十五話 最期の炎
母が再婚したのは、彼が高校三年生で進学先も決まった頃だった。再婚後、苗字は母の相手の『神楽』になる。
彼は進学を機に一人暮らしを予定していた。その進学費用や新居にかかる諸々の費用も、新たな父は気前よく負担してくれるという。
新たな父を前に、母はとても幸せそうだった。
その時ふと、自身の産みの父親は何をしているのだろう? そう思った。母と自分を捨てて出て行った、非道な男だ。
思い出すのも嫌になる。そのはずなのにやけに気になって、しかし母に聞いてみても一切の情報を教えてくれない。
彼が唯一、産みの父親に対して覚えていたことがある。
それは父親の故郷だ。まだ幼き頃に行ったきりだが、そこには自分の祖父が存命なら住んでいるはずだ。
祖父なら、父の居場所を知っているだろう。そう思って彼はその地を訪ねた。
「お、お前は……アツキ、か」
祖父は、記憶よりもずっと年老いて、しかし元気そうであった。祖母は他界しており、どうやら一人で暮らしているらしい。
彼の姿を見て、すぐに自分の孫だと気付いた祖父は複雑な表情を浮かべた。その表情は何なのか、分かるのはまた次の機会だ。
祖父は、父の行方を教えてくれなかった。
話の途中に近所の人がやってきて「またあの女と子供が来ている」という世間話で盛り上がったから、追及することができなかった。
帰り道、見かけたのは背の高い女の人と小さな女の子だった。この村に住む人間ではない事は見るだけで分かる、そのせいかもしくはまた別の理由か……やけに印象に残っていた。
次に訪れた時、祖父はついに固い口を開いてくれた。
父は、死んでいた。
母は捨てられたのではなく、浮気をして父を捨てた方だった。策を張り巡らし最後は……子供である彼を盾に、父から有利な条件を引き出して離婚していた。
思い出すのは母の瞳。母は、ずっと彼に対して───。
父はその後心を病み、しかし養育費の為に無理をして働いて……祖父が気付いた時にはすでに、無理がたたって死んでいたという。
涙ながらに、そう語られた。一度喋り出すと止まらなくなってしまったのか、意識して言わないようにしていただろうに彼の母への恨みもポツポツと語り出す。
祖母は、母に裏切られ失意の元死んでいった息子である父を思い、壊れてしまったという。完全に正気を失って、そして突然いなくなった後……見つかった時にはもう二度と起き上がる事はなかった。
『あんたは、運が良かったね』
母は彼に対して、ずっとあの時と同じ目を向けていた。だからこそ、それが当たり前だった。彼にはどのみち母しかいなかった。世界は母と、母の連れてくるロクでもない男達だけだ。
「お前に、お前の母のことを悪く言いたくはなかった……! だがあの女は悪魔だ……っ!」
祖父は、振り絞るようにそう言った。彼は何も答えられず静かにその場を去る。何かが燻っていた。そして、それは自覚してすぐに燃え上がる。
彼の力が、より高みに至る。
言葉にできない激情が、彼の心を占めた。それを発散する方法は、幼き頃からただ一つ。彼に宿るその《炎》の解放だ。
そして彼は、目に入った小屋をただ無心で───。
力を行使しようとして、近くに人がいることに気付いて彼は姿を隠した。
「これかな、一番『記憶』に近い気がする」
「……燃えそうな物は多くあるな」
小さな女の子と、女の人の二人組だった。以前にも見かけた二人だ。彼女達は不自然な会話をしており、その内容に彼は思わず眉を顰め聞き入った。
二人の会話の内容を聞いている途中、違和感に襲われる。彼の『能力』はどの段階からかその力を増しており、彼に新たなる感覚を身につけさせていた。
背の高い女。そちらから、自身と『同じ』気配を感じる。
祖父から父の真実を聞き、母の正体を知った時から茹だっていた頭が急速に冷えていく。そして、冷静になった彼の頭は正確に二人の目的を推測した。
───自分を探している。
直感だ。
あの自分と同じ『能力者』の女の人、そして横にいる女の子は、『能力者』である彼を探していると気付いた。それは間違いない、そして……彼女達は、自分の《力》がどういうものかまで知っている。
深い闇から溢れる《欲》に溺れかけていた彼は、一転してその《欲》を掌握した。
自宅に帰り、新婚旅行中で母が不在の静かな家の中で彼はその《欲》を、まるで刃のように研ぎ澄ませた。
至った結論。
母を殺す。この、唯一自分に存在する《特別》で、自身の全てを精算する。
*
人気のない路地を、足を引き摺りながら神楽アツキは進んでいた。彼は息を切らせながら、ただ「失敗だった」と自身の選択した行動をそう評価した。
母を殺すと決めて、真っ先に懸念事項として……自分を探していたあの女と少女の二人組が頭に浮かんだ。
もしも、あの二人が……自分の行動を予測し、そして自分の能力をも凌駕する能力者だったとしたら……彼の宿願とも言える《欲》は果たせないかもしれない。
そこで、彼女達の『底』を知る為に彼から接触した。その結果───余計な痛手を負うことになってしまう。
警戒していた『能力』は彼を止められるようなものでなく、『未来』を知ると言う少女はそれにしては彼の事を読めていないように見えた。
接触さえしなければ、と自身の脚を見る。
何度もナイフを突き刺された大腿部からの出血は酷く、はっきり言って致命的だった。
故に、神楽アツキはその傷口を焼いて止血した。基本的に彼の能力は自身を傷付ける事はないが、自らそう望めば別だ。
大量に失った血液、そして自ら負った広範囲の重度の火傷。今すぐに医療機関で治療をしなければ命に関わる重傷だった。
しかし、彼はそれを選ばない。何故そこまでしたのか……滴る血液による追跡を防ぐ為だ。何故防ぐ必要があったか……それは、今から母を殺しに行く為だ。
神楽アツキにとって、もはや果たすべきものはそれのみ。その為ならば自身の命すらどうでも良かったのだ。
だからあの少女に死に至りかねない傷を付けられた時点で、彼の思考はその場を離脱し母を殺しに行く事に切り替わった。
油断していた、というのは認めなければいけない。女が警察官だと分かった時は、周囲の人間を人質に取れば優位に立てると考えた。自分の能力ならば適当に振るうだけで無辜の市民を死に追いやることができる、女が彼の力を知っているならば充分脅しになると思ったし、実際そうだった。
しかし、彼女は僅かな隙をついて彼と戦う道を選んだ。そこで、彼が油断していたのは少女の存在だ。
無意識に、あの少女を殺す事は躊躇っていた。甘さだと、今ならはっきり言える。まさか炎を越え、更に平然と人間の身体に刃物を突き立てられるとは思っても見なかった。
激しい痛みと、まだ燃えているのではないかと錯覚するほどの熱さを脚から感じながら神楽アツキは先を急ぐ。
「おにいさん」
後ろから、知らない少女の声で話しかけられた。驚いて振り返ると、そこには滅多に見かけないような美少女が立っている。
黒曜石のような綺麗な黒髪を腰まで伸ばし、まだ幼いながらもスラリとした体躯は下手なモデルも顔負けだ。
平時なら、きっと見惚れてしまうくらい可憐な容姿。整った顔立ちに悪戯っ子のような笑みを浮かべ、彼をジッと見つめながら彼女は僅かに顔を傾けた。
だが、強力な『能力者』である神楽アツキには見えてしまう。
目の前の少女が、警察の女や自分自身と同じ《存在》であると。
少女は首に自らの指を置く。トントン、と小さく叩く。その指先は、まるで内側から骨が突き出たように変形しており、細く……まるで針のように尖っていた。
彼の背中に冷たいものが流れる。少女の目がまるで獲物を見つけた猛禽類のように鋭い視線に変わる。
ゴッ。
路地内の空気が急激に上昇する。神楽アツキが右手を伸ばしてその先から炎を少女に向けて放ったからだ。
少女は、彼が炎を放つと同時に地面を蹴った。そのまま、とても人間とは思えない速度で壁を走り彼の懐に一瞬で入り込む。
彼の炎は遠くに向けて飛ばそうとした時、勢いをつける為に手元辺りは収束している。人間離れした加速で炎の影響外である懐まで近付いた少女の指が、彼の脇腹に刺さる。
ちくりと、小さな痛みが走る。
「くぉぉっ!」
彼は苦し紛れに炎を出したまま手を振るった。まるで鞭のように炎が暴れ狂う。しかし少女は足を止める事なく路地の先へ走り去る。それを追うように炎を放つが……突然少女の姿が掻き消えた。
ぐらりと、彼の視界が大きく歪む。吐き気や頭痛が突然彼を襲い、思わずふらついてしまう。
(毒か!?)
しかし気を強く持って彼は少女を追った。路地を抜けた先には大きな下水路があり、そこを歪む視界で覗き込むと大きな波紋が立っている。
どうやら、少女は炎から逃げる為にここへ飛び込んだらしい。
揺れる波紋は水路に沿って向こうへ続いており、何かが水中を泳いで遠くに行ったように見える。
ならば、もうこの場から去ったと思っていいだろう。頭痛と吐き気は酷くなる。一度額を抑えて……神楽アツキは、下水路に向けて炎を放とうと手を翳した。
その瞬間、真下の水面から勢いよく少女が飛び出てくる。その瞳は先程より鋭く獲物を刈り取る肉食獣のようで、しかしその眼光に彼は怯む事なく炎を放つ。
そして、見失った。
───何処へ行った?
首筋に、ちくりとまた小さな痛みが走る。
いつの間にか彼の頭の横で宙返りの格好で浮いている少女が、指を首筋に突き刺してきていた。
何かが自身の身体に注入されている。心臓が激しく動揺し、気付けば膝を突いていた。
それ以上の攻撃はなかった。
いつの間にか少女は彼の側からいなくなっている。霞む視界や周囲の音全てが消えてしまうような耳鳴りの中、彼は自らに確実に歩み寄ってきている《死》を、確かに感じ取っていた。
顔を上げた彼は、神楽アツキは最後に《彼女》を見る。
ここに来て、あのおそらく『毒』を操る少女と極限の戦いを経て、神楽アツキは更にもう一段階……『能力者』として高みに至った。
だからずっと不思議に思っていた、能力者でないはずの少女に感じていた『違和感』を認識できるようになった。
それは、言うなれば『手垢』だ。
未来が見えると言った少女にまとわりつくような、自分よりも余程強力な『化け物』による、『能力』を受けた跡。
*
商店街から姿を消した神楽アツキを探して走り出すと、少し離れたところから炎が立ち上っているのを見かけてそこへ向かう。
すると、水路のようなところの近くで……立っているのもやっとの様子で神楽アツキが居た。
俺が傷付けた脚は酷い火傷の跡を見せていて、強引に止血をしたことが察せられる。だが、その傷のせいだけとは思えない衰弱具合で、俺の事が見えているのか見えていないのか分からないほどの虚な目と俺の視線がぶつかった、気がした。
「……きっと、お前は『俺達』を引き寄せる」
突然、神楽アツキはそう言って地面に座り込んで天を仰いだ。
俺は手の中のナイフをギュッと強く握り、奴に向けて歩き出す。
「人は、殺すもんじゃないよ……クソガキ……」
自嘲気味な笑み。
それが俺の見た神楽アツキの最期だった。
身体中の、ありとあらゆる穴から炎が吹き出した。
神楽アツキの肉体そのものを燃料とするような、まさに命を燃やしている所業。
火柱が立ち上り、俺は呆然と立ち尽くす。火の中の人型は徐々にその輪郭を失い、きっと灰になるまで自身を焼き尽くすつもりなのだろう。
何故なのか、俺には全くわからなかった。自殺なのだろうか、ならば何故このタイミングで?
俺がここに着く前に奴は何かに対して『能力』を行使していた。何者かと交戦していた? ならば息も絶え絶えだったのはその相手に負けたから?
だとしても、何故……そんな何処かホッとしたような顔で自分に火をつけた?
「タカオくん……ごめんよ……」
灰になる前に炎は消えて、真っ黒な人型が地面に崩れ落ちる。
今回の件での被害は決して小さくはなかった。しかし一番の重傷である紅子を庇った鏑木がなんとか一命を取り留めたことで結果的に神楽アツキは、俺の知る範囲では人を殺さずにこの世を去った。『記憶』の中で二桁を超える人数を殺していたことを思えば、快挙だと思う。
しかし俺の中に、不完全燃焼となった何かが残る。
何故かは分かっている。俺が奴を最後に見た時、その時に浮かべた表情だ。神楽アツキにも、凶行に走る理由があったのだろう。
それは他人に理解できずとも、俺には理解できずとも、彼にとってはどうしようもない理由だったのかも知れない。
それでも未来の人の命を救えたのだから、俺にとってはそれで良いはずなのだ。奴に同情の余地はなかった。
ただ最後の悲しげなその顔が、燃えていく姿が少し衝撃的に心に残っただけだろう。こんな同情、最低過ぎる。




