てて見つける事情があるわけでもない。何度も来ればいい。
というか、誰かに聞いてみるか……?
その時、視界の端に気になるものが映った。
ぐりんと首を回して『ソイツ』を見る。
少し離れたところで退屈そうに壁にもたれて欠伸をしている、黒髪の男。少し人相が変わっているが、俺は直感で『奴』だと気付く。
陶芸師。
ギリ、と。歯を噛み締めてしまう。
何故、こんなところに? もしやこの学校の生徒を狙っている? だとすれば、髪色と人相は変装のために変えた? そこまでして……なんの目的が。
陶芸師ならば、ただ快楽殺人の為だとしても有り得る。仮に別の目的でも───先に俺が奴を見つけた以上、ここで殺すべきだ。
奴は油断している。見た目を変えたから、いつも以上にだろう。俺が奴に気付けたのも、兄の記憶と妹で相対した記憶、その二つがあるからこそだ。
奴の変装のバリエーション、妹の目で見た奴の身体動作の癖……アイツに対しては、より強い殺意が執着として記憶を根付かせている。
頭の片隅に、もし人違いだとどうする? という冷静な心がある。確かに、万が一はある。だとしたら、ほぼ確実に確かめる方法がある。
「あの、すみません。佐藤さんですよね?」
「……んっ? 俺? 人違───」
声だ。
声帯の変化を、陶芸師はあまりやらない。声音の調整は複雑で元に戻すことが難しいからだ。
「あたりだ」
喉に向けて手刀を繰り出し、不意打ちで喉を突く。
俺は背後から忍び寄り、あえて奴なら反応せざるを得ない『サトウ』という言葉を出し、反応を窺った。
その結果、奴は間抜けな顔で振り向き、俺に気付いた時には既に遅い。
喉を突かれ、反射で身を屈める陶芸師の顔に向けて飛び上がりながら膝を入れる。「グエッ」鼻っ柱に膝が当たり、何かが砕けた感触と共に血が噴き出して頬にかかる。
ゾッと、血の気が引いた。即座に顔を引き、すぐに目の前を陶芸師の手が通過していく。
もう片方の手も、俺を狙って動こうとしている。俺は陶芸師の身体を強く蹴って距離を取った。
着地して奴を見ると、ぼたぼたと血を流す鼻に手を置いてゴキゴキと音を鳴らしながら『元に戻している』。
思わず舌打ちをして、俺は体勢を整えた。
「ってぇ〜……なんだ、真守ちゃんじゃないか」
ゾゾゾ、と背筋が粟立つ。「気安く呼ぶな」と鋭く返して、俺は距離をジリジリと詰めながらポケットの中に入れてあった竹を鋭く加工したお手製ナイフを手に仕込む。
紅子や潔に荷物チェックをされることが増えたので、その辺で拾った竹をコソコソと加工しておいたのだ。
「いきなりひどいじゃないか、てかよくわかったねぇ〜俺今回は何もする気ないし、ただ人待ってるだけなんだからやめてくれよなぁ」
ひらひらと両手を遊ばせながら陶芸師は言う。本人の言うとおり、奴自身は特に何かをしようとしていたわけでないのか、この場から逃げようとしている雰囲気すらある。
「でもまぁ……君は、やる気満々だよな」
しかし俺の顔を見て、ニヤリと口角を上げた陶芸師の顔色が変わる。肌から滲み出す様な殺気。どうやら、気が変わったらしい。
ざわざわと、遠巻きに多くの人がこちらを見ていた。突然、俺の様な少女が大の男に襲いかかったのだ。
衆目を集めて当然だった。だが俺と陶芸師はまるで周囲を気にすることなく、互いに身構える。
「──殺す気で、いくからさ。楽しませてくれよ?」
バン! と陶芸師は強く地面に手を押し付けた。アスファルトを変形させ、杭のようにしたものをこちらに投げつけてくる。
俺は生徒手帳を取り出してそれで叩くように地面に向けてその杭を叩きつけた。その間に、陶芸師は俺に向けて走り出している。
奴の両手は、まさしく必殺だ。触れた位置から数センチ〜数十センチが能力の範囲だと思われるが、人体においてそれほどの範囲を『変形』されれば致命的である。
故に、奴の両手のひらに触れないように立ち回る必要がある。ならば、狙うのはどこか。
伸ばされた右手、俺はあまり姿勢を崩さないようにしつつ───自身の左手を握り込み、奴の右手首を叩いた。僅かに右手が浮き、陶芸師が痛みに眉を顰める。
油断するな、次に伸びてくるのは左手だ。
奴の懐に潜り込むのは、危ない。抱え込まれれば陶芸師の手から逃れる術はなく、一撃でやられる。
だから距離を取る。しかし怖気ついては逆に隙を突かれる。覚悟は決めた。あとは死地に踏み出すのみ!
一歩下がり、陶芸師の左手を迎え撃つように左足をかち上げ、手首の骨を砕くつもりで振り抜くと、パァン! と小気味のいい音を立ててから陶芸師の左手が外へ大きく跳ねた。
身を回転させながら更にもう一歩距離を取る
陶芸師を舐めてはいない。
奴は痛みを堪え、こちらへ踏み込んできた。右手は健在、左手は脱臼したのか僅かに変な角度になっている。上手く決まったようだ。
ここで俺は、右手に隠し持っていた竹のナイフを顔に向けて投げつける。陶芸師は咄嗟にそれを右手で防ぎ、竹のナイフはその手に触れた瞬間に球体になり奴の手に収まる。
ギリ、と。強く歯を噛み締めた。
腹の底から湧き出す、陶芸師への……兄の怒りの炎も共に込めて。
「ハァァァっ!」
強く息を吐き、陶芸師の左太ももに右の前蹴り。ドバァン! と先程よりも大きく鈍い音が響き、「うゴォ!」と唾を撒き散らしながら陶芸師が膝をつく。
力が、湧き出す。
未だかつてない膂力を発揮している自信があった。やけに体に力が入る。一撃で大の男に膝をつかせたのだ。
その勢いのまま足で強く地面を踏み締め、腰を強く捻って肘で陶芸師の顔……眉間と鼻の間を撃ち抜く。
骨を砕く音が俺の芯まで響く。すぐに俺は距離をとって奴の射程から離れた。触れられる位置にいるだけで危険だ。
しかし、陶芸師はそのまま地面に崩れ落ちてぴくりともしなくなった。先程の感触は、かなりクリティカルだった。
(倒した……!)
思わずガッツポーズをしてしまいそうなくらい歓喜の感情が生まれるが、ここで止めを刺さなくてはと思い直す。
周囲のざわつきは激しくなっている。大人と子供の喧嘩。しかも大人は地に伏しているのだ。顔からは少なくない流血をしており、客観的に見て尋常な事態ではない。
だが、人の目があろうと陶芸師は殺さなければならない。例えこの先の俺の人生が台無しになるとしても、ここで奴を逃すわけにはいかない。
一歩、陶芸師の方に足を踏み出して。
横を風が抜けた。
いや、野次馬の中から一人の女の子が飛び出して俺を追い抜いていったのだ。二つ結びにした髪が風に揺れて、少女は陶芸師の側にかがみ込んで、奴の身体に触れる。
「ごめんな、こいつはまだ……必要、なんだ」
知らない女の子だ。知らない顔だ。
だがこちらを見る哀しげな瞳は、よく知っている彼と被って見えた。彼女は一度瞑目して、もう一度俺を見た。
一瞬前の何かを堪えるような瞳とは違う。強い、意志のこもった目だ。
敵意ではない、なのに───俺と、戦う意志。
その瞳にも、やはりと言うべきか既視感があったのだ。
じわりと、視界が滲んだ。何故かは分からない。複雑な、様々な感情が胸の内を暴れて上手く口に出せない。
俺は足を止めて、ただ茫然と彼女を見た。彼女の方も、ただ俺を見ていた。彼女が触れてから、陶芸師の顔から溢れていた血は止まっている。呼吸さえも。しかし死んだわけではない。生気は依然としてある。だが、まるで『時が止まった』ように、陶芸師の身体はその場で《保存》されている。
「真守。私は、こいつをお前に殺させるわけにはいかないんだよ」
「光、なんで私を裏切るの……?」
彼女の口から出た言葉は、耳からそのまま外に抜けていったような気さえする。その言葉のうちに、今まであり得なかったものが混じっていたのにだ。
被せるように俺の口から出たのは、震えた情けない声だった。
見てすぐに、『彼』だと思った。そして、『彼』が陶芸師の側に立ったことも理解できた。
「この───」
だからふつふつと、抑えきれない何かが俺の身体を引き裂こうとしていた。今まで、妹になってから能力者に対して何度も溢れ出してきた怒り。それらを遥かに凌駕する───憎悪にすら似た、激情。
「裏切り者がァァァァァ!」
喉が引き裂けるくらい、拳を握り込みすぎて爪が手に刺さるくらい、俺はその激情に身を任せた。
───『俺は、親友だと思ってるからな』
彼はこともなげにそう言った───
だが、足は一歩も踏み出せなかった。
ポロリと、涙が溢れて視界が酷く滲む。拭いとる気力すら湧いてこない。いつのまにか握っていたはずの拳を解いてだらんと下に垂らしている。
ボタボタと、壊れた蛇口のように涙が溢れて俺の足元を濡らす。嗚咽は出ない、悲しいとか、そういうわけではない。何も、心に感じたわけじゃない。何もない。これはほんとうだ。
でも、涙が溢れて止まらないし、身体はどう動かせばいいか分からない。
「真守……」
滲んだ視界に、彼女の姿がかろうじて見える。その顔は───。
「はっはっはっ……はぁっ……」
逃げていた。
何もかもわからなくなって茫然としていると、『瞬間移動の能力者』らしき若い男とサトウがその場に現れたからだ。
二人の姿を見た瞬間、俺は「逃げなくては」という事だけをなんとか考えることができて、がむしゃらにその場から走り出した。
そして、どれほど走って逃げただろうか。息も上がって、足もガクガクと震えてしばらく休息を取らないと動けそうにもない。
近くにベンチがあったのでそこに座り込み、息を整えようとするが……胸をしゃくりあげるように嗚咽が込み上げてきてなかなか上手く行かない。
思考がまとまらず、ぐちゃぐちゃとした言語化すらできないものが脳をびっしりと埋め尽くしている。
それでもただ一つ、明確に覚悟を決めなければいけないことはちゃんと理解している。
私は、兄の『親友』と戦わなければいけない。
そしてその日は、きっと遠くない。




