三話 斉藤カズオキ
「ふふふ、どうだい? 自分で自分を切り開く様はさ……」
吐き気がした。
ようやく小屋を見つけて中を覗き込むと、既に犯行は始まっていた。手遅れ……いや、まだ女の子は生きている。
口元を抑え、なんとか跳ねる心臓を落ち着かせ溢れ出そうになる胃液を飲み込む。
小屋の中では、記憶よりもずいぶんと若い斉藤カズオキがただ女の子を見下ろしていた。
女の子は『自らの手で持って』、ナイフを使って自分の腹を裂いている。その表情は恐怖に彩られ、言うことの聞かない身体と己が己の身体を傷付けていく様を見せつけられ……今にも狂ってしまいそうな目から涙を溢れさせている。
パクパクと、声を出したいのに出せない様子で、ズブズブとナイフの刃は沈んでいく。
「……っ! そろそろ見えるかい? 自分の内臓、きっと綺麗だよ……大人と違って、まだ汚れを知らないんだ」
斉藤カズオキは、その様子を目を皿のようにして見つめている。興奮しているためか、股間はズボンの上からでも分かるくらい怒張しており、その様子からも只事ではない性癖の持ち主であることが分かる。
「ふ、ふふっ、もう少し、もうすこっ!」
ゴン!
そして俺は、女の子に完全に釘付けになっている斉藤カズオキの後頭部をハンマーで力いっぱい殴りつけた。
勢いのまま斉藤カズオキは前に倒れ、同時に女の子は体の自由を取り戻したようでナイフを慌てて自身の腹から引き抜く。
「ダメだ!」
俺が慌てて声をかけるが、遅かった。ナイフを抜いてしまったせいで傷口から血が溢れ出す。
「ギャァァァァァ!!!」
耳をつんざくような悲鳴をあげて、女の子はナイフを取りこぼし泡を吹いて後ろに倒れた。
俺は急いで駆け寄り、近くに落ちていた布や女の子の服を破いて作った端切れを傷口に押し込む。
しかし血は止まらない。じわりと湧き出るように布に滲み出てきて、このままでは死んでしまう。
「ど、どうすれば……!」
ここから山を降りて、病院に連れて行くことが可能か?
女の子の体格は今の俺と同じくらい、今の体力でそれが可能なのか……?
ガシッと、俺の髪の毛が掴まれた。そのまま後ろに引かれ、小屋の壁に叩きつけられる。
「っかは!」
激しく背中を打ちつけて、空気を全て吐き出してしまう。涙で滲む視線の先に、頭を押さえて立ち上がる男の姿があった。
───斉藤カズオキっ!!?
仕留め、損なった!
床に落ち、そう考えた瞬間……全身を、今まで感じたことのない、『記憶』の中を探っても最大の《痛み》が俺を襲った。
「アァァァ!! ギきャァァァァ!!!」
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!
思考の全てが《痛み》に支配される。身体を抱くように蹲り、ひたすら全身に走る《痛み》に耐えようとする。
気付かぬうちに失禁し、鼻や目からとめどなく液体が溢れ出す。自分でも何を叫んでいるのか分からない、喉が引き裂けそうなほどの声を出していることだけは分かる。
「ぅ……ぅぅ……一体なんだこのガキは……人のお楽しみを邪魔しやがって……頭いてぇ」
『私の能力が人の役に立つのなら、これほど光栄なことはありませんよ』
記憶の中で、対・能力者組織に所属している頃の斉藤カズオキはそう言った。
この《痛み》は、奴の『能力』だ。触れた人間の『痛覚』を完全に支配する、《痛み》を無くすことも……強くすることも自在だ。
この能力を奴は、苦痛に苦しむ人や麻酔の使えない治療をする時に使用していた。
この『痛覚』の支配こそ己の能力だと言って、どちらかと言えば『善人』の集まりである組織内でそう『偽っていた』。
これは、奴の能力のほんの一部だ。
「おお……? 中々可愛い子じゃないか……ふふっ」
泣き叫ぶ俺の姿を見て、気色の悪い笑みを浮かべる斉藤カズオキのおかけで俺の頭の中で少し冷静な部分が生まれる。
歯を噛み締め、苦痛に耐えて、キッと奴を睨みつける。
「まだそんな目を……? 本気の、《痛み》だけどな……いいねぇ」
コイツは、サディストだ。こうして人の、いや……小さな女の子が苦しむ姿を見て悦に浸る変態野郎だ。
奴の目を見ないようにする。『能力』の一つに、目と目が合う条件があるのだ。
それにしても、耐え難い、痛みだ。『能力』のせいか、痛みで気絶することすら叶わない。
いくら虚勢を張っても、体はガクガクと震え、涙と鼻水、そして小便は垂れ流しだ。耐え難い、酷すぎる。
コイツは、こんな、こんな酷い、非道な《痛み》を───まだ小さな女の子に、味わわせていたのかッ!!
許せない。
どの口が、どの面下げて、『悪性能力者』に対して正義漢のフリをできたッ!!
心を焼き尽くさん勢いの憤怒が、俺に力を与えてくれた。酷い痛みを、それを遥かに上回る怒りが身体を動かす力になってくれる。
だが───。
「アァ……ウゥッ……ごめんなさい! ごめんなさい! 許して……痛いの、もう無理……」
俺は情けない声と表情を浮かべて斉藤カズオキに対して、べちゃりと額を床につけて土下座をして懇願する。
「許してください……その子……うぐっ!」
いたみにたえながら、くつじょくてきなすがたをみせるおれに
斉藤カズオキはゆっくりと近づいて来て、俺の顎を掴んで持ち上げた。《痛み》が消える、能力を解いたらしい。
「いけない子だ……」
目が合わない様に下げた視線に、膨らむ股間が目に入る。
斉藤カズオキの顔が、俺の顔に近付いて来た。
「あああっぁグッ!!!」
そして、また《痛み》。苦痛に歪む俺の顔を最後に見て、斉藤カズオキの唇が俺の唇に近付き……。
俺の、心を占める強大な炎が、怒りが、俺の体を突き動かす。
ガチっ。
ぱき、と。俺の頭に何かが割れる様な音が響く。強く強く噛み締めた歯が、欠けてしまったのだろう。
斉藤カズオキの鼻を食いちぎった、その勢いで。
「アアアァァァァァ!」
俺に対する《痛み》が解除される。掴まれていた顔を離され、俺は力無く床に落ちた。
プッ、と奴の鼻を吐き出して、俺は叫ぶ。
「どうだ!! これでお前の能力の一つは封じた! 例え目を見ようと、俺の声を聞こうと! お前は『能力』の条件を満たすことができない!」
斉藤カズオキの能力は『五感の支配』だ。
目が合えば『視覚』を、声を聞けば『聴覚』を、触れれば『触覚』を、舌で舐めれば『味覚』を、そして匂いを嗅げば『嗅覚』を。
そして、その能力の真骨頂は全ての条件を満たした時、その相手を完全に支配下に置ける事だ。
その力で、斉藤カズオキは被害者達に、『自らを解体させた』。
許されざる、蛮行だ。
痛みを与えられた際に思わず叫んでしまったために『聴覚』は既に支配下だ。ならば、声はもう聞かれても変わらない。それくらいならば奴の動揺を誘うために、『能力』の種が明けているのだぞと叫ぶ。
鼻を奪って、『匂いを嗅ぐ』条件を満たせなくなった斉藤カズオキは『能力』の真骨頂を発揮できない。
支配下に置いた『五感』は、対象に対して一度に一つしか操作できない。つまり『触覚』の支配中は『聴覚』を、『聴覚』の支配中は『触覚』を操作することはできない。
痛みは、我慢できる。聴覚を奪われても、『視覚』さえ奪われなければ戦える!
「鼻……はなが……」
ジリジリと下がり、落としてしまったハンマーを持つ。今度こそは、確実に……。
違和感があった。この状況において、斉藤カズオキは俺の『触覚』にも『聴覚』にも干渉してこない。
奴はずっと、鼻を押さえていた。
フッと、まるで何か憑き物が取れた様に動きを止める。
「殺す……」
それはシンプルな殺意だった。
斉藤カズオキが強く踏み込んで、俺のお腹を蹴る。
その動作は、例えば格闘技を習っていた様な動きではなく、俺から見ても素人の蹴りだった。
しかし、『大人』の全力の運動能力に、『今の』俺はまるで反応できずゴム毬のように蹴り飛ばされ吹き飛んだ。
もはや、《痛み》なんてわけがわからない。壁に叩きつけられ、落ちる。つい先程と同じ流れに既視感があるが、事態はそれどころではなかった。
斉藤カズオキの足首が、変な方向に曲がっていた。俺の脳裏に、考えていなかった可能性が過ぎる。
まさか、『自分を対象』に能力を行使した……?
それは、『記憶』にはなかった使い方だ。
ダラリと、俺の鼻から血が垂れた。
急激に耐え切れない吐き気を催して衝動のまま吐き出すと、見たことのない量の血が床に広がる。
ヒューヒューと、うまく息を吸えず喘息のような音が喉から鳴る。床に倒れているのか座っているのかよく分からなくなってきた。
痛みはもはや、おかしくなってしまったのかよくわからない。
視界のほとんどが血のように真っ赤で、しかしかろうじて見えるのが、どうやら奴の蹴りに対して盾として挟み込めたらしい左腕があらぬ方向に曲がっているということ。
「はぁ……はぁ……やりすぎたかな、痛みを消すと、限界以上の力を出せるんだ……どうだったかな?」
戦場にいるかのような耳鳴りがまるで嵐の中で、まるで使い物にならない『聴覚』が何故か斉藤カズオキの言葉を鮮明に拾う。これは、『能力』によって俺に聞かせている?
「ふふ……最高、だよ。君のおかげで気付いた。僕が求めていたのは、本当に求めていたのはこれなんだ。小さな女の子が、その全力を持って僕を殺しにくる。それを返り討ちにした、最高だよ」
再び、顎を持たれて顔を上げさせられた。抵抗できず目と目が合う。『視覚』を操作されたのか視界がクリアになり、奴が手に持ってフリフリと見せつけているものがしっかりと認識できる。
俺の、持ってきたハンマーだ。
「お返しだ」
ごしゃり、無事だった右腕がハンマーによって潰される。
痛みはもはや全身に渡ってどこもかしこも痛すぎてわけがわからないし、体の感覚はそのせいでもはや無いに等しいが、その嫌な感触ははっきりと伝わった。
死ぬ。
もうダメだと、はっきり分かった。
最初から、刃物を持ってくるべきだった。この体の力のなさを分かっていなかった。大人の男に対して、どれほど無力なのかを分かっていなかった。
次はない、ここで俺は死に、また潔を守れない。
自分の思慮の浅さに涙が溢れる。いや、もはや穴という穴からあらゆる体液を垂れ流しているので今更だ。
ゾクゾクと、斉藤カズオキは悦に浸った顔を俺に見せる。
「その顔だよ! 見たかった、絶望に満ちた、最高の表情だ! 君のような『強い』子が、僕に負け! 無様にその命を散らすんだ!」
俺は、強くない。
無様なのは、言う通り、そうだ。
もう一度……もう一度やり直せるなら……。
次こそは必ず、どんな手を使ってでも───。
ゴスっ。
斉藤カズオキが前のめりに倒れる。
後ろから、何者かが棒のようなもので頭を殴ったのだ。それを行なった人物は俺の記憶には一切無い相手で、斉藤カズオキが意識を失ったのを見てからすごく焦った顔で俺に駆け寄ってくる。
「大丈夫か! な、なんてひどい……救急車……」
心底から俺のことを心配するその声が遠くなっていく。まるで真っ黒な沼に沈み込んでいくような、まどろみに落ちていく時のように気付けば俺は意識を失っていた。




