二十九話 逸れし者
ドサリ。
男が建物から落下した直後、彼が落ちた階層の壁に大きくヒビが入る。どうやらその原因から逃げた結果、3階程度の高さから落ちる羽目になったらしい。
男は両足で着地したが、お世辞にも運動神経が良くないため右の足首と左の脛をポッキリと折ってしまった。
そのためその場から身動きを取れず、唸るようにうずくまることしかできない。
「あ、あの男か……!」
そんな彼を見つけて、緊張した顔で唾を飲み込む少年がいた。樹々透、《対魔》と呼ばれる組織のリーダーだ。とはいえ───中学生を中心として作られたその組織は、はっきり言ってお遊びに近いものだったのだが。
「そう、あれが『催眠』の能力者……透、私達があの男を……殺さなければ、被害はもっと酷くなる」
未来を視る力──『龍眼』を持つ少女、天子は無表情にそう言うが、かと言って彼女自身も緊張していないわけではない。
殺人、まだ中学生の彼らには荷が重い。だが彼女の能力が今ここでそれを成さないとこの先にある『最悪の未来』へと繋がってしまう、そう『視せている』。
それでも二人にはまだ、人を殺すなんて覚悟を持つことができなかった。
「龍雲寺の『龍眼』。あなたはもう、『視えている』のに動けない。今までも、そしてこれからも」
突然現れたのは同い年くらいの黒い、少女だった。
喪服のような長袖のシャツに、黒いロングスカート。
月のない夜の闇をそのまま切り取ったような髪に、布で隠された瞳。だというのに、その視線ははっきりと天子と透を見通していた。
「あなたの視った『未来』、変える好機は今、失われた」
「ごめんね、君達……サトウくんはまだこちらに必要なんだ」
少女の側には落ち着いた雰囲気を纏う男が居て、しかし凄惨な悲劇の現場であるこの病院においてそれは全くそぐわないものだ。
透と天子は動けなかった。相手の得体が知れないのもそうだし、何より彼らはまだ中学生だ。
経験も、それに伴う判断力も全てが劣っていた。
サトウと呼ばれた男の姿が消えた。
透があわてて周囲を見渡すと、彼の姿はあの少女の足元にある。いつの間にか、新たに自分達より少し上くらいの少年の姿もあり、おそらく彼の能力でサトウを連れ去ったのだろう。
黒い少女が、腕の袖を捲る。その下にあった病的に真っ白な腕が陽にさらされ、彼女はその自らの腕に爪を立てる。
ぴーっ、と。一筋の赤。少女の腕から溢れ出した血が、ポタポタとサトウの顔に振り掛かる。
「『龍血』。始まりの異能──その力は……ッ!」
視えた情報を脳で処理するよりも早く天子はそう口にする。透が何のことだと目を見開くが、天子は既に『現在』を見ていない。
天子の瞳から血が垂れる。それは共振だ。始まりの異能に、二つ目の異能が反応している。発動した『龍眼』が天子に『未来を視らせる』。
「逸れし者の、──
サトウの能力は、過去と現在の記憶及び認識、感情に干渉するものだ。
結論から言うと、透と天子はサトウを逃した。サトウを中心とした半径約一キロメートルの範囲内に居た人間全てに、約一時間の記憶障害があった。
生まれたのは空白の一時間。
その間に、サトウをはじめ荒波や陶芸師……さらには、病院破壊の下手人である兎城は姿を消した。
*
「お前覇気の無い目をしてんなぁ」
「はぁ?」
中学生にしてすでに同年代どころか高校生にも劣らぬ体格だった俺は、同級生からはどこか距離を取られた付き合いをされていた。
そんな中、唯一と言っても良いほど気兼ねなく、気負いなく俺にそんなことを言ってきた奴がいた。
「お前、いきなり失礼なやつだな」
「はっはっは。まぁまぁ……」
自覚はあった。思春期を迎えて将来の夢も希望も特にあるわけではなかった俺は、ただ怠惰に日常を過ごしていたのだ。勉強は怠いがそれなりにやっておかないと将来に響く、どんな将来に? 別に何でも良いや。といった感じに、あの頃は良くも悪くも能天気に考えていた。
そんな失礼なことを抜かしてきた彼の目は、俺の目から見てもキラキラと未来への希望に輝いていた。
自分のこれからの将来は、幸福に包まれているに違いないと確信しているような───いや、そんな目をしている奴なんて『あの時点』ではあいつだけじゃなかったと思うが、俺にはとても羨ましく思えたものだ。
とはいえ
俺は将来何になるだろう? 何を為すだろう? 想像できない自分の未来に、それでも『皆』がいると信じ切っていたあたり───あいつと同じで、俺の瞳も希望に輝いていたんだと思う。
「懐かしい、夢を見たな」
昔の『記憶』を夢に見るときは、大抵が悪夢だ。起きた時に寝汗をビッチョリとかくような、思い出したくもない……けど忘れてはいけない『記憶』ばかり。
だから、『彼』のことを思い出したのは久しぶりのことだった。ずっと気にはかけていた。今は年齢が二つ下になっているから、一年だけ期間が被る中学に上がれば会いに行こうかなんて考えていた。
(サトウの、能力のせいだろうな)
妹として生きるうちに、現在の記憶が強くなっていた。そんなところにサトウは俺の『過去』に干渉してきた。
あいつの能力は『真守』の記憶を改竄することには成功していたが、『真守』の記憶には触れることがなかった為に……俺のことを洗脳することはできなかった。
(これはサトウのやつに対抗する術になるか……? だが……)
そこでふと気付いた。今は、俺はどこにいる? 周りを見渡すと畳の上に布団が引かれていて……木造の、まるで神社や寺などを思わせる造りの部屋で寝かされていたようだ。
(さっきまで、いや、潔が荒波のやつを外に殴り飛ばして、その後……建物が崩れた……?)
その後、潔が自分を庇おうとしたあたりまでは覚えている。だがそこから今に至るまでの記憶がない。
起きあがろうとして、僅かに肋骨が痛む。荒波に蹴られたところだ。ヒビか、下手をしたら折れているかもしれない──と思っていたのだが、今の感覚的にはせいぜい打ち身程度だろうか?
治るにしても早すぎるので、首を傾げる。あのときはアドレナリンが出ていて動けたが、絶対落ち着いた頃にのたうち回ることになると思っていたのに……。
「起きた」
突然横合いから聞こえた声に俺はビクッと体を震わせる。慌てて横を見ると、そこには一瞬目を疑う容姿の少女が正座していた。
白い髪に赤い瞳……そして人形めいたきめ細やかな白い肌。まるで彼女だけ世界から浮いているような、それほど浮世離れした容姿。
「……透の?」
「……私をご存知ですか?」
彼女のことは、何も知らない。
ただ『兄』の時に、透が大事にしていた写真で見たことがあるだけだ。彼と共に写る、彼女の姿を。
変わった容姿だったので覚えていただけで、透本人に彼女のことを尋ねたことはないし、彼は自ら語ることもなかった。
「いや、見た事があるけど……貴方の事は、知らない」
「そう、ですか」
少女は一瞬、目を押さえて俯いた。俺がその様子を不思議に思っていると、気を取り直したかのように顔を上げて先程から動かない無表情のまま口を開く。
「私は、龍雲寺天子。『未来』を視ることができる能力者……それを、人は『龍眼』と呼びます」
そして紡がれた言葉に、俺は目を見開いた。
未来……?
「周防真守さん……私は貴方の全てが見えるわけではない。でもこうして向かい合って分かることがある……貴方は、『未来』を知っている」
未来を見る能力者。そんなものがこの時代にいたのなら、どんな未来が見える? 透との関係は?
そこから推測されること、俺みたいな者でも想像に難くない、彼女と透の関係性。
「そうか、あんたの能力……それこそ、透が《対魔》を作った理由。そしてあいつの戦う理由か」
「貴方は私よりも『先』の未来を知っている。それが指す事実は──私は、『変革』より先には居なかったのですね」
そう。彼女は俺の知る未来に居なかった。
透は、天子……彼女の写真を大事に持っていた。今俺の目の前に居る彼女とあまり変わらない姿の写真だ。
何とも言えず俺と天子が見つめ合っていると、彼女のただでさえ白い顔がどんどん蒼くなっていく。
そして限界が来たのかふらふらしながら立ち上がり、襖を開けてこの場を立ち去ろうとする。
最後に俺に振り返り、脂汗をかいた彼女はこう言い残す。
「どうやら、私は、貴方の近くにいるとあまり良くないらしいです……」
弱々しくそう言われて、少し傷ついた俺は何も返せず黙ってその背中を見送った。
*
「私は、まだ真守ちゃんに能力者だとバレてないので帰りますね」
大きな敷地に建てられた大きな日本家屋の一室にて、岬花苗は畳に正座してソワソワとしている周防潔に対してニコニコとそう言った。
すると射殺すような瞳で睨まれて、花苗は一歩後退りながら苦笑いを浮かべる。
「いや、潔さん的にもその方がいいでしょう? 私は陰ながら真守ちゃんを守る……潔さんが四六時中張り付いているわけにもいかないでしょうに、私なら年齢的にも学校的にも不自然ではありませんから」
「うぐぐ……変なことするなよ」
「変なこと? 私が?」
「真守ちゃんを見る目がたまに怪しいんだよ!」
「言いがかりはよして下さい。ただの、親友ですよ、親友」
「喧嘩はよしてくれよ……」
疲れた顔でそう呟いたのは透だ。呆れた口調ではあるが、顔は憔悴としている。
不動や間壁の……特に不動は左目を失明するほどの大怪我だ。そしてその原因となった能力者達は、透の覚悟が無かったせいで取り逃した。
それに対して、色々と思うことはある。天子から、透には見えない未来の話を聞いただけで……より良い未来のために人を殺すなんて……少なくともまともな神経を持っている透には不可能だ。
未来を視っている天子でさえ、そうだった。
尚、目の前できゃいきゃいと争っている女子二人は例外なのだが、今の彼に知る由もない。
「いや、というか普通にバラしたらいいじゃん。花苗ちゃんも能力者だって、何がダメなの?」
「分かってて言っているでしょう……? 真守ちゃんは、能力者に対して並々ならぬ感情を持ってます……むしろその理由を早く教えてくれませんかね」
「だから正体を明かすのが怖いって? 私はバレちゃったのに! 何で真守ちゃんはあんなに能力者嫌いなの!?」
「だから私が聞いているじゃないですか……」
透にはもはや止める元気もなかった。
そもそも自分の覚悟や仲間の怪我を抜きにしても、あの病院の惨状を見て平常心なんて保てない。
今もテレビをつければあの話題で持ちきりだろう。
怪我人は三桁に達し、死者ですら両手足の指を使ってとてもではないが足りない数──未曾有の、大量殺人事件と言える。
なのに、世間では犯人のことやその事件を起こした方法なんかはまるで見当がつかないらしい。ガス爆発ではないか? という説も出ているくらいだ。
その理由には、おそらく能力が関わっている。この場にいる花苗や潔、そして透も……記憶に曖昧なところがある。
それはあの時周囲にいた人間すべてがそうだった。警察からの事情聴取を受けても、誰もが曖昧な答えしか返せなかったのだ。
天子は、透と二人で殺すことを躊躇った男の能力だと言う。彼の能力を──『龍血』という能力で増幅したのだと。
ガラッ!
透が黒い少女のことについて考え込んでいると突然、襖が勢いよく開けられる。視界の端で花苗が俊敏な動きで身を隠すのが見えた。まるで猫だ。
「……うぷっ」
天子だった。顔を真っ青にしてフラフラと透に抱きつくように縋りつき、ずるずると床に崩れて丸まっていく。
「おい、大丈夫か?」
「ちょっと、酔った……感じ、あの子を前にすると『龍眼』が上手く制御できない」
あの子とは真守のことだろう。潔が僅かに反応し、花苗はもはやどこに消えたのか分からない。
開けられたままの襖から視線を感じて、ふいと顔を上げると……目だけを中を伺うように出した真守の姿があった。
どこか萎縮しながら、ぎこちない動きで中に入ってくる。
「あ、あの……巾木さんと、大吾郎は? 大人の男が二人、いなかった?」
開口一番に言ってきたのがそれだった。大人の男二人……おそらく、今は病院にいる不動や間壁の側に倒れていた二人のことだろう。
「あぁ、あの人達なら、警察だと名乗る人たちが保護してたよ」
「そ、そっか……」
透がそう答えると、ホッとした顔をしてすぐにまたバツの悪そうな顔をする真守。お腹の辺りで指をいじいじと忙しなくさせて、言い辛そうにまた口を開く。
「間壁と──不動は?」
「……病院にいるよ。間壁は皮膚が切れた程度だけど、不動の目は、ダメだと思う」
二人は偶然病院に見舞いに来たところに、あの事件に巻き込まれたという扱いだった。すぐに別の病院に運ばれ、慌てて駆けつけた二人の親の顔と反応を思い出し……透はまた気分が重くなった。
「ごめん……」
「何で真守ちゃんが謝るの」
悲痛な顔で涙を浮かべる真守に、さっきまでとは裏腹に優しい声の潔。すぐに真守の元に近づいて、その大きな体で優しく包み込む。
「いや、私のせい、だと思うから」
「真守ちゃんのせいじゃないでしょ。あいつらはあいつらで、別の目的があってあそこにいたんだから。あとで真守ちゃんの目的も教えて欲しいけどね」
妹以外にはどこか塩対応の潔に透は苦笑いが思わず浮かぶが、真守は潔に慰められても尚険しい顔をしている。
ぐっと、抱きついている潔を剥がし、目線が合わないのでくいくいと服を引っ張って潔を屈ませる。
「潔……潔が、能力者だったことには驚いた。見てて、どんな能力なのかも大体想像がつく」
「う、うん」
妹の真剣な顔に真剣な声色。続きを口にすることを言い淀んでいるようで、真守は口を開こうとは閉じて言葉を選んでいるようだった。一体何を言おうというのか、場にどこか緊張した空気が流れる。
「でも、一つ言わせて欲しい」
そして彼女は、覚悟を決めてこう言った。
「潔、お願いだからあんな身体を傷つけるような戦い方、二度としないで欲しい」
どこかからガタッと転ける音が聞こえた気がした。
神楽アツキ戦を見てた人「えっ?? どの口が!!??」




